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亡国の侍 異世界転移譚  作者: Lambzono
第一章 砦

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第七話 音のない谷

 夜明け前の南門には、すでに荷車が三台並んでいた。


 門の外へ出る商人たちが、車輪を確かめ、荷綱を締め直している。曳き獣の白い息が暗がりへ溶け、門兵の持つ灯火が防壁の傷を照らしていた。


 古い石壁の上へ新しい木材が渡され、その木材をさらに鉄板が支えている。


 昨日直したばかりに見える箇所もあれば、何度補修されたのか分からぬほど釘跡が重なった場所もあった。


 伊庭八郎は門の脇に立ち、借り物の剣の位置を直した。


 フェーン工房から渡された対魔獣用の剣は、刀より幅が広く、反りもない。


 鞘は厚く、腰へ吊るすと歩くたびに左脚へ当たった。


 右へ寄せれば脇差と重なる。


 後ろへ回せば抜きにくい。


 八郎は吊り紐を一度解き、鞘の角度を変えた。


「また直してる」


 声の方を見る。


 シュミ・フェーンが、採掘道具を詰めた背負い籠を地面へ下ろしていた。


 腰には青い石を嵌めた槌。


 籠の脇には、長さの違う鑿が数本括りつけられている。


「歩けば具合が分かります」


「昨日も振ってたでしょう」


「振るのと、持って歩くのは違う」


「刀だと、そんなに違わないの?」


「違わぬように作られています」


「その剣も、使う人にはそうよ」


「俺が使う人になっていないのでしょうな」


 八郎は鞘を固定し直した。


 今度は脚へ当たらない。


 ただし、抜くには腰を大きく捻る必要がある。


「帰る頃には慣れてるかもね」


「慣れる前に刀が直ることを願います」


「それ、借りた人の前で言わない方がいいよ」


「工房で申しました」


「よく貸してもらえたね」


「俺もそう思います」


 シュミが笑いかけたところで、工房区の方から足音が近づいた。


 ガルド・フェーンだった。


 厚い上着を羽織り、片手に革袋を持っている。


 娘の姿を見つけると、挨拶より先に籠へ目を向けた。


「重すぎる」


「自分で持てる」


「持てるかどうかではない。谷で疲れて動けなくなったら、誰が運ぶ」


「そのために荷物持ちがいる」


 シュミが八郎を指す。


「誰が荷物持ちです」


「依頼人でしょう」


「片腕だぞ」


 ガルドが言う。


「右腕はある」


「昨日も聞きましたな」


「なら問題ないね」


「問題しかない!」


 ガルドは籠の口を開け、中身を確かめ始めた。


「鑿が多い。細口は二本で足りる」


「割れた時の予備」


「お前は鑿を何本割るつもりだ」


「父さんの鑿なら三本」


「俺のを持っていくな!」


「工房の道具でしょう」


「今は俺の工房だ!」


「祖父ちゃんは譲った覚えがないって」


「その話はするな!」


 ガルドは鑿を二本抜き、代わりに革袋を籠へ入れた。


「何を入れたの」


「水と乾燥肉だ」


「持ってる」


「足りない」


「一泊だけでしょう」


「谷で何が起きるか分からん」


 言葉は荒いが、手つきは慎重だった。


 籠の紐を引き、緩みを直す。


 腰の槌にも触れ、留め具を確かめる。


「ここが緩い」


「私が締めた」


「だから緩い」


「昨日までは平気だった」


「昨日まで平気だった物が、今日壊れる」


 ガルドは小さな金具を取り出し、槌の留め具へ打ち込んだ。


「これなら外れん」


「勝手に重くした」


「これで文句を言うほど重くない!」


 シュミは不満そうな顔をしたが、外そうとはしなかった。


 八郎は父娘のやり取りから視線を外した。


 門の向こうでは、夜の色が少しずつ薄くなっている。


 東の空へ赤い筋が伸び、その上に三つの月が並んでいた。


 一つは大きく赤い。


 一つは青い。


 最も小さな月は、朝の光へ消えかけている。


 見慣れぬ空だ。


 それでも、夜明け前の冷たさは箱館と変わらなかった。


「八郎さん」


 ミレアが医療院の方から歩いてきた。


 白衣ではなく、厚手の旅装を着ている。


 肩掛け鞄には治療道具。


 腰には小さな瓶と銀盤が幾つも下がっていた。


「左肩の具合は」


「変わりません」


「痛みは」


「ありません」


「重さは?」


「今は」


「今は、ということは昨日はあった?」


「夜中に少し」


 ミレアの足が止まった。


「なぜ言わなかったのです」


「眠れば治るかと」


