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亡国の侍 異世界転移譚  作者: Lambzono
第一章 砦

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第八話 岩を裂くもの

 低い息遣いは、頭上から聞こえた。


「伏せろ!」


 八郎はミレアの肩を押し、地面へ身を沈めた。


 灰色の巨体が岩壁から落ちる。轟音と土煙。立ち上がった魔獣は熊より二回り大きく、長い前脚に黒い鉤爪を四本ずつ備えていた。灰色の毛皮を覆う石片は、岩壁へ張りつけば見分けがつかない。


 魔獣の目は、シュミの背負い籠へ向いている。


「荷を捨てろ!」


「石は入ってない!」


「鑿に鉱石の粉がある!」


 魔獣が地面を蹴った。


 セレナの風がシュミを横へ押し、鉤爪が籠を裂く。鑿と槌が散らばった。


 返す爪が八郎へ来る。


 借り物の剣は鞘へ引っ掛かり、刀にはない僅かな遅れを生んだ。八郎は抜き切らぬまま鞘ごと受ける。


 革と木が弾け、身体が横へ飛ぶ。


 八郎は一度転がり、膝をついて剣を抜いた。


 セレナの矢は石片に阻まれた。


「正面は通らない!」


「岩裂き」


 シュミが槌を拾う。


「谷の奥で石喰いを割る魔物。弱い場所は知らない!」


 岩裂きが再び動いた。


 今度は八郎へ向かう。


 八郎は剣を右手一本で構えた。重く、切先が僅かに下がる。


 爪を外へかわし、腕の内側へ剣を走らせる。刃は石の鱗へ弾かれた。


「斬れませんな」


「今頃分かったのか!」


 セレナの矢が眉の上へ刺さり、注意を引く。砂塵で視界を奪い、すれ違いざま前脚の裏へ剣を入れた。血が飛ぶ。


 岩裂きの返す爪をセレナが受ける。ミレアの光が脚と肩を支え、押し込まれる力を逃がした。


 魔獣が再び八郎へ向く。


 八郎は斬る考えを捨てた。


 この剣は割る。


 爪の外側へ入り、前脚の関節へ剣の重さを叩き込む。骨へ鈍い衝撃が届き、岩裂きの腕が沈んだ。


 同じ場所へ二撃目を構えた時、魔獣は岩壁へ跳んだ。


 鉤爪が垂直の岩へ食い込む。


 岩裂きが壁を蹴った。


 八郎は走った。


 抜き身の剣が重く、間に合わない。


 セレナが風を放つ。


 だが、岩裂きは先ほどより高い位置から落ちてくる。


 風が巨体を僅かに押しただけだった。


 落下の軌道は、なおシュミへ向かっている。


 八郎は右手の剣を地面へ突き立てた。


 空いた右手でシュミの襟を掴む。


 力任せに横へ投げた。


「何するの!」


 返事をする暇はない。


 八郎の左側へ、岩裂きの爪が迫っていた。


 刀も剣も右側。


 身体を捻っても避けきれない。


 左肩が熱を帯びる。


 存在しない指が開いた。


 地面の砂が跳ねた。


 小石が浮かぶ。


 濡れた土などない。それでも岩の粉と砂が左肩へ吸い寄せられ、肩から肘までを歪な土と石の塊が覆った。


 次の瞬間、岩裂きの爪がそこへ衝突した。


 轟音。


 土塊が砕け散る。


 八郎の身体が地面を転がった。


 左肩に痛みはない。だが衝撃が胸まで抜け、息が止まった。


「八郎さん!」


 ミレアの声が遠い。


 岩裂きの爪は軌道を逸らされ、地面へ深く突き刺さっていた。


 魔獣が腕を引き抜こうともがく。


「今だ!」


 セレナが走り込む。


 剣を両手で握り、岩裂きの肘裏へ突き立てた。


 刃が肉へ入る。


 魔獣が叫ぶ。


 セレナは剣を捻り、傷を広げた。


 岩裂きが空いた前脚を振る。


 セレナは剣を抜いて退いた。


 爪が外套の裾を裂く。


「八郎!」


「生きています」


 八郎はようやく息を吸った。


