第四話 癒しの街
「……あり得ない」
女――ミレアは八郎の左肩から目を離さず、周囲へ指示した。
「アルヴァン先生を第二処置室へ。傷口の洗浄を先に。止血術式は二重にしてください」
「使い切ってなどいない」
担架の上でアルヴァンが言う。
「重傷者は黙っていてください。杖を預かって」
「私を誰だと思っている」
「重傷者です」
治療師は迷いなく答え、杖を抜き取った。
担架が扉の向こうへ消えるまで、アルヴァンの抗議は続いた。
「随分と慕われておりますな」
「従わせているだけです」
ミレアは必要なことを、必要な順番で片づけていた。
「こちらへ。左肩を診ます」
「何もない場所ですが」
「何もない場所に、残っているものがあります」
刀と脇差は門で預けたまま。アルヴァンも治療室へ運ばれた。八郎は空の袖へ目を落とし、彼女の後へ続いた。
◇
通されたのは、白く塗られた小部屋だった。
中央には細長い寝台。
壁際の棚には、薬瓶、布、銀色の器具が整然と並んでいる。
湾曲した針。
透明な板。
細い環を幾重にも重ねた道具。
用途の分からない品が多かった。
部屋の四隅には、淡い青色の石が嵌め込まれている。
そこから延びた細い線が、床へ複雑な模様を描いていた。
「座ってください」
八郎は寝台の端へ腰を下ろした。
ミレアは手を洗い、棚から掌ほどの銀盤を取り出す。
中央には乳白色の石が嵌め込まれている。
「袖を外せますか」
「肩まで見せろということですか」
「はい」
八郎の左袖は、肘の上で括られている。
箱根で腕を失ってから、余った袖は縛るか、初めから短く仕立て直してきた。
「切る必要があります」
「構いません」
「その服は貴重なものでは?」
八郎は自分の姿を見た。
血。
泥。
魔獣の爪で裂けた跡。
裾も袖も、焼けた林を抜ける間にほつれている。
「貴重だったものです」
「過去形ですか」
「今の有様では」
ミレアは小さな鋏を取り出し、縫い目へ刃を入れた。
括られていた布が外れる。
左肩が露わになった。
傷は古い。
肩の下から腕がなく、皮膚には歪んだ傷痕が走っている。
ミレアは黙ってそれを見た。
憐れみも驚きもなかった。
傷を傷として見ている。
それが八郎には好ましかった。
「いつ失ったのですか」
「一年ほど前です」
「事故で?」
「戦です」
「刃物?」
「鉄砲です」
ミレアが顔を上げた。
「テッポウ」
「俺の国の武器です」
「父から少し聞きました」
「いつの間に」
「運ばれている途中に」
「よく話す余裕がありましたな」
「珍しいものを見つけると、あの人は怪我を忘れます」
「俺は珍しいものですか」
「今のところは」
ミレアは銀盤を八郎の肩へ近づけた。
乳白色の石が、淡く光る。
青。
緑。
薄い黄。
いくつもの色が石の中で重なり、やがて緑だけが残った。
八郎は銀盤を見た。
「それが、土の魔力ですか」
「ええ」
「アルヴァン殿の」
「おそらく」
「それなら不思議ではないでしょう。肩へ土の腕を付けられました」
「術が切れれば、術者の魔力も消えます」
「残ることは」
「通常ありません」
「通常でないことならある」
「言葉尻を取らないでください」
「何も分からぬので、言葉を拾うしかない」
「……失礼しました。分からないことを尋ねるのは患者の権利です」
「患者ではないと申しているのですが」
「それはこちらが決めます。父にも横暴だと言われます」
「父?」
「アルヴァン先生です」
言われてみれば、髪も瞳も尖った耳も似ている。
だが、見た目は親子というより、歳の離れた兄妹ほどだった。
「何か」
「いえ」
「言いたいことがある顔です」
「失礼になりそうなので、控えます」
「賢明です」
ミレアは銀盤を棚へ置いた。
代わりに、銀色の液体を封じた透明な棒を取り出す。
「右肩へ触れます」
「左ではなく?」
「ない場所には触れられません」
「それは道理です」
透明な棒が右肩へ当てられる。
