第五話 三代の鍛治師
翌朝、アルヴァンは寝台へ縛られていた。
正確には、腰と右脚を幅広い布で固定されているだけだったが、本人はそう表現した。
「怪我人を罪人のように扱うとは、この医療院も落ちたものだ」
「罪人は、もう少し大人しくしています」
ミレアは包帯を替えながら答えた。
「私は大人しい」
「昨夜、二度起き上がりました」
「一度だ」
「杖を取り戻そうとした時と、窓から出ようとした時」
「窓の具合を見ただけだ」
「二階の窓から?」
「逃げるなら一階を選ぶ」
「逃げるつもりだったのですね」
アルヴァンが黙った。
八郎は部屋の入口に立ち、二人のやり取りを眺めていた。
アルヴァンの顔色は昨日よりよい。唇にも血の気が戻り、声には十分すぎるほど力がある。
脇腹の傷さえなければ、今頃は杖を取り返して町を歩き回っていたことだろう。
「八郎」
アルヴァンがこちらを見る。
「お前からも言え。私は歩ける」
「歩けることと、歩いてよいことは違うそうです」
「お前までミレアの側につくのか」
「強い方につくと申しました」
ミレアが包帯を締め直す。
アルヴァンが顔を歪めた。
「わざと強く締めただろう」
「気のせいです」
「親を何だと思っている」
「重傷者です」
昨日と同じ答えだった。
八郎は小さく笑った。
「刀を見せに行くのでしょう」
ミレアが言った。
「ええ」
「工房区までは私が案内します」
アルヴァンが身を起こしかけた。
「私も行く」
ミレアは無言で包帯の端を引いた。
アルヴァンが寝台へ戻る。
「二人だけで、あの家へ行くつもりか」
「何か問題が」
「問題しかない。フェーンの三人は、揃えば会話が成立しない」
「一人ずつなら成立するのですか」
「一人ずつでも難しい」
「では、貴殿が増えても変わらないでしょう」
八郎が言うと、アルヴァンは不満そうに鼻を鳴らした。
「刀をガルドへ渡す前に、ゴラムへ見せろ」
「父親の方ですか」
「ガルドの父だ。もう引退したと言い張っているが、工房から離れたことはない」
「腕は」
「今でも三人の中で一番だ」
廊下の方から、治療師が咳払いをした。
話が聞こえていたらしい。
「ガルド本人の前では言わぬ方がよろしいか」
「言ってみろ。槌が飛んでくる」
「承知しました」
「それから、シュミには気をつけろ」
「娘ですか」
「あれは人の物へ勝手に手を加える」
ミレアが振り返る。
「父さんの杖へ、勝手に滑り止めを付けた時のことですか」
「滑り止めではない。妙な金具だ」
「落とさなくなったでしょう」
「重くなった」
「二度も谷へ落としたからです」
「一度だ」
「一度目は川でしたね」
アルヴァンは再び黙った。
「随分と役に立つ娘ではありませんか」
八郎が言う。
「余計なことをするのだ」
「役に立つ余計なら、悪くない」
「会えば分かる」
アルヴァンは寝台へ頭を戻した。
「三人とも、他人の話を聞かん」
ミレアは使い終えた布を盆へ置いた。
「父さんにだけは言われたくないと思います」
◇
工房区は、砦町の南側にあった。
町の中心を囲む古い内壁を抜け、その外へ後から広げられた一画である。
通路は狭く、何度も折れていた。
昨日ミレアが言ったとおり、壁の修理で塞がれている道もある。古い家と防壁の隙間へ板を渡し、仮の通路にしている場所まであった。
「一人なら迷いましたな」
八郎は前を歩くミレアへ言った。
「道は読めるのでは」
「道が残っていれば」
「昨日まで使えた路地です」
「今日は壁になっている」
「この町では珍しくありません」
内壁を抜ける。
空気が変わった。
鉄を焼く臭い。
炭の煙。
革を煮る臭い。
幾つもの槌音が、重なりながら響いている。
通りには工房が並んでいた。
戸口で鎧を叩く者。