 胸の奥が痛むが、傷はない。


 八郎は左肩を見る。


 土塊はすでに崩れ、足元へ砂と石が散っている。


 僅かに残った土が、袖から滑り落ちた。


「今のは何だ」


 セレナが尋ねる。


「俺が知りたい」


「父さんの術式は封じられているはずです!」


 ミレアが駆け寄る。


 銀盤を八郎の肩へかざす。


 石が激しく明滅した。


「敵が先です。後で診てください」


 岩裂きが爪を地面から引き抜いた。


 負傷した前脚を庇いながら、四人を見回す。


 獲物を狙う目は、自分を傷つけた敵を殺す目へ変わっていた。


「来るぞ」


 セレナが言う。


 ミレアは銀盤をしまった。


 八郎は地面へ突き立てた剣を引き抜いた。


 刃は欠けていない。


 土に刺したため汚れているが、まだ使える。


 岩裂きの右前脚から血が流れている。


 傷は深い。


 しかし動きを止めるほどではない。


「倒せますか」


 シュミが槌を握って立ち上がった。


「難しい。追い払う。八郎、壁へ登れなくするため、もう一度前脚を狙え」


 セレナが即答した。


「既に嫌われているようです」


 八郎は剣を構えた。


「死ぬな」


 八郎が前へ出る。


 岩裂きが低く唸った。


 八郎の姿を追っている。


 八郎は正面からゆっくり近づいた。


「こちらです」


 言葉が通じるとは思わない。


 だが声へ反応し、岩裂きが牙を剥いた。


 八郎は剣先を僅かに上げる。


 攻撃の意志を見せる。


 岩裂きが地面を蹴った。


 八郎は爪の間合いまで避けなかった。


 魔獣が前脚を振り上げる。


「今だ!」


 セレナの声。


 八郎は身体を右へ開いた。


 爪が胸元を掠める。


 剣を両手では握れない。


 代わりに右腕だけで大きく振り、腰ごと魔獣の左前脚へぶつけた。


 剣身の平に近い部分が関節へ当たる。


 鈍い音。


 岩裂きの脚が曲がった。


 八郎の右手が痺れる。


 剣を落としそうになる。


 それでも柄を離さなかった。


 魔獣が倒れ込む。


 八郎は転がって逃げる。


 背後で爪が岩を削った。


「二本とも傷つけた!」


 セレナが叫ぶ。


「だが、まだ動く!」


 岩裂きは前脚を庇いながら立ち上がった。


 壁へ飛びつくが、傷ついた腕に力が入らず滑り落ちた。


「登れない!」


 シュミが言った。


「それで、どうする!」


「採掘場まで誘う!」


「すぐ先に、岩盤の割れた古い切り出し場がある」


 セレナが一瞬考える。


 岩裂きは再び八郎へ向き直っている。


「案内しろ!」


「私が先?」


「走れ!」


 シュミが採掘道具を抱え、谷の奥へ走る。


 ミレアがその後を追う。


 セレナは八郎の横へ並んだ。


「魔獣を連れていく」


 岩裂きが咆哮する。


 八郎とセレナは同時に走った。


     ◇


 採掘場は、谷道が僅かに広がった場所にあった。


 階段状に切り取られた岩壁へ古い坑道が口を開け、朽ちた木材や錆びた軌道が残っている。壁の一部には縦横に亀裂が走っていた。


「あそこ!」


 シュミが脆くなった斜面を指した。


「昔、表面だけ切って放置した場所。下を崩せば上も落ちる!」


「どれほど落ちる」


「十二年前の跡よ。今どれほど落ちるかは、岩に聞かないと分からない!」


 シュミは亀裂へ駆け寄った。


 腰の槌で岩を数か所叩き、音を聞く。


「ここは駄目」


「詰まってる。こっち」


 シュミは少し横へ移動した。


 岩壁の下部から砂を払い、小さな亀裂を見つけた。


「鑿!」


 地面へ道具を広げる。


 細口の鑿を選び、亀裂へ差し込んだ。


 槌を振る。


 高い金属音が谷へ響いた。