中の液体が淡く光った。
「腕を上げてください」
八郎は右腕を上げた。
「前へ。次に横へ」
指示どおりに動かす。
銀色の液体が肩の動きに合わせて揺れた。
「次は左です」
八郎は動かなかった。
「左腕はありません」
「分かっています。動かそうとしてください」
「何を動かすのです」
「左手を前へ出すつもりで」
八郎は空の肩を見た。
「意味があるのですか」
「確かめます」
八郎は目を閉じた。
肩を上げる。
肘を伸ばす。
手首を返す。
指を開く。
腕があった頃なら、何も考えずにできた動きだった。
今は何も動かない。
それでも身体の奥には、腕を動かそうとする感覚が残っている。
八郎は存在しない左手を、前へ差し出そうとした。
透明な棒の中で、銀色の液体がわずかに揺れた。
ミレアの眉が動く。
「もう一度」
八郎は同じ動きを思い描いた。
今度は先ほどより強く液体が揺れた。
「何が起きたのです」
「身体は、まだ左腕を動かそうとしています」
「腕がないのに」
「失ったからといって、身体がすぐ忘れるわけではありません」
「一年経っています」
「長く残る人もいます」
ミレアは透明な棒を光へ透かした。
「腕を失った人の中には、ない手が痛む者がいます。指が曲がっている。爪が掌へ食い込む。火で焼かれている。そう感じる」
「あります」
八郎は即答した。
ミレアが顔を上げる。
「今も?」
「時折」
「どこが痛みます」
「指。手首。肘」
「ない場所が」
「ええ」
夜中に、失った左手が強く握り込まれることがある。
開こうとしても開かない。
爪が掌へ食い込むような痛みだけが続く。
だが見れば、そこには何もない。
誰かに話したことはなかった。
話したところで腕は戻らない。
「医者には」
「見せていません」
「なぜ」
「腕がないことは見れば分かります」
「痛みは見えません」
「申したところで、腕は戻らない」
「痛みを減らすことはできます」
「この世界では?」
「ええ」
八郎は少し考えた。
「便利ですな」
ミレアの顔から、わずかに表情が消えた。
「便利ではありません」
「違うのですか」
「失ったものは戻らない」
声は冷静だった。
だが、先ほどまでより僅かに硬い。
「治療術で血を止められます。骨をつなぐこともできる。傷が腐るのを抑え、痛みを和らげることもできる」
ミレアは透明な棒を棚へ戻した。
「それでも、失った腕は戻りません」
八郎は自分の左肩を見た。
「それは俺の国も同じです」
「なら、便利という言葉は使わないでください」
「失礼しました」
八郎が答えると、ミレアは少しだけ目を伏せた。
「こちらこそ、言いすぎました」
廊下の向こうで、誰かが叫んだ。
「北門から三名! 一人は腹部裂傷!」
すぐに別の声が飛ぶ。
「第一処置室へ! 止血班を呼んで!」
ミレアは扉へ目を向けた。
「毎日ですか」
「毎日です。戦ではありません。だから終わりません」
敵が退けば銃声の止まる戦とは違う。昨日退けても、今日また森から出てくる。
「アルヴァン殿は、それを調べていた」
「何年も。分かっていれば、あの人はあそこまで行きません」
ミレアは検査を再開した。
床の線へ青い光が走り、八郎の足元から身体を登る。脚、腹、胸。そこで突然、消えた。
もう一度。結果は同じだった。
「あなたには魔力がありません」「あなたには魔力がありません」
八郎は左肩へ目を向けた。
「先ほど、土の魔力が残っていると」
「それはあなたのものではありません」
「この世界では、皆持っているのですか」
「生きているものなら、多少は」
「俺も生きています」
「だから、おかしい」
八郎は自分の右手を見た。
血が流れている。
息をしている。
腹も減る。
疲れもする。
生きていることには違いない。
「死者にはないのですか」
「ありません」
「ならば、俺は死者かもしれませんな」
ミレアは笑わなかった。