「治療師へ報告せず、眠れば治ると思った?」


「治りました」


「結果の話をしているのではありません」


「朝から怒ると疲れますよ」


「誰のせいですか」


「俺でしょうな」


 ミレアは鞄から銀盤を取り出した。


 八郎の空の左肩へかざす。


 中央の石が、淡く緑色に光った。


「昨日より少し強い」


「何か問題が」


「分かりません」


「便利な言葉です」


「研究では正確な言葉です」


 ミレアは銀盤を下ろした。


「谷へ近づいて反応が強くなったら、すぐに知らせてください」


「痛みがなくとも?」


「重さ、痺れ、熱、冷たさ。何でも」


「承知しました」


「本当に?」


「今度は」


「信用できませんね」


「まだ会って三日ほどですから」


「それを言えば許されると思っていますか」


「少し」


 そこへ、南門の上から声が降ってきた。


「全員揃ったか」


 セレナ・ヴァイスが階段を下りてきた。


 外套の上から軽い革鎧を着け、背には旅用の荷。


 腰の剣のほか、短い弓と矢筒も持っている。


 門兵と二言ほど交わしてから、一行を見回した。


「シュミ」


「いる」


「ミレア」


「います」


「イヴァ・ハチロー」


「伊庭八郎です」


「いるな」


「そこだけ雑ですな」


「確認できればよい」


 セレナは八郎の剣の位置を見る。


「昨日と佩き方が違う」


「歩くと邪魔でしたので」


「抜けるか」


「試しますか」


「門前で抜くな」


「なら尋ねないでいただきたい」


 セレナは少し眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。


「隊列を決める」


 地面へ簡単な線を引く。


「私が先頭。次にシュミ。ミレア。その後ろに八郎」


「私が二番?」


 シュミが言う。


「道を知っているのは私よりお前だ。ただし、判断は私がする」


「道を間違えても?」


「指摘しろ」


「指摘して聞かなかったら?」


「聞く」


「本当に?」


「必要なことなら」


 シュミが八郎を見る。


「似たようなこと言う人、もう一人いるね」


「俺はもう少し柔らかく申します」


「内容は同じでしょう」


 ミレアが言った。


 セレナは八郎へ向き直る。


「後衛に不満は」


「ありません」


「意外だな」


「土地を知らぬ者が先に立てば、全員が迷います」


「その通りだ」


「背後を見るのも慣れています」


「片腕だからではない」


「分かっています」


 セレナは僅かに頷いた。


「南の旧街道を進む。谷口までおよそ七刻。途中、二度休む」


「魔獣は」


 八郎が尋ねる。


「街道沿いには少ない。ただし、少ないという報告は一月前のものだ」


「今は分からない」


「そういうことだ」


「便利な言葉ですな」


「正確な言葉だ」


 ミレアが小さく息を吐いた。


「二人とも似ていますね」


「どこがです」


 八郎とセレナの声が重なった。


 ガルドが頭を抱えた。


「本当に大丈夫なのか」


「大丈夫ではないから、私が同行する」


 セレナは答えた。


「娘を頼む」


「本人の判断を尊重する」


「危険なら縛ってでも連れ帰れ」


「必要なら」


「私は聞いてるよ」


 シュミが睨む。


「聞かせている」


 ガルドは娘を見た。


 何か言おうとして、やめる。


 代わりに籠の紐をもう一度強く引いた。


「石だけ取れ。余計な物へ近づくな」


「分かってる」


「大きな爪跡を見ても追うな」


「分かってる」


「セレナの指示を聞け」


「内容による」


「お前までそれを言うな!」


 門兵が門を開き始めた。


 厚い木戸が軋み、朝の光が細く差し込む。


 シュミが籠を背負った。


 その重みで僅かに身体が沈む。


 八郎が右手を伸ばしかけると、シュミは先に立ち上がった。


「持てる」


「まだ何も申していません」


「持とうとした」


「籠が傾いたので」


「自分で直せる」


「なら結構」


 八郎は手を引いた。


 ガルドはその様子を見ていたが、何も言わなかった。


 四人は南門を出た。


 背後で、砦町の木戸が閉じる。


 鈍い音が朝の空気へ響いた。


     ◇


 街道は、初めのうちは緩やかな下りだった。


 左右には畑が広がっている。


 だが耕されている土地は少ない。


 土から枯れた茎が伸びたままの畑。


 柵が倒れた牧草地。


 屋根だけ残った納屋。


 人が住まなくなった家には、窓や戸口へ板が打ちつけられていた。