魔獣の角を削る者。
青白く光る石を金具へ嵌め込む者。
鍋や農具もあれば、八郎には用途の分からない器具もある。
工房の前には、壊れた武器や防具が山のように積まれていた。
新品を作る場所というより、壊れたものを再び使える形へ戻す場所だった。
「随分と忙しい」
「壁の補修が増えています」
「魔物の被害で?」
「それだけではありません。古い部分が保たなくなっている」
ミレアは、道端へ置かれた大きな蝶番を指した。
人の胴ほどもある鉄の塊だった。
「北門のものです」
「取り替えるのですか」
「補強します。新しく作るだけの鉄が足りません」
「ここでも継ぎ足しか」
「この町は、何でもそうです」
八郎は腰の刀へ右手を添えた。
刀もまた、これからこの町の技を借りる。
元どおりに戻せるとは限らない。
それでも、このままでは次の戦いに耐えられない。
通りの奥に、他より大きな工房が見えた。
屋根から三本の煙突が伸びている。
壁の半分は石、残りは黒く焼けた木材で組まれていた。入口の上には、金床と三本の槌を組み合わせた印が掲げられている。
「フェーンの工房です」
「三本の槌」
「三代が同時に工房へ立つ時だけ掲げます」
「今は三人ともいる?」
「煙突が三本とも動いています」
確かに、三本すべてから煙が出ていた。
近づくにつれ、工房の中から声が聞こえてくる。
「薄すぎる!」
「軽くしたの!」
「軽くして割れたら意味がないだろう!」
「割れないように作った!」
「既に割れておる!」
「祖父ちゃんは黙ってて!」
「誰が祖父ちゃんだ!」
ミレアが足を止めた。
「帰りますか」
「まだ刀を見せておりません」
「今なら間に合います」
「アルヴァン殿の言うとおり、会話は難しそうですな」
「今日は比較的静かな方です」
工房の中で、大きな金属音が響いた。
「これで?」
「物が飛んでいませんから」
八郎は戸口をくぐった。
◇
熱気が身体を包んだ。
奥に三つの炉がある。
中央の炉は大きく、左右の炉は少し小さい。
壁には槌、鋏、鑿、金床、鋳型が並び、床には鉄片や骨、革、半ばまで組まれた義肢が置かれている。
中央では、大柄な男が割れた腕当てを手にしていた。
背は八郎の胸ほどしかない。
だが肩幅は広く、腕は丸太のように太い。赤褐色の髭を二本に編み、革の前掛けを着けている。
その向かいには、若い娘が立っていた。
こちらも小柄だが、肩と腕にはしっかり筋肉がついている。
短く切った焦げ茶色の髪。
額には煤。
右手に小さな槌を持ち、大柄な男を睨みつけていた。
炉の脇には、もう一人。
白い髭を胸まで伸ばした老人が、椅子へ座っている。
左目に厚い硝子のようなものを当て、二人の間にある腕当てを眺めていた。
「だから、継ぎ目が薄いと言っている!」
大柄な男が怒鳴る。
「兵士が腕を上げられないほど重い方が問題でしょう!」
娘も負けていない。
「軽くするなら、別の箇所を削れ!」
「削ったら祖父ちゃんが怒る!」
「そこで儂を出すな!」
「二人とも、同じことしか言わないじゃない!」
「同じではない!」
「同じだ!」
大柄な男と老人の声が重なった。
娘は天井を仰いだ。
「来客です」
ミレアが言った。
三人が一斉にこちらを見る。
大柄な男は八郎の顔を見た。
老人は腰の刀を見る。
娘は、空の左袖を見た。
三人とも視線の置き場所が違った。
「誰だ」
大柄な男が尋ねる。
「昨日、アルヴァン先生を運んできた方です」
「アルヴァンを?」
老人が硝子を外した。
「死んだと聞いたが」
「生きています」
「しぶとい爺だ」
「ゴラムさんと同じです」
「儂をあれと一緒にするな」
老人は鼻を鳴らした。
ミレアが八郎を示す。
「伊庭八郎。異邦の剣士です」
「イバ・ハチロウ」