「冗談で言っていますか」
「半分は」
「残りの半分は」
「俺は一度死んでいます」
ミレアの目が、八郎へ向けられた。
「どういう意味です」
「胸を撃たれ、傷が腐り、薬を飲んで死んだ」
八郎は胸へ右手を置いた。
「次に目を覚ました時には、傷も包帯も消えていました」
「傷痕は」
「ありません」
「見せてください」
「今度は胸ですか」
「今すぐ」
八郎は上衣を開いた。
木古内で受けた銃創の跡はない。
腐った傷も。
巻かれていた布の痕も。
何も残っていない。
ミレアは胸へ手を当てた。
指先は冷たかった。
「心臓は動いています」
「安心しました」
「黙ってください」
「患者には尋ねる権利があるのでは」
「今はありません」
ミレアは八郎の鼓動を確かめ、透明な棒を胸へ当てた。
銀色の液体が僅かに揺れる。
「身体は生きています。ですが魔力がない。魔術を使わない者にも、人間にも獣にも草木にも、魔力はあります」
ミレアは八郎の上衣を戻した。
「あなたの身体は、この世界の生き物と構造が違うのかもしれません」
「人ではないと」
「見た目は人間です」
「褒め言葉ですか」
「診断です」
ミレアは再び、八郎の空の左肩を見た。
「身体に魔力はない。なのに、父の術は接続した」
「接続」
「肩へ土を貼りつけただけなら、不思議ではありません。けれど父は、あれを腕の形へ作った」
「動かなかった」
「最初は」
八郎はミレアを見た。
「最初は?」
「あなたは途中で、腕を動かそうとしたのでしょう」
「動きませんでした」
「一度も?」
八郎は昨夜の戦いを思い出した。
獣の牙。
老人の杖。
砕ける土。
自分の意思とは無関係に持ち上がった腕。
そして、砕けた後も残った、土の指を握ったような感覚。
「分かりません」
「嘘ですね」
「なぜ」
「答える前に、左肩を見ました」
八郎は小さく笑った。
「よく見ていますな」
「仕事です」
「一度だけ」
八郎は認めた。
「指が動いたように感じました」
「父が動かしたのでは」
「それなら、腕が砕けた後まで感覚が残るものですか」
ミレアは答えなかった。
「今も?」
「先ほど、貴女に開かされました」
ミレアは銀盤を、八郎が幻の左手を感じる位置へかざした。
「握ってください」
「ありません」
「感じている手を」
八郎は存在しない指を閉じようとした。
一指ずつ。
硬くなった指を掌へ引き寄せるように。
銀盤の石が、淡い緑色に光った。
ミレアの呼吸が止まる。
「開いて」
八郎は指を開く。
光が弱まる。
「もう一度、握ってください」
指を閉じる。
緑色の光が、先ほどより強くなる。
「俺が動かしている」
「土の残滓が、あなたの身体の命令に反応しています」
「魔力がないのに」
「ええ」
「あり得ない」
「私の台詞です」
ミレアは銀盤を下ろした。
廊下では、治療師の声と担架の車輪の音が続いている。
それでも彼女はしばらく、八郎の何もない左肩を見つめていた。
「何ができるのです」
八郎が尋ねた。
「今は、何も言えません」
「腕は作れますか」
「土で形を作るだけなら、父にもできます」
「動く腕を」
「それは別です」
「できない」
ミレアは八郎を見た。
「できるとも、できないとも言っていません」
「なら、試せる」
「簡単に言いますね」
「難しく言っても、することは同じでしょう」
ミレアは、わずかに息を吐いた。
その顔が、少しだけアルヴァンに似て見えた。
「まず父から、使った術式をすべて聞き取ります」
「話せる状態ですか」
「口だけは元気です」
廊下の奥から、アルヴァンの怒声が響いた。
「ミレア! 誰が私の杖を隠した!」
誰かが、
「傷が閉じるまで返しません!」
と怒鳴り返した。
八郎は扉の方を見た。
「元気そうですな」
「安心したから腹が立つのです」
ミレアは扉へ向かった。
「ここで待っていてください」
「どれほど」
「父の処置が終わるまで。眠っていてください」