「以前は、もっと人がいたのですか」


 八郎が尋ねる。


「十年前までは」


 ミレアが答える。


「この辺りだけで、四つの集落がありました」


「今は」


「二つです」


「魔物に?」


「被害もあります。移住した人も」


「砦町へ?」


「南へ行ける者は南へ。行けない者は町へ」


 街道脇に、背の高い石柱が立っていた。


 表面には細かな文字と模様が刻まれている。


 石の上半分は古く、角が丸くなっていた。


 下部には新しい金属板が巻かれ、その上から別の文字が彫られている。


「魔獣除けの標柱です」


 ミレアが八郎の視線に気づいた。


「効くのですか」


「小さな魔物なら、近づきにくくなります」


「大きなものには」


「効きません」


「壊れているように見えますが」


「魔力を通す石が劣化しています。新しく替えるには費用がかかるので、金属板で流れを補っています」


「ここも継ぎ足しですな」


「北辺では、完全に直せるものの方が少ない」


 セレナが先頭から言った。


「標柱があるうちはまだいい。ここから先は数が減る」


「守る範囲を狭めた?」


「人がいなくなった土地へ、魔力を使い続ける余裕はない」


 八郎は振り返った。


 遠くに砦町の防壁が見える。


 朝日に照らされた壁は、遠目には堅固な城塞だった。


 しかし、その周囲から人の暮らしが少しずつ削り取られている。


 守っているようで、後退している。


 木古内から箱館へ退いた時と同じだ。


 戦線が下がるたび、地図から土地が消えていく。


「何を見ている」


 セレナが尋ねた。


「町を」


「戻りたくなったか」


「まさか」


「なら前を見ろ」


「後衛ですので」


「理屈を言うな」


「正しいと思いましたが」


 セレナは返事をせず歩き続けた。


 隊列の速度は速すぎず、遅すぎない。


 シュミの歩幅に合わせながら、日暮れ前に谷へ着く速さを保っている。


 八郎は借り物の剣の重みを確かめた。


 初めは脚へ当たらぬ位置だけを考えていたが、歩き続けると鞘の先が後ろへ揺れる。


 右へ方向を変える時、僅かに身体を引かれる。


 八郎は歩きながら吊り紐へ右手を入れ、腰骨の上へ寄せた。


 剣の重心が身体へ近づく。


 抜きやすさは落ちるが、歩く分には安定した。


 前を歩くシュミが振り返る。


「また変えた」


「よく見ていますな」


「道具を見るのは仕事だから」


「人ではなく?」


「人だけ見ても、何を使えるか分からないでしょう」


「道具だけ見ても同じでは」


「だから両方見る」


 シュミは前へ向き直った。


「その剣、昨日より似合ってきた」


「嬉しくありません」


「どうして」


「刀が似合わなくなったように聞こえる」


「面倒だね」


「よく言われます」


     ◇


 二度目の標柱を過ぎた場所で、最初の休憩を取った。


 街道から少し外れた岩陰。古い野営跡を確かめてから、セレナは四半刻の休憩を告げた。


 ミレアが黒パン、乾燥肉、果実、それに焼いた岩傘茸を広げる。


 茸は掌より大きかった。


「毒はない」


「毒より、傷んでいないかを見ています」


「昨日焼いて、冷却箱へ入れていました」


 理由が分かれば、八郎はすぐ口へ入れた。厚い傘から、強い旨味を含んだ汁が出る。


「どう?」


「旨い。味噌を塗って焼けば、なおよい」


「ミソ?」


「豆と塩を、麹で寝かせて作る調味料です」


「腐らせるの?」


「育てるのです。望む変化が発酵、望まぬ変化が腐敗」


 シュミは茸を見た。


「町に戻ったら作れる?」


「豆だけでは足りません」


「じゃあ、足りない物を探す」


 セレナが黒パンを割る。


「出発前に料理の計画を立てるな」


「戻ってからです」


 八郎は硬いパンへ乾燥肉を挟んだ。


「食事の仕方まで調査書へ書きますか」


「必要なら」


「気が休まりませんな」


 四半刻が過ぎると、セレナは正確に立ち上がった。


     ◇


 昼を過ぎる頃には、街道から畑が消えた。


 両側は低い林になり、その向こうへ青灰色の山が見え始める。


 街道脇の標柱は、いつしか木製へ変わっていた。


 表面には魔術文字を刻んだ金属片が打ちつけられている。


 幾つかは板ごと割れ、文字の一部が剥がれていた。


「これでも効くのですか」


 八郎が尋ねる。


「ほとんど効かない」


 セレナが答える。


「なら、なぜ残している」


「道標になる」


「魔獣除けではなく」


「今はな」


 林の中に、石造りの家が一軒見えた。


 屋根は落ち、壁だけが残っている。