大柄な男が繰り返した。
「どちらが名だ」
「伊庭が家の名。八郎が俺の名です」
「ならハチロウと呼ぶ」
男は自分の胸を叩いた。
「ガルド・フェーン。百六十九代目だ」
次に、炉脇の老人を顎で示す。
「父のゴラム。百六十八代目」
「まだ譲った覚えはない」
ゴラムが言った。
「二十年前に譲っただろう!」
「工房の帳面へ書いただけだ」
「それを譲ったと言うんだ!」
娘が口を挟む。
「私はシュミ・フェーン。百七十代目」
ガルドが振り返る。
「まだ継がせると決めていない!」
「祖父ちゃんは父さんへ渡した覚えがないんでしょう。だったら私が名乗っても同じよ」
「同じではない!」
「同じだ」
ゴラムが言った。
「父さんは黙っててくれ!」
八郎は三人を見た。
「アルヴァン殿から、三代で喧嘩をしていると伺いました」
「誰が喧嘩など」
「していない」
「してるでしょ」
三人の声が重なった。
「なるほど」
「何がなるほどだ」
ガルドが八郎を睨む。
「刀を見ていただきたい」
八郎は腰から刀を外した。
その瞬間、三人の顔つきが変わった。
ガルドの怒りが消える。
ゴラムが椅子から身を起こす。
シュミは手にしていた腕当てを作業台へ放った。
「それか」
ガルドが手を差し出す。
八郎は鞘ごと渡そうとした。
「待て」
ゴラムが言った。
「先に置け」
「なぜ」
「持ち方を見る」
八郎は少し迷い、作業台へ刀を置いた。
ゴラムは立ち上がらない。
「抜け」
八郎は刀を持ち上げ、鯉口を切った。
右手だけで静かに抜く。
三人の視線が、刃ではなく八郎の動きへ向けられている。
「もう一度」
シュミが言った。
「何を」
「収めて、もう一度抜いて」
「刀を見るのでは?」
「見ている」
八郎は刃を鞘へ戻した。
再び抜く。
今度は普段どおりの速さで。
シュミの目が、右肩から腰、足元へ移る。
「やっぱり」
「何がだ」
ガルドが尋ねる。
「後で言う」
「今言え」
「先に刀」
シュミは作業台を指した。
八郎は抜いた刀を布の上へ置いた。
ガルドが身を屈める。
刃へ顔を近づけ、光へ傾ける。
ゴラムもゆっくり近づいた。
シュミは反対側から覗き込む。
三人とも、しばらく口を開かなかった。
先ほどまでの騒がしさが嘘のようだった。
炉の火が鳴る。
別の工房から槌の音が響いてくる。
ガルドは刃に触れず、棟へ指を沿わせた。
「薄い」
「刀です」
「これで骨を斬ったか」
「魔獣の首を」
「首ではない」
ガルドは刃の一部を指した。
「ここだ。骨へ食い込ませた後、無理に押し切った」
八郎は魔獣との戦いを思い出した。
倒れた魔獣の首へ刀を振り下ろした。
刃が骨で止まった。
右手だけでは押し切れず、土腕の残骸を棟へ添えた。
「その通りです」
「馬鹿か」
ガルドは即座に言った。
「片腕で止まった刃を、上から押した?」
「他に手がありませんでした」
「刀を捨てろ」
「それでは武器がなくなる」
「刀と一緒に腕まで折るよりましだ」
「腕は既に一本ありません」
「そういう話ではない!」
シュミが刃を横から覗く。
「刃こぼれは小さい」
「問題はそこじゃない」
ガルドが言う。
「芯が捩じれている」
「僅かに」
「僅かでも捩じれは捩じれだ。次に同じことをすれば、ここから折れる」
ガルドが棟の一点を爪で弾いた。
澄んだ音。
その後に、ごく僅かな濁りが残る。
ゴラムが目を閉じた。
「まだ死んではおらん」
「死にかけだ」
「お前はすぐ殺したがる」
「使うなら直すしかない!」
「直すために壊す気か」
「補強するだけだ」
ガルドは壁際から細い金属板を取った。
「棟へこれを足す。刃元も少し厚くする。魔獣の骨へ負けない」
「駄目です」
八郎は言った。
ガルドが顔を上げる。
「なぜ」