 槌が二度、三度と落ちる。


 鑿が少しずつ岩へ入る。


「ミレア、シュミを守れ!」


「分かっています!」


 ミレアは杖を地面へ突き立てた。


 淡い光がシュミの周囲へ広がり、薄い膜となる。


 岩裂きが採掘場へ入ってきた。


 前脚を引きずりながら、それでも人間より速く迫る。


「配置!」


 セレナが叫ぶ。


「八郎は中央! 私が右! 斜面の前へ誘導する!」


 八郎は剣を正面へ向けた。


 痺れの残る右腕を、自分で保たせるしかない。


 岩裂きが八郎へ向かう。


 八郎は斜面を背にして立った。


 魔獣には、逃げ場がないように見えるはずだ。


「来い」


 八郎は剣先を揺らした。


 岩裂きが突進する。


 長い前脚が振り上げられる。


 八郎は斜面へ向けて後退した。


「まだだ!」


 岩裂きの爪が落ちる。


 八郎は左へ跳んだ。


 爪が地面へ刺さる。


 魔獣の勢いは止まらない。


 そのまま斜面の下部へ肩から衝突した。


 岩壁が揺れる。


 細かな石が落ちる。


「シュミ!」


「まだ!」


 シュミが槌を振る。


 鑿が半分まで入っている。


「もっと深く!」


「どれほどだ!」


「あと指二本!」


 岩裂きが身体を起こした。


 致命傷にはならず、岩裂きは八郎を見失って周囲を探す。


 セレナが矢を放った。


 矢が岩裂きの右耳へ刺さる。


 魔獣が振り向く。


「こちらだ!」


 セレナは斜面の反対側へ走る。


 岩裂きが追う。


「戻します!」


 八郎は岩裂きの横へ駆けた。


 剣を振り上げ、傷ついた前脚へ叩きつける。


 一撃で顔を向けさせ、二撃目は鼻先を剣の平で打つ。


 岩裂きが怒声を上げた。


 岩裂きが八郎へ爪を振る。


 八郎は後ろへ下がる。


 斜面へ。


 魔獣が追う。


 セレナが横から風を当て、岩裂きの身体を僅かに斜面側へ寄せる。


 岩裂きが飛びかかる。


 八郎は斜面の直前まで引きつけた。


 爪が右肩へ迫る。


 避けるには遅い。


 左肩の土塊はもう出ない。


 八郎は剣を縦に立てた。


 爪が剣身へ当たる。


 金属が軋む。


 右腕が押し込まれる。


 刃ではなく剣の幅で受ける。借り物の厚い剣だから保った。


 八郎は歯を食いしばり、爪を斜面へ滑らせた。


 岩裂きの身体が八郎の横を通る。


 巨体が再び斜面へ衝突した。


 亀裂が広がる。


「今だ!」


 シュミが槌を振り下ろした。


 鑿が根元まで入る。


 乾いた音。


 斜面の奥から、低い亀裂音が返った。


 だが岩は落ちない。


「なぜ!」


 シュミが鑿を揺らす。


「上で噛んでる!」


「もう一度打て!」


「この槌じゃ足りない!」


 岩裂きが斜面から身体を離す。


 八郎の姿を見つけた。


 すぐに襲いかかろうとする。


「八郎、離れろ!」


 セレナが叫ぶ。


 だが八郎は魔獣ではなく、岩へ刺さった鑿を見ていた。


 フェーン工房で見た、金床と槌。道具の役目は違っても、打つ場所は分かる。


 八郎は岩裂きへ背を向けた。


 鑿へ向かって走る。


「何をしてるの!」


 シュミが叫ぶ。


「そのまま押さえて、手を離すな!」


 右手だけで剣を逆さにし、重い鍔と柄頭を槌の代わりにする。


「剣で打つ気?」


「ほかに重い物がありますか!」


 岩裂きの足音が迫る。


 セレナが風を放つ。


 魔獣の前へ砂塵が巻き上がる。


「早くしろ!」


 八郎は柄頭を鑿へ叩きつけた。


 一度。鈍い音とともに鑿が沈む。


「もう一度!」


 シュミが叫ぶ。


 二度目。革巻きが裂け、鑿がさらに入る。


「あと一つ!」