 入口には焦げた跡。


 その周りを背の高い草が覆っていた。


「ベズラス村の外れです」


 シュミが言った。


「村があったのですか」


「採掘場が動いていた頃はね」


「今は誰も」


「いない」


 シュミの返事は短かった。


「いつ閉じた」


「十二年前」


「魔物で?」


「最初は採れる石が減ったから。その後、谷狼が増えた」


 セレナが道の端へしゃがみ込んだ。


 土へ指を触れる。


「何か」


 ミレアが尋ねる。


「足跡」


「魔獣?」


「蹄だ。二頭」


「馬ですか」


 八郎が言う。


「似ているが違う。角鹿だ」


「人が乗る?」


「荷運びに使う」


「新しい?」


「三日以内」


 シュミが近づく。


「採掘場へ行った人がいる?」


「分からない。道は谷の向こうにも続く」


「今は誰も使わないでしょう」


「誰も使わない道ほど、使う者は記録へ残らない」


 セレナは立ち上がった。


「警戒を上げる。ここから会話は必要な時だけ」


 シュミは素直に頷いた。


 ミレアも。


 八郎は借り物の剣へ右手を置いた。


「抜くな」


 セレナがすぐに言う。


「まだ抜いておりません」


「手を置いた」


「そういう癖です」


「音を立てるな」


「承知しました」


 林を抜ける。


 地面が徐々に硬くなる。


 土の間から青灰色の岩が露出し、草木が少なくなっていった。


 風が冷たい。


 山と山の間へ、細い裂け目のような谷が見える。


「あれがベズラス谷」


 シュミが声を落として言った。


 谷口の両側には、古い石柱が立っていた。


 表面に刻まれた文字は半ば崩れている。


 片方の柱は途中で折れ、根元へ木材と鉄輪を巻いて支えられていた。


 その先には、狭い道が続いている。


 青灰色の岩壁が両側から迫り、空を細く切り取っていた。


 八郎は谷へ入る前に足を止めた。


 左肩が重い。


 借り物の剣とは違う。


 肩の先に、濡れた土を詰めた袋を吊るされたような重さだった。


「どうしました」


 ミレアがすぐに気づく。


「肩が」


 八郎は空の左袖を見る。


「重い」


 ミレアは銀盤を取り出した。


 左肩へかざす。


 石が緑色に光った。


 朝より強い。


 光は一度脈打ち、その後も消えなかった。


「谷の土へ反応している?」


 シュミが尋ねる。


「分かりません」


「黒魔石では」


 セレナが谷を見る。


「ここからでは反応する距離ではないはずだ」


「ならベズラス石?」


「砥石に強い魔力はありません」


 ミレアは別の器具を取り出した。


 細い銀針が幾つも付いた輪。


 八郎の肩へ近づけると、針が一斉に震えた。谷側へ僅かに傾いたものも、方角を定める前にばらばらへ戻る。


「引かれています。ただ、どこからとも、何にとも、まだ分かりません」


「何に」


「それが分かれば困りません」


「戻るか」


 セレナが八郎へ尋ねた。


「これだけで?」


「異常が出た」


「痛みはありません」


「痛みが出てからでは遅い」


「目的の石は谷の中です」


「刀一本のために、原因不明の術式反応へ近づく気か」


「刀一本だからです」


 セレナの目が細くなる。


「今は借り物がある」


「借り物は返すものです」


「命より大事か」


「比べるものではない」


「比べろと言っている」


「戻るほどの異常ではないと申しています」


「判断するのは私だ」


 二人の間に沈黙が落ちた。


 ミレアが銀盤を見たまま言う。


「今の反応だけなら、進めます」


 セレナが振り返る。


「本当に?」


「急激な変化はありません。身体にも異常はない。ただし、これ以上強くなれば引き返します」


「八郎が拒んでも?」


「眠らせます」


「それは安心だ」


「俺の意見は」


「ありません」


 八郎は二人を見た。


「横暴な御仁ばかりですな」


「あなたが聞かないからです」


 ミレアは銀盤をしまわず、手に持ったまま歩き始めた。


 セレナも谷へ入る。


 シュミが八郎の横を通り過ぎた。


「背負って帰られたくなかったら、言うこと聞いた方がいいよ」


「貴女にまで」


「片腕で人を運ぶの、大変でしょう」


「経験があります」


「自分が運ばれる方は?」


「それも」


「なら話が早い」


 シュミは先へ進んだ。


 八郎は存在しない左手を握ろうとした。


 指が閉じる感覚がある。


 いつもより鮮明だった。


 それでも、目に見えるものは何もない。


 八郎は右手を剣から離し、谷へ入った。