「重さが変わる」
「丈夫になる」
「釣り合いも変わる」
「慣れろ」
「慣れれば、同じ剣になるわけではない」
「折れれば剣ですらなくなるぞ」
「そうならぬよう直していただきたい」
「だから補強する!」
「補強すれば、俺の刀ではなくなる」
工房の空気が張り詰めた。
ガルドの眉間に皺が寄る。
「面倒な客だ」
「初めから申したでしょう」
ミレアが静かに言った。
「性格は最悪だと」
「誰の話だ」
「三人ともです」
ゴラムが喉の奥で笑った。
「異邦人」
「八郎です」
「この刀は、どこで打たれた」
「日本です」
「ニホン」
ゴラムは聞き慣れない音を確かめるように繰り返した。
「鉄は」
「分かりません」
「炉は」
「知りません」
「鍛えた者は」
「刀工の名はありますが、俺が打ったわけではない」
「なら、お前はこの刀の何を知っている」
八郎は答えに詰まった。
長さ。
重さ。
反り。
刃筋。
抜いた時の感覚。
斬った時の手応え。
それらは知っている。
だが、どのような鉄を、どのような火で、何度折り返して打ったかは知らない。
「使い方です」
「それだけか」
「俺には、それがすべてです」
ゴラムは刀を見た。
「なら、なおさら勝手に足すな」
ガルドが父を見る。
「このまま返せと言うのか」
「言っておらん」
「では、どうする」
「捩じれを戻す。欠けは最小限だけ落とす。それ以上は触るな」
「それではまた折れる!」
「同じ使い方をすればな」
三人の視線が八郎へ集まった。
シュミが腕を組む。
「だから、刀だけの問題じゃないって言ったの」
「何だと」
ガルドが娘を見る。
「この人、片腕で両手用の柄を使ってる」
シュミは八郎へ近づいた。
「もう一度、構えて」
八郎は刀を取った。
刃を下げ、右手一本で構える。
シュミは八郎の周囲を回った。
右肩。
腰。
足。
柄を握る位置。
「もっと前を握る時もある?」
「間合いによります」
「振り下ろす時、刃が止まったら」
「右肩と腰で押します」
「だから捩じれる」
シュミは即答した。
「この柄は、両手で使うようにできてる。右手だけだと、力が刃の片側へ逃げる」
「柄を短くするのか」
ガルドが尋ねる。
「短くしない」
「では」
「右手の位置を固定する」
シュミは棚から革紐を取り、柄へ巻く仕草をした。
「握る場所に僅かな段を作る。力がずれにくくなる」
「邪魔になります」
八郎が言う。
「大きくはしない。指一本分もいらない」
「抜く時は」
「鞘も直す」
「鞘まで?」
「左手がないなら、抜く時に鞘を押さえられないでしょう」
「帯で止まります」
「止まっているだけ。今の抜き方だと鞘が少し上がる」
八郎は眉を寄せた。
確かに、抜く瞬間に鞘が僅かに浮くことがある。
それを腰と帯の締め方で抑えてきた。
「見ただけで分かるのですか」
「二度抜いた」
シュミは当然のように答えた。
「十分でしょう」
ガルドが娘を見る。
「鞘へ何をする」
「帯へ固定する金具。外したい時には、右手だけで外せるようにする」
「金具を増やせば重くなる」
「だから軽い金属を使う」
「割れる」
「割れない厚さを考える」
「さっき割ったばかりだろう!」
「あれとは違う!」
再び親子の声が大きくなる。
ゴラムは刀の棟を爪で軽く弾いた。
「ベズラスの石が要る」
工房が静かになった。
ガルドが父を見る。
「残っていない」
「奥の棚にあった」
「二年前に使い切った」
「何へ使った」
「北門の大刃だ」
「勿体ない」
「門が破られるよりましだ!」
「何の石です」
八郎が尋ねる。
ゴラムが答えた。
「砥石だ」
「普通のものとは違う?」
「この刃は硬さが均一ではない。硬いところと、粘るところがある」
ゴラムは刃と地鉄の境を指した。
