第六話 魔力なき者
報告書を読んでいた男の手が止まった。
「魔力が弱いのではなく、流路そのものがない?」
「はい。生体反応は正常。左肩にだけ、アルヴァン・セレディアの残留魔力があります」
王立魔術院北辺観測局の部屋には、魔獣の出現地点を黒く打った地図と、魔石、獣骨、汚染土が並んでいた。
「そんな生物は存在しない」
「死体にはありません」
「測定はミレア・セレディア主任が三度行っています」
若い研究員は書板を読み上げた。
「名はイヴァ・ハチロー。ニホンという国の出身。既知の言語体系には一致しませんが、意思疎通は可能。焼け森からアルヴァン先生を片腕で背負って帰還」
「戦闘能力は」
窓辺にいた女が口を開いた。
淡金色の髪を束ね、魔術院の紋章を留めた旅装。腰には細身の剣がある。
「灰色鬼一体、ブラッドリッパー三体を、刀剣のみで討伐。本人に目立った外傷なし」
セレナ・ヴァイスは窓の外を見た。補修中の防壁の向こうに、焼けた森が黒く広がっている。
「敵国の偽装術では」
「魔力を隠す者が、他人の術式を肩へ残して歩く理由は?」
セレナは淡々と返した。
「偽装と決めるには雑すぎる。確かめればよい」
局長代理は封蝋された書状を差し出した。
「王立魔術院特別調査官として、異邦人イヴァ・ハチローの身元、能力、目的を調査せよ。危険性があれば拘束を許可する」
「北辺の魔力異常との関連も?」
「ああ。アルヴァンが何を見つけたかも聞き出せ」
セレナは書状を外套へ収めた。
報告書の言葉ではなく、歩き方と目を見る。武器を手放す時の指、嘘をつく時の呼吸。何を恐れ、何を守るか。
「まず本人を見ます」
◇
医療院に着いた時、ミレアは不在だった。
「フェーン工房です」
受付の治療師が答えた。
「異邦人も?」
「一緒です」
「アルヴァン先生は」
「寝台です」
奥の階から怒鳴り声が響く。
「誰が窓へ板を打ちつけた!」
「寝台にはいますが、大人しくはありません」
「工房への道は」
「内壁南門を抜けて、煙突を目印に。三本並んでいるところです」
「助かる」
セレナは工房区へ向かった。
◇
フェーン工房の前まで来ると、声が外へ漏れていた。
「明日までに見つからなければ、石は諦めろ」
「他の方法は」
「刀を作り変える」
「それは困ります」
聞き慣れない抑揚の男声。
工房へ入ると、ドワーフ三代とミレア、その中央に異国の装束をまとった片腕の男がいた。腰には短い刀剣。作業台には細身の長剣。
男は、セレナが名乗る前から入口を見ていた。
「王立魔術院特別調査官、セレナ・ヴァイス。イヴァ・ハチローという異邦人は貴様か」
「違います」
工房が静まる。
「伊庭八郎です。イバで結構」
ガルドが作業台を叩いた。
「名前の話は後だ。お前、ベズラス谷を知っているか」
「北方巡察で二度入った」
「案内役が見つかった」
ガルドがミレアを見る。
「私はまだ事情を聞いていません」
「こちらも貴女の事情を知りません」
ミレアはセレナの紋章を見た。
「異邦人の身元、能力、目的を調べる。必要に応じて行動を監督する」
「監視ですか」
「調査だ。質問と報告書が増える」
「監視より面倒ですな」
「同感だ」
セレナは作業台の刀を見た。
「その武器は」「その武器は」
「刀です」
「報告にあったものか」
「おそらく」
「折れかけている」
ガルドが言った。
「ベズラスの石がなければ直せん」
「谷へ行く人数は」
「まだ決まっていません」
ミレアが答える。
「八郎。私。案内役」
「シュミも行く」
工房の奥から声が飛んだ。
「行かせん!」
ガルドが怒鳴る。
シュミが顔を出す。
「採掘場所を知ってるのは私!」
セレナがシュミを見る。
「最後に入ったのはいつだ」
「半年前」
「何人で入り、何人戻った」
シュミの表情が変わった。
「八人で入って、六人」
「魔物は」
「石喰いが一体、谷狼が四頭。奥には、四本爪が岩へ食い込んだ大きな跡もあった」
セレナは少し考える。
「採掘地点は、その奥か」
「手前」
「なら案内は谷口までで足りる」
「足りない」
「ベズラス石は、ただ割ればいい石じゃない」
シュミは工房の床へ置かれた灰色の石を拾った。