 岩裂きが砂塵を抜けた。


 セレナが正面へ立つ。


 剣を構える。


 止められる時間は短い。


 三度目。鑿が岩へ埋まる。


 斜面の奥で、大きな音がした。


 岩裂きがセレナへ爪を振る。


 セレナは剣で受ける。


 膝が沈む。


 ミレアの光が彼女の背へ走る。


「今です!」


 シュミが鑿から手を離した。


「全員、離れて!」


 八郎は剣を持ったまま、シュミの背を押す。


 二人で斜面から離れる。


 セレナも魔獣の爪を流し、横へ跳んだ。


 ミレアが杖を引き抜く。


 岩裂きだけが斜面の下へ残った。


 一瞬の静寂の後、岩壁の上部が沈んだ。小石に続き、人の胴ほどある岩塊が落ちる。


 逃げようとした岩裂きは傷ついた脚を滑らせ、背へ岩を受けた。轟音と土煙が谷を満たす。


 音が止むと、巨体の半分が岩に埋まっていた。それでも生きており、残った脚で採掘場の奥へ逃れようともがく。


「とどめを」


「追わない。目的は討伐ではない」


 セレナが制した。


「勝ったのでは」


「勝ったと思う者から死ぬ。私たちも逃がされたと思え」


 岩裂きは低い唸りを残し、奥へ消えた。


 八郎は剣を地面へ立て、息を吐いた。


 右腕は震え、柄を強く掴めない。


 ミレアがすぐに近づいた。


「手を開いてください」


「まだ動きます」


「動くかどうかを診るのは私です」


「なら従ってください」


 ミレアは八郎の右手を取り、指を一本ずつ開いた。


「筋が傷んでいます」


「切れてはいない?」


「切れる寸前です」


 ミレアは右腕へ掌を当てた。


 淡い光が筋に沿って走る。


 痺れが少しずつ引いていく。


「治していません。一時的に固定しただけです。今夜までは重い物を持たないでください」


「次は左肩です」


 八郎の表情が僅かに変わった。


「何も残っていません」


「土の話ではありません」


 ミレアは銀盤をかざした。


 中央の石が強く光る。


 先ほどまでと違い、一定の光を放ち続けている。


「残留術式が広がっています」


「どこへ」


「肩の周囲だけだったものが、胸と背へ」


 セレナが近づく。


「危険なのか」


「分かりません。分からないものを、分かったとは言えません」


「アルヴァン不在で土が集まった。八郎が動かしたのか?」


「分かりません」


 八郎は存在しない左手を握ろうとした。


 指の感覚がある。


 土腕が砕けた後にも消えていない。


「俺が動かしたのではありません」


「断言できますか」


 ミレアが尋ねる。


「腕が出るとは思っていなかった」


「無意識なら」


「それは自分では分かりませんな」


 シュミは崩れた斜面の方へ歩き始めていた。


「どこへ行く」


 セレナが呼び止める。


「岩を見る」


「崩れたところに、採掘面が出てる」


 八郎も剣から手を離し、シュミの後を追った。


 崩れた斜面の手前で、シュミは膝をついた。


 新しく露出した岩肌には、薄い白筋を挟んだ青灰色の層が斜めに走っていた。


 シュミは指先で砂を払う。


 小さな槌で岩を叩き、音を聞く。


「どうです」


 八郎が尋ねる。


 シュミは答えず、小刀で削った粉を指で潰し、爪へ擦りつけた。


「これ」


 声が僅かに震えた。


「ベズラス石?」


「うん」


 シュミは立ち上がった。


 先ほどまでの反抗的な顔ではない。


 職人の目だった。


「表面は風に焼けてない。粒も細かい。刀の硬いところを削っても、地の柔らかいところだけ減ることはないと思う。日本の刀なんて初めて見るから、絶対とは言えないけど」


「それで十分です」


「父さんなら、もっと確かに言う」