「町の砥石で削れば、柔らかい側だけ減る。刃の形が崩れる」
「ベズラスの石なら」
「刃を殺さずに研げる」
ガルドが腕を組む。
「谷まで片道一日だ」
「採れる場所は残っているのですか」
「採掘場は閉じた」
ミレアが言う。
「魔物が増えてから、人が入らなくなりました」
「ならば、誰かが採りに行く必要がある」
八郎は刀を鞘へ戻そうとした。
ガルドが止める。
「持っていく気か」
「刀を直すためでしょう」
「その刀で谷へ行けば、途中で折れる」
「脇差があります」
「短すぎる」
「戦えます」
「戦えるかどうかではない」
ガルドは八郎の刀を作業台へ戻した。
「ここへ置いていけ」
「武器なしで行けと?」
「工房の剣を貸す」
「扱いが違う」
「なら行くな」
「石がなければ直せない」
「だから別の者へ頼む」
「俺の刀です」
「客が石まで採りに行く工房がどこにある!」
「ここに」
「ない!」
シュミが手を上げた。
「私が行く」
ガルドが振り返る。
「駄目だ」
「採れる場所を知ってるのは私」
「俺も知っている」
「工房を空けられるの?」
ガルドは言葉を止めた。
壁際には、修理を待つ武具や防壁の部品が山積みになっている。
「ゴラムがいる」
「儂は引退した」
「昨日まで槌を振っていただろう!」
「気が向いただけだ」
「では今日も気を向けろ!」
「命令するな、百六十九代目」
ガルドの顔が引きつる。
シュミが八郎を見る。
「私が案内する。あなたは荷物を持つ」
「片腕ですが」
「右手はあるでしょう」
「戦いは」
「私もできる」
「どの程度」
「あなたよりは魔物を知ってる」
「剣の腕を聞きました」
「剣は使わない」
シュミは作業台の下から、短い柄の槌を取り出した。
鍛冶用よりも柄が長く、頭には青い石が埋め込まれている。
「これで十分」
「娘を行かせる気はない」
ガルドが言う。
「では父さんが行く?」
「工房がある」
「私は?」
「仕事がある」
「石がなければ仕事が進まない」
シュミは父を睨んだ。
「私に何も任せないで、百七十代目を名乗るなと言う。どうすれば継げるの?」
「まず言うことを聞け!」
「言うことを聞くだけなら、百六十九代目をもう一人作ればいい!」
ガルドが黙った。
シュミは槌を腰へ差す。
「私は父さんになるつもりはない」
「シュミ」
「祖父ちゃんにもならない」
ゴラムは何も言わなかった。
「同じ物を同じように作るだけなら、私である必要がないでしょう」
娘はそれだけ言うと、工房の奥へ消えた。
扉が強く閉まる。
炉の火が鳴った。
ガルドは追わない。
拳を握ったまま、作業台の刀を見下ろしている。
「申し訳ありません」
ミレアが言った。
「こちらの事情で」
「いつものことだ」
ガルドは短く答えた。
「いつもなのですか」
八郎が尋ねる。
「お前には関係ない」
「案内役がいなくなりました」
「行かせん」
「しかし、石は要る」
「別の者を探す」
「谷を知っている者が」
「いる」
「すぐに?」
「探すと言っている!」
ガルドの声が工房へ響いた。
八郎は男を見た。
怒りの奥にあるのは、娘への苛立ちだけではない。
行かせたくない理由がある。
「危険な谷なのですか」
「今はな」
「何が出る」
「魔物だ」
「どの程度の」
「お前が昨日斬った獣より、厄介なものもいる」
「それで娘を」
「子供を危険な場所へ行かせる親がいるか」
工房の奥から、シュミの声が飛んだ。
「聞こえてる!」
「聞かせている!」
「私は子供じゃない!」
「百七十代目にもなっていない!」
「今決めることじゃないでしょう!」
ゴラムが椅子へ座り直した。
「昔から変わらんな」
「父さんは黙っててくれ」
「お前も同じことを言った」
ガルドの動きが止まる。