     ◇


 ベズラス谷は、奇妙に静かだった。


 風は吹いている。


 岩壁の間を抜け、外套や袖を揺らしている。


 だが、風以外の音がない。


 鳥。


 虫。


 小さな獣。


 何一つ聞こえない。


 足音だけが岩へ反響する。


 セレナは先頭で何度も立ち止まり、地面と壁を調べた。


 シュミも周囲を見ている。


 初めて来た者の顔ではない。


 知っている場所が、記憶と違っている者の顔だった。


「何かおかしいのですか」


 八郎が小声で尋ねる。


 シュミはすぐには答えなかった。


「音がない」


「風は」


「そうじゃない」


 足元の岩を示す。


 岩肌には、小さく削られた跡が無数についている。


「石喰いがいる谷は、いつも音がする」


「石を食う音?」


「齧る音。砕く音。地面を掘る音」


「今はしない」


「一度も」


 セレナが手を上げた。


 全員が止まる。


 谷道の先に、黒い塊が横たわっていた。


 岩の一部にも見える。


 しかし形が不自然だった。


 丸い胴。


 短い脚。


 背には幾重もの石板が重なっている。


 身体の半分が、壁際へ押しつけられていた。


「石喰い」


 シュミが呟く。


「動くな」


 セレナが言った。


 弓を手にし、周囲を確認する。


 八郎は後方を見る。


 何もいない。


 ミレアが銀盤をしまい、治療具へ手を伸ばした。


「死んでる」


 シュミが言う。


「近づくな」


「石を見れば分かる」


「誰の指示で動いている」


「まだ動いてない」


「動こうとした」


「見ただけ」


「そこで待て」


 セレナは一人で死骸へ近づいた。


 弓の先で外殻を軽く押す。


 反応はない。


 次に地面へしゃがみ込み、死骸の周囲を調べる。


「血は乾いていない」


「いつ?」


 ミレアが尋ねる。


「半日以内」


「今朝?」


「おそらく」


 セレナが手招きした。


 シュミだけが近づく。


「見ろ」


 石喰いの背にある硬い外殻が、大きく割れていた。


 一度の傷ではない。


 同じ場所へ何度も力を加え、石板を叩き砕いたような痕。


 割れた隙間から、柔らかな内部が抉り取られている。


「食われてる」


 シュミの声が低くなった。


「谷狼か」


「無理。牙が入らない」


「石喰い同士は」


「仲間を食べない。それに、こんな割り方はできない」


 セレナが死骸の横を指した。


 岩肌に、深い傷が四本並んでいる。


 爪跡。


 人の指より太く、先端は岩へ食い込んでいた。


 シュミの顔から血の気が引く。


「半年前に見たのと同じ」


「大きさは」


「同じくらい。でも、あれはもっと奥だった」


「こちらへ出てきた」


 セレナが周囲を見回した。


「採掘場まで、あとどれほど」


「半刻もかからない」


「戻るなら今だ」


 シュミは死骸を見た。


「石が要る」


「命と比べろ」


「父さんと同じこと言わないで」


「正しいからだ」


「採掘場はすぐそこ」


「この死骸を作ったものも近い」


 八郎は二人の声を聞きながら、谷の奥を見ていた。


 音がない。


 風が岩肌を擦る音だけ。


 そのはずだった。


 だが、何かが違う。


 静かなのではない。


 息を潜めている。


 森で敵兵が伏せている時と同じだった。


 鳥が飛ばない。


 虫が鳴かない。


 そこにいるものが、自分たちより強いと知っている。


「セレナ殿」


「何だ」


「ここを離れた方がよい」


 シュミが振り返る。


「さっき石が要るって」


「石は要ります」


「なら」


「この場所に長くいる理由はない」


 八郎は借り物の剣へ右手を置いた。


 今度はセレナも止めなかった。


「何かいるのか」


「分かりません」


「見えた?」


「いいえ」


「音は」


「ありません」


「では、なぜ」


 八郎は谷の上を見る。


 切り立った岩壁。


 細い空。


 影の重なる裂け目。


「見られています」


 その瞬間。


 谷の奥で、小石が一つ落ちた。


 からん。


 乾いた音が岩壁を跳ねる。


 全員がそちらを向いた。


 何も見えない。


 風だけが吹いている。


 八郎は剣の柄を握った。


 左肩の重さが、急に増した。


 存在しない指が、固く閉じる。


 谷のどこかで。


 低い息遣いがした。


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