「ここにいるのは貴女です」


 シュミが八郎を見る。


「それ、慰めてる?」


「事実を申しました」


 シュミは再び岩へ向き直った。


「必要な大きさは?」


「俺には分かりません。研ぐのはガルド殿です」


「父さんなら、大きめを欲しがる」


「では大きめに。貴女なら採れるのでしょう」


 シュミは少しだけ口元を上げた。


「当然」


 その時、セレナの声が飛んだ。


「触るな!」


 シュミの手が止まる。


「何」


「右側を見ろ」


 青灰色の層のすぐ隣、崩れた岩の奥から光を吸うような黒い筋が露出していた。


 表面には鈍い紫色の脈が走り、心臓の鼓動のようにゆっくり明滅している。


「黒魔石」


 ミレアが呟いた。


 セレナは二人を下がらせる。


「半年前にはなかった」


 セレナは黒い筋から距離を取り、地面へ視線を落とした。


 岩裂きが流した血が、細い溝を通って黒魔石の近くへ達している。


 血へ触れた部分だけ、紫色の光が強くなっていた。


「血を吸っている?」


 シュミが言う。


「魔力をだ」


 ミレアが銀盤を黒魔石へ向けた。


 針が激しく震える。


「岩裂きの血に含まれた魔力を吸収しています」


「岩裂きは、汚染に生息域を追われたか、黒魔石へ引かれて来たのかもしれません」


「どちらにしても、これが谷の異変と関係している?」


「可能性は高いです」


 八郎は黒魔石を見た。


 左肩が再び重くなる。


 先ほどより強い。


 存在しない指が勝手に開いた。


 地面の砂が僅かに揺れる。


「八郎さん、下がって」


 ミレアが八郎の前へ出る。


「反応している」


「何に」


「黒魔石です」


 銀盤の光が緑から濁った灰色へ変わった。


 八郎が一歩下がる。


 地面の砂が止まった。


 もう一歩。


 左肩の重みが弱くなる。


「間違いない」


 セレナが言った。


「アルヴァンの残留術式と黒魔石が、互いに反応している」


「なぜ」


「それを調べるのが私の仕事だ。試料を取る」


「危険です」


 ミレアが言った。


「触れないよう、少量だけだ」


 セレナは背の荷を下ろし、厚い革袋と銀製の挟み具を取り出した。


「北辺では、黒魔石が見つかること自体、珍しくなくなった」


 セレナは黒魔石へ近づいた。


 紫色の脈を避け、端の小片を挟む。


 力を加える。


 黒い石片が乾いた音を立てて割れた。


 その瞬間、八郎の左肩へ鋭い熱が走った。


「――っ」


 八郎は膝をついた。


「八郎さん!」


 ミレアが駆け寄る。


 左肩から胸へ、何かが流れ込む。


 土腕を作られた時と同じ、存在しない場所を内側から撫でられる感覚。


 地面の小石が一斉に浮いた。


「石を戻せ!」


 ミレアが叫ぶ。


 セレナは採取した黒魔石を革袋へ入れ、口を閉じた。


 銀の留め具を掛けると、紫色の光が遮られる。


 浮いていた石が落ちた。


 八郎の肩から力が抜ける。


 ミレアは八郎の顔を覗き込んだ。


 瞳、脈、呼吸を次々に確かめる。


「左肩の感覚は」


「あります」


「ない腕に?」


「ええ」


 八郎は幻の左手を握った。


 見えず、触れられない。それでも指の一本一本が、以前より鮮明に動く。


「まずいですな」


「なぜ」


「腕があるように思える」


 ミレアの顔が険しくなる。


「今までも幻肢感覚はあったのでしょう」


「ありました」


「違いは」


「今なら、何かを掴めそうです」


 八郎は地面へ落ちていた小石を見た。


 左手を伸ばすつもりで意識を向ける。


 小石が僅かに転がった。


 誰も声を発せず、八郎も動きを止めた。


「もう一度」