「筋を見て切り出す。間違えると砥石にはならないし、見ただけでは分からない」
シュミはセレナを見た。
セレナも視線を逸らさない。
「あなたは戦えるの?」
シュミが尋ねる。
「谷から戻れる程度には。剣と風術を使い、水も補助に使う」
「大きい爪の主には」
「見てから決める」
シュミは少し黙った。
「知らない敵の倒し方を即答する者は信用するな」
ゴラムが笑った。
「その女は連れていけ。シュミも必要だ」
「行かせん」
セレナが作業台の石を手に取る。
「採掘地点までシュミが同行する。谷口から先は状況を見て、危険が高ければ退かせる」
シュミが鼻で笑った。
「聞かなければ縛って町へ返す」
「やってみれば」
二人の間へ火花が散ったように見えた。
八郎はミレアへ小声で尋ねる。
「仲良くできそうですかな」
「どちらも命令されるのが嫌いです」
「それは困る」
「八郎もでしょう」
「俺は正しい命令なら聞きます」
「全員がそう言います」
ガルドが腕を組む。
「シュミを任せられる証拠は」
「王国の命令書では足りないか」
セレナは外套の内側から書状を取り出した。
ガルドは封蝋を見る。
「魔術院か」
「異邦人の調査命令だ。私には、対象の行動を監督する権限がある」
「刀の石を採るのも調査か」
「町の外で、対象がどのように戦うか確認できる」
セレナはガルドへ書状を見せたまま続けた。
「私はベズラス谷の地形と魔物を知っている。治療師も同行する。シュミが必要なら、谷へ入ることも認める」
「勝手に」
「ただし、指揮は私が執る」
シュミが即座に反発する。
「石のことは私が決める」
「採石については」
「魔物が出たら私の指示に従え。八郎もだ」
セレナが八郎を見る。
「内容によります」
「戦闘中に相談する気か」
「理にかなっていれば従います」
「理にかなっていなければ?」
「従いません」
「なら、理解できる程度に短く説明する」
八郎は少し笑った。
「貴女も面倒な御仁ですな」
「貴様に言われたくない」
ミレアが小さく息を吐いた。
「決まりですね」
「何が」
ガルドが言う。
「セレナが同行。私が治療担当。八郎は採石の依頼主。シュミは採掘担当」
「俺はまだ許可していない」
「許可しなければ、八郎の刀は直らない」
「別の者を探す」
「三日以内に?」
ガルドは答えなかった。
作業台の刀を見る。
捩じれは僅か。
だが時間が経てば、鋼はその形へ落ち着く。
直すなら今しかない。
「二日だ」
ガルドが言った。
「明日の朝に出て、翌日の夜までに戻れ」
「谷で夜を越す可能性があります」
セレナが答える。
「越すな」
「それは谷へ言ってください」
「石を取ったらすぐ戻れ」
「そのつもりだ」
ガルドはシュミを見る。
「勝手な行動はするな」
「父さんも勝手に刀を改造しないで」
「しない!」
「柄を外すでしょう」
「調べるだけだ!」
「私の案も作っておいて」
「帰ってからだ!」
「じゃあ帰る」
シュミは当然のように言った。
ガルドは何か言い返そうとしたが、結局黙った。
ゴラムが愉快そうに髭を撫でる。
「話は決まったな」
「父さんが決めた顔をするな」
「決めたのは女どもだ」
ゴラムはミレア、セレナ、シュミを順に見る。
「男どもは怒鳴っていただけだ」
ガルドが顔を赤くする。
八郎は自分も含まれているのか考えた。
「俺は怒鳴っておりません」
「面倒なことを言っていた」
「それは否定しません」
◇
工房を出ると、セレナは八郎へ言った。
「医療院へ戻る。そこで貴様の話を聞く」
「調査は急ぎますか」
「逃げられる前に」
「逃げる理由がない」
「それを判断するのは私だ」
ミレアが間へ入る。
「八郎は逃げません」
「なぜ分かる」
「逃げるなら父を置いていきました。少なくとも見捨てる人ではありません。危険ではありますが」
八郎はミレアを見る。
「そこは否定していただきたい」
「魔獣を刀一本で倒し、止めても谷へ行こうとする人です」
「皆、俺を何だと思っているのです」
セレナが答える。
「正体不明の危険人物」
「判断が早いですな」
「十分見た」
「何を」
「刀を預ける時、柄から手を離すまで少し間があった」
八郎はセレナを見る。