「何を」
「儂がベズラスへ行かせなかった時だ」
「昔の話だ」
「お前は勝手に行った」
「だから危険だと知っている!」
「行ったから知ったのだろう」
ゴラムは炉の火を見た。
「閉じ込めて伝わるものなどない」
「伝える前に死んだらどうする」
「死なぬよう教えるのが親の仕事だ」
「簡単に言うな」
「難しく言っても、することは同じだ」
八郎はミレアを見た。
彼女もこちらを見た。
先ほど八郎が医療院で言った言葉と同じだった。
ゴラムは八郎へ顔を向ける。
「お前は戦えるのか」
「ええ」
「刀なしで」
「脇差があります」
「片腕で」
「昨日も片腕でした」
「魔術は」
「使えません」
「役に立たんな」
「剣だけなら」
「その剣も一本置いていく」
「脇差があります」
ゴラムは少し考えた。
「ミレア」
「何です」
「お前も行け」
ミレアが目を見開いた。
「私は医療院があります」
「谷へ行く者に治療師が要る」
「簡単に言わないでください」
「難しく言っても同じだ」
「その言葉を気に入ったのですか」
「今覚えた」
ガルドが父を睨む。
「勝手に決めるな」
「では、お前が決めろ」
「シュミは行かせない」
「石はどうする」
「谷を知る者を探す」
「いつ見つかる」
「それは――」
「この刀は待ってくれんぞ」
ゴラムは八郎の刀を指した。
「今なら戻せる。長く置けば、捩じれた形で落ち着く」
「どれほど猶予が」
八郎が尋ねる。
「三日。長くて五日」
「では、明日出ます」
「お前まで勝手に決めるな!」
ガルドが怒鳴った。
「俺の刀です」
「だから客が石を採りに行く工房はないと言っている!」
「伝統を変えるのは、お嫌いですか」
「何だと」
「百六十八代続いて、一度も客が石を採りに行かなかった?」
「知らん!」
「なら、百六十九代目で初めてにしましょう」
工房の奥から、シュミが笑う声がした。
ガルドは額を押さえた。
「面倒な男を連れてきたな」
「父も同じことを申していました」
ミレアが答えた。
「ですが、八郎一人を町の外へ出すことはできません」
「信用がない」
「身元不明の武装した異邦人です」
「刀はここへ置いていく」
「脇差があります」
「それも預ければ」
「素手でも魔獣を殴りそうです」
「それは難しい」
「否定しないのですね」
ミレアは作業台の刀へ目を向けた。
「谷を知る案内役。魔物に対処できる戦力。それから、あなたが妙な行動をしないよう見張れる者が必要です」
「最後のものだけ、俺には不要に思えます」
「町には必要です」
「そのような都合のよい人物が、すぐ見つかりますか」
「北方街道を巡る者なら、何人か心当たりはあります。ただ、今この町にいるかどうか」
ガルドが腕を組んだ。
「明日までに見つからなければ、石は諦めろ」
「他の方法は」
「刀を作り変える」
「それは困ります」
「なら案内役を連れてこい」
八郎は答えず、刀を見た。
ベズラス谷まで片道一日。
閉ざされた採掘場。
魔獣。
道を知るシュミを行かせることはできない。
刀を持たぬ八郎と医療術師のミレアだけでは、ガルドが認めないのも無理はなかった。
その時、工房の入口で靴音が止まった。
槌音に慣れた職人たちは気づかなかったが、八郎は振り返った。
一人の女が立っていた。
旅装の上に、王国の紋章が入った短い外套を羽織っている。長旅を終えたばかりらしく、裾には乾いた泥が残っていた。
腰には剣。
その目は、工房の三代にも、作業台の刀にも向けられていない。
真っ直ぐに八郎を見ていた。
ミレアが僅かに目を見開く。
「セレナ?」
女――セレナ・ヴァイスは、八郎の空の左袖と腰の脇差を順に確かめた。
それから、小さく息を吐いた。
「ここにいたか」