 セレナが言う。


「駄目です」


 ミレアが即座に遮る。


「確認のために壊れたら意味がありません」


 ミレアは八郎へ向き直る。


「動かさないでください」


「俺が動かしたのかも分かりません」


「だからです」


 シュミは小石と八郎の空の袖を見比べた。


「腕を作らなくても、土を動かせる?」


「まだ決まっていません」


 ミレアが強く言う。


「今のことは、アルヴァン先生の前で再検査します」


「それまで」


「試さない」


「俺の意思は」


「ありません」


「またですか」


「今回は特に」


 セレナは封じた革袋を背の荷へ収めた。


「採石はできるか」


 シュミへ尋ねる。


「黒魔石から離れた部分なら」


「必要最小限にしろ。黒い筋へ近づくな」


 シュミは採掘道具を拾った。


 その中に、自分が持ってきたものではない鑿が一本混じっていることに気づいた。


「これ」


「どうした」


 八郎が尋ねる。


「祖父ちゃんの鑿。入れてないのに」


 シュミは、黒く擦れ、何度も研ぎ直された鑿を両手で持った。見送りにも来なかったゴラムが、いつの間にか入れたらしい。


 シュミはしばらく古い鑿を見つめた。


 やがて、腰の槌を抜く。


「道具は使うためにある」


 シュミはベズラス石の層へ鑿を当てた。


 表面を叩き、音を聞き、位置を変える。


 先ほどまでの荒々しい槌使いとは違う。


 軽く、細かく。


 岩の内側へ問いかけるような打ち方だった。


「父さんは音が低くなる場所を探す」


 シュミが言った。


「祖父ちゃんは、音が消えるところを探す」


「貴女は」


「まだ分からない」


 槌を止め、鑿を僅かにずらす。


「だから両方やる」


 八郎は黙って見ていた。


 五度目の音で、シュミの手が止まる。


「ここ」


 鑿を薄い層へ差し込む。


「少し離れて」


 三人が下がる。


 シュミは槌を振り上げた。


 一撃で鑿が入り、二撃目で亀裂が走り、三撃目で平たい石が剥がれ落ちた。


 シュミは地面へ落ちる前に両手で受け止めた。


 肘から指先ほどの長さ、指二本分の厚みで、粒が細かく揃っている。


「どうです」


 八郎が尋ねる。


 シュミは縁を削って粉を確かめ、ミレアへ渡す。


「見て」


 ミレアが銀盤を近づけた。


 中央の石は淡く光るだけだった。


「黒魔石の反応はありません」


「少し割る」


 シュミは石の端を鑿で落とした。


 断面をミレアが測る。


「変化なし」


「使える」


 シュミはようやく息を吐いた。


「これなら父さんも、最初に文句を言うだけで済む」


 シュミは採れた石を厚い布で包んだ。


 背負い籠へ入れようとして、切れた革紐に気づく。


「籠が」


「こちらへ」


 八郎が右手を差し出す。


「駄目です。筋肉が切れれば、刀を持てなくなります」


 ミレアが言う。


 セレナが布包みを受け取った。


「私が持つ。黒魔石と接していた可能性がある証拠品だ。観測局で確認する」


 セレナは包みを自分の荷へ入れた。


 八郎は抗議せず、地面へ横たわる借り物の剣を見た。


 鞘は裂け、柄の革も一部が傷んでいる。


「右腕は使わせません」


 三人の視線がセレナへ集まる。


「見るな」


「隊長ですから」


 ミレアが言った。


「調査官でしょう」


 八郎も続ける。


 セレナは三人を順に見た。


「……剣だけだ」


「鞘も」


「壊れている」


「それでも借り物です」


「誰が壊した」


「受けなければ、俺が壊れていました」


 セレナは剣と裂けた鞘を拾った。


 自分の荷へ括りつける。


「帰ったらガルドへ説明しろ」


     ◇