「見ていたのですか」
「調査官だからな」
「惜しかったのでしょう」
ミレアが言った。
「何が」
「刀を手放すのが」
「慣れていないだけです」
「同じことです」
セレナは前を歩きながら言う。
「武器へ執着する者は多い」
「貴女は違う?」
「必要なら捨てる」
「剣を?」
「命よりは軽い」
八郎は、女の腰にある細身の剣を見た。
手入れされている。
柄は使い込まれ、革の一部が黒く変色していた。
簡単に捨てられる物には見えない。
セレナは歩みを止めた。
「一つ確認する」
「何でしょう」
「貴様はニホンという国から来たと言った」
「ええ」
「どこにある」
「俺も知りたい」
セレナの目が細くなる。
「ふざけているのか」
「いいえ」
「自国の場所が分からない?」
「この国との位置が分かりません」
「どうやって来た」
「死んで、目を覚ましたら森にいました」
セレナは黙った。
ミレアも八郎を見る。
彼女には既に話している。
だが改めて他人へ言うと、自分でも随分と荒唐無稽に聞こえた。
「死んだ?」
セレナが聞き返す。
「そのはずです」
「傷は消え、蘇生された形跡もない。魔力もないのに、アルヴァンの術式は接続した――そういうことか」
「そうらしい」
「他人事だな」
「俺には魔力が見えません」
「死んだことまで他人事か」
八郎は少し考えた。
「死んだ後のことですので」
セレナはしばらく八郎を見た。
「気に入らない」
「何が」
「嘘には見えないことだ」
「信用していただけましたか」
「逆だ」
「なぜ」
「嘘なら、問い詰めれば崩れる」
「本当なら?」
「理解できないまま残る」
セレナは再び歩き出した。
「だから調べる」
「大変ですな」
「貴様のせいだ」
「来たくて来たわけではありません」
「それも調べる」
八郎はミレアへ小声で言った。
「監視より面倒ですな」
「本人が最初からそう言っています」
◇
医療院へ戻ると、アルヴァンは寝台へ腰掛けていた。
固定用の布は外されている。
代わりに、窓へ新しい板が打ちつけられていた。
「遅い」
アルヴァンが言った。
「逃げないようにされましたな」
八郎は窓を見る。
「誰のせいだと思っている」
「アルヴァン先生」
セレナが声を掛ける。
「王立魔術院特別調査官、セレナ・ヴァイスです」
「知っている」
アルヴァンは女を見た。
「三年前、黒泥沼で私の試料を捨てた女だ」
「中から歯が出ていました」
「だから調べる価値があった」
セレナはミレアを見る。
「この人はいつもこうなのか」
「今日は比較的まともです」
「お前たちは私を何だと思っている」
「重傷者です」
ミレアと八郎の声が重なった。
アルヴァンは二人を睨んだ。
「随分と息が合ってきたな」
「セレナは八郎の調査に来ました」
ミレアが言う。
「監視だろう」
「調査です」
セレナが訂正する。
ミレアが寝台脇の椅子を示す。
「谷行きについて相談します」
「谷?」
アルヴァンが顔を上げた。
「ベズラス谷です」
「なぜ」
「八郎の刀を直す石が必要です」
アルヴァンはセレナを見る。
「お前も行くのか」
「その予定です」
「なら問題ない。この女は北辺で死に損ねることに慣れている」
「褒めていますか」
「さあな」
「土方さんと同じ返しですな」
八郎が呟く。
「誰だ」
セレナが尋ねる。
「昔の知り合いです」
「編成は」
アルヴァンが話を戻す。
「セレナ、八郎、私、シュミ」
ミレアが指を折る。
「お前も行くのか」
「治療師が必要です。医療院は副主任へ任せます」
「谷まで来ると言わないでください」
アルヴァンは口を閉じた。
言おうとしていたらしい。
アルヴァンは少し考えた。
「土腕を付けるか」
ミレアの顔が険しくなる。
「駄目です。術式が安定していません」
「一度成功した」
「途中で崩れました。作りません」
ミレアは言い切った。
「八郎の左肩には、まだ父さんの魔力が残っています。重ねて術を使えば、どうなるか分かりません」
「少量なら」
「駄目です」
アルヴァンは不満そうに黙った。
セレナが八郎の左肩を見る。
「報告にあった残留魔力か」
「ええ」
ミレアは頷いた。
「八郎自身には魔力がありません。それでも、身体の命令へ土の魔力が反応する」