 採掘場を離れる前に、セレナは岩裂きの血と石喰いの外殻も少量採取した。


 ミレアは黒魔石の位置を地図へ記す。


 シュミは採掘面へ小さな印を刻んだ。


「何の印です」


 八郎が尋ねる。


「使える石を採った場所。汚染が止まれば、また来る」


 シュミは黒い筋を見た。


「ベズラス石は、ここ以外でも採れるのでしょう」


「昔は。今は分からない」


「見つけられますか」


「できる」


 シュミは即答した。


 八郎は頷く。


「なら問題ありませんな」


「その言い方、祖父ちゃんに似てる」


 帰路につく前に、セレナが四人を集めた。


「岩裂きが戻る前に谷を出る。休憩は谷口までなし」


「歩けるか」


 セレナが尋ねる。


「ええ」


「剣は持たせない」


「承知しています」


「左肩に変化があれば」


「今度こそ、すぐ伝えます」


「信用できないな」


 三人の声が重なった。


 八郎は空の左袖を見た。


「皆、俺を疑いすぎでは」


「貴様が報告しないからだ」


 三人がそれぞれの理由で八郎を見ている。


 治療師、調査官、鍛冶師。誰一人、八郎を慰めようとも、守られるべき男として扱おうともしていない。


 ただ、自分の仕事に必要なことを言っている。


 八郎には、その方がありがたかった。


「分かりました」


 八郎は素直に答えた。


 セレナが意外そうな顔をする。


「今日は早いな」


「理にかなっていますので」


「いつもそれだ」


「大事なことです」


 四人は採掘場を後にした。


 先頭はセレナ、次にシュミ、八郎。最後尾のミレアは、八郎の様子を後ろから見ていた。


 谷の出口へ向かう途中、八郎は一度だけ振り返った。


 崩れた岩壁、露出した黒魔石と岩裂きの血。その隣を青灰色のベズラス石が走っている。


 刀を直すための石と、北辺を蝕む黒い鉱石。


 二つは同じ岩の中で、触れ合うように伸びていた。


 八郎の左肩が、微かに疼いた。


 今度はすぐに口を開く。


「ミレア殿」


「何です」


「肩が少し重い」


 ミレアは即座に銀盤を取り出した。


「止まってください」


 セレナとシュミも振り返る。


「今度はすぐ言いましたよ」


「当然です。検査が先です」


 ミレアが左肩へ銀盤をかざす。


 緑色の光は、谷の奥で見せたものより弱くなっていた。


 それでも消えてはいない。


 存在しない左手を握る。


 幻の指は、以前より確かに閉じた。


 その指先へ、地面の砂が一粒だけ転がってきた。


 八郎は何も言わなかった。


 だがミレアは、砂の動きを見逃さなかった。


「今、動かしましたか」


「試しておりません」


 ミレアは砂と八郎の肩を見比べた。


 セレナも黙っている。


 シュミだけが、僅かに目を輝かせていた。


「腕を作るより、こっちの方が面白いかも」


「面白がらないでください」


 ミレアが言う。


「義手の指を動かせるかもしれない」


 その言葉に、全員が静まった。


 八郎は空の左袖を見る。


 アルヴァンの力で形を得ながら、まともには動かなかった仮初めの土腕。自分の意思で土を動かし、自分の身体として使えるのなら。


「町へ戻ってからです」


 ミレアが念を押した。


「ええ」


「約束してください」


 八郎は少し考えた。


「約束しましょう」


 今度こそ、ミレアは僅かに安心した顔をした。


 セレナが前を向く。


「急ぐぞ。日暮れまでに谷を出る」


 四人は再び歩き始めた。


 背後では、黒魔石の紫色の脈が、岩の奥で静かに明滅していた。


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