「本人の意思で?」
「僅かに」
「再現は」
「できています」
セレナは八郎を見る。
「左手を握れるか」
「ありません」
「感じている手だ」
八郎は存在しない左手を握ろうとした。
何も見えず、動かない。それでも肩から先には、幻の指が閉じる感覚がある。
ミレアが取り出した銀盤の石が、淡い緑色に光った。
セレナの表情が初めて明確に変わる。
「これは」
「あり得ないそうです」
八郎が言う。
「貴様は黙っていろ」
「皆、同じことを言いますな」
セレナは銀盤へ顔を近づけた。
「術者の支配は」
「ありません」
「アルヴァン先生が動かしている可能性は」
「術式を封じています」
セレナは八郎の肩から目を離さない。
「谷へ行く間、この反応が強まる可能性は」
「分かりません」
「魔力汚染へ触れた場合は」
「さらに分かりません」
「ベズラス谷には汚染域がある」
「採掘場までは薄いはずです」
「以前はな」
セレナは地図を求めるように部屋を見回した。
アルヴァンが顎で棚を示す。
「下から二段目」
ミレアが地図を取り出し、卓上へ広げた。
谷、旧道、採掘場、崩落地。魔獣の出現地点を示す赤い線が幾つも引かれている。
「半年前より増えていますね」
ミレアが言った。
「巡察で確認した」
「何が」
「黒魔石の露出」
アルヴァンの表情が変わった。
「ベズラスにも?」
「谷の奥だけだ。採掘場の近くではない」
「今のところは」
「そうだ」
部屋が静かになる。
八郎には、黒魔石が何か分からない。
だが三人の反応を見れば、良いものではないらしい。
「黒魔石とは」
八郎が尋ねる。
「魔力を吸い、歪めて放出する鉱石です」
ミレアが答えた。
「自然にできるものですか」
「できることもあります」
「それ以外は」
「人工的な魔術事故でも」
アルヴァンが地図を見たまま言う。
「北辺で増えている」
「魔獣が凶暴になった原因?」
「可能性の一つだ」
「貴殿はそれを調べに行った」
「ああ」
「何か見つけたのですか」
アルヴァンは答えなかった。
ミレアが父を見る。
セレナも。
老人はしばらく地図を眺めていた。
「今は谷の話だ」
「話を逸らしましたな」
「怪我人には休息が必要だ」
「便利な言葉です」
「お前が言うな」
セレナが地図を畳む。
「明朝、南門を出る」
「俺は」
「借り物の剣を持て」
「扱いに慣れていません」
「今から慣れろ」
「脇差では」
「谷狼の間合いへ入る前に死ぬ」
「昨日生きたから、明日も生きるとは限らない」
八郎はセレナを見た。
言い方に情はない。
だが正しい。
「分かりました。理にかなっています」
セレナは書状を取り出し、卓上へ置いた。
「もう一つ」
「何です」
「谷から戻るまで、貴様は私の指示下に入る」
「理にかなっていれば従います」
「戦場で絶対を約束する者を信用するな。だが、正しく判断するよう努める」
八郎は少し黙った。
「よろしい」
八郎は頷いた。
「少なくとも、貴女の声は聞きます」
「従うとは言わないのか」
「聞いてから決めます」
「今はそれでいい」
セレナは書状を収めた。
アルヴァンが笑う。
「似た者同士だな」
「どこがです」
八郎とセレナの声が重なった。
ミレアが目を閉じる。
「先が思いやられます」
◇
夕刻。
八郎は工房から借りた剣を、医療院の中庭で振っていた。
刃は厚い。
真っ直ぐで、反りがない。
柄は片手でも握れる長さだが、刀より重心が遠い。
一度振る。
止める。
返す。
動きが遅れる。
「その使い方では、明日までに肩を痛める」
中庭の入口に、セレナが立っていた。
「見ていたのですか」
「調査だ」
「監視では」
「違う」
「もう結構です」
八郎は剣を構え直した。
「どう使うのです」
「斬ろうとするな」
「剣なのに」
「魔獣用の剣は、骨へ当てることを前提にしている。刃を滑らせるより、重さを乗せろ」
「叩く?」
「近い」
「つまらぬ剣ですな」
「剣へ面白さを求めるな」
「月と同じことを言う」
「何の話だ」
「こちらの話です」
八郎は言われたとおり、刃を振り切らずに重さを前へ落とした。
先ほどより剣が素直に動く。
「なるほど」
「刀とは違うのか」
「刀は斬ります」
「これは?」
「割る」
「理解は早い」
「好みではありません」
「好みで生き残れるなら、そうしろ」
八郎はもう一度振った。
剣の重さに身体を合わせる。
右手だけで止めようとせず、腰と足へ逃がす。
片腕になってから身につけた動きだった。
セレナは黙って見ている。
「何か」
「報告より上手い」
「報告では、どの程度と」
「片腕で剣を振る異邦人」
「間違ってはいません」
「肝心な部分が抜けている」
「何が」
「片腕になってから作り直した動きだ」
八郎は剣を下ろした。
「分かるのですか」
「左右の足運びが違う。左へ回る時だけ半歩深い」
「左から入らせないためです」
「右肩を引く癖もある」
「間合いを外すため」
「刀を失った時に備えて、鞘も使う?」
「使いました」
「今は鞘がない」
「だから困っています」
セレナは中庭へ入り、壁へ立てかけてあった木の棒を取った。
剣ほどの長さ。
八郎の正面へ立つ。
「試すか」
「何を」
「借り物の剣で、どこまで動けるか」
「監視ではなく?」
「調査だ」
「同じに思えてきましたな」
「構えろ」
八郎は剣を持ち上げた。
セレナが棒を構える。
正眼ではない。
切先を少し外へ向け、身体を開いている。
西洋剣術とも違う。
「始めるぞ」
「どうぞ」
セレナが踏み込んだ。
速い。
棒が八郎の右肩を狙う。
八郎は剣で受けず、半歩外へ出た。
重い剣では受けが遅れる。
棒が空を切る。
八郎は柄頭をセレナの脇腹へ向けた。
その前に、棒の石突きが八郎の手首へ来る。
剣を離せば避けられる。
離さなければ打たれる。
八郎は剣を落とした。
右足で柄を踏み、跳ね上げる。
剣が宙へ浮く。
右手で掴み直す。
セレナの棒が止まった。
「武器を捨てたな」
「拾いました」
「一度手放した」
「必要でしたので」
「執着している割には、捨てるのが早い」
「拾える場所でした」
「戦場なら」
「敵へ蹴ります」
セレナは僅かに口元を緩めた。
「報告書へ書いておく」
「何と」
「武器を大切にするが、必要なら足蹴にする」
「悪く書かれている気がします」
「事実だ」
八郎は剣を収める革帯へ戻した。
「貴女は何者です」
「名乗った」
「そうではなく」
「特別調査官。辺境巡察官」
「それだけではないでしょう」
セレナの目が細くなる。
「なぜそう思う」
「棒の扱いが兵とは違う」
「兵の剣を知っているのか」
「俺の国のものなら」
「ここは貴様の国ではない」
「ですが、戦う者の身体は似ています」
「何が見えた」
「人に教わった剣ではなく、人へ教える剣です」
セレナはしばらく黙った。
「誉めているのか」
「さあ」
「その返しは嫌いだ」
「俺も以前そう思いました」
中庭の外から、夕刻を告げる鐘が聞こえた。
セレナは木の棒を元の場所へ戻す。
「明朝、日の出前に南門」
「承知しました」
「遅れるな」
「貴女も」
「私は遅れない」
「皆そう申します」
「貴様は遅れるのか」
「いいえ」
「なら問題ない」
セレナは中庭を出ようとした。
「セレナ殿」
八郎が呼び止める。
女が振り返る。
「何だ」
「一つだけ」
「質問は明日まとめてする」
「俺からです」
「言え」
「俺が危険だと分かったら、どうします」
「拘束する」
「できなければ」
「殺す」
返答に迷いはなかった。
八郎は頷いた。
「正直な御仁だ」
「不満か」
「その方が信用できます」
セレナは八郎を見た。
「同じことを、誰にでも言うのか」
「二人目です」
「一人目は」
「背中の傷が治りかけている老人です」
セレナは僅かに呆れた顔をした。
「明日までに死ぬな、イヴァ・ハチロー」
「伊庭です」
「そう言ったつもりだ」
「言えておりません」
「私には同じだ」
「そうですか」
セレナは中庭を出ていった。
八郎はその背を見送り、借り物の剣へ右手を置いた。
刀はない。
左腕もない。
魔力もない。
明日向かう谷には、見たことのない魔物がいる。
そして、自分を調べ、必要なら殺すと言う女が同行する。
「退屈はせずに済みそうだ」
八郎は小さく呟いた。
医療院の屋根越しに、三つの月が昇り始めていた。