扉が閉まった。
八郎は一人になった部屋で、空の左肩へ右手を置いた。
失った腕は戻らない。
それは、こちらの世界でも同じらしい。
だが、何もないはずの場所に、まだ動かせる何かが残っている。
八郎は存在しない左手を握った。
棚へ置かれた銀盤の石が、一度だけ淡い緑色に光った。
◇
八郎が目を覚ました時、部屋の光は少し傾いていた。
眠れる時に眠る。生き残るための身体は、持ち主より現実的だ。
扉が開く。
ミレアが入ってきた。
「アルヴァン殿は」
「処置を終え、眠らせています」
ミレアは銀盤を確認した。
「光りましたか」
「左手を握ろうとした時、一度だけ」
「分からないうちは、勝手に試さないでください」
「動かさねば、動くか分かりません」
「壊れてからでは遅い。何が壊れるかさえ、まだ分からないのです」
父なら分からないまま始める。自分は分からないものを数えてから始める、とミレアは言った。
「今日は何もしないでください。院内を案内します」
「なぜ」
「外へ勝手に出られるよりましです」
道理だった。
◇
医療院の廊下には、治療師や担架を運ぶ兵士が絶えず行き交い、壁際には傷を抱えた者が順番を待っていた。
八郎が通ると、何人かが異国の装束と空の袖へ視線を向けたが、すぐ自分の傷へ戻した。
外傷室では、治療師たちが折れた骨を合わせ、淡い光で癒合を促していた。別室では魔物の噛み傷から黒くなった肉を切り取っている。
「魔術でも、すぐ歩けるわけではないのですな」
「骨がつながっても、筋肉までは戻りません。痛みが引いても、傷が消えたわけではない」
その隣には、兵士が一人、寝台へ横たわっていた。
右腕の肘から先がない。
傷口は新しく、包帯へ血が滲んでいる。
治療師が包帯を替えていた。
兵士は天井を見たまま動かない。
八郎の足が止まった。
自分と同じだった。
違うのは、失ったばかりだということ。
まだ身体も心も、腕がなくなったことを理解していない顔だった。
「戻せるのですか」
八郎は尋ねた。
「何を」
「あの腕を」
ミレアは兵士を見た。
「切断した腕が残っていて、損傷が少なく、時間が経っていなければ可能な場合もあります」
「今は」
「無理です」
答えは短かった。
「腕は見つかっていません」
「魔物に」
「おそらく」
八郎は兵士を見た。
男の左手が、何度も寝台の端を掴んでは離している。
残った腕で、失った右手を探しているようにも見えた。
「義手は」
「あります」
「動くものも?」
「簡単なものなら」
「土の腕のように」
「土は仮のものです。木や金属で骨格を作り、魔石を組み込むものもあります」
「誰でも使えるのですか」
「いいえ」
「魔力が要る」
「ええ」
「俺にはない」
ミレアは八郎を見た。
「だから難しいのです」
「できぬとは言わない」
「まだ言いません」
兵士がこちらへ顔を向けた。
八郎の左肩を見る。
視線が止まった。
「古い傷だな」
兵士が言った。
「一年ほどです」
「慣れるか」
唐突な問いだった。
八郎は少し考えた。
「慣れます」
「嘘だ」
「では、慣れぬことに慣れます」
兵士は八郎を見た。
やがて、乾いた笑いを漏らした。
「そいつは嫌だな」
「俺もです」
「剣士か」
「そうです」
「まだ戦える?」
「戦いました」
兵士の目が、僅かに動いた。
「片腕で」
「片腕だから、と言われるのは好みません」
「悪かった」
「いえ」
八郎は自分の空の袖を見た。
「俺も初めは、同じことを考えました」
「何を」
「もう剣は振れぬと」
「違った?」
「振れました」
「前と同じに」
「いいえ」
八郎は首を振った。
「別の身体です。同じように使えば死にます」
雪の軍議室で、ヴァルクールへ言った言葉だった。
兵士はしばらく黙り、天井へ目を戻した。
「別の身体か」
「ええ」
「面倒だな」
「大層」
「それでも生きる?」
八郎は答えなかった。
答えられなかった。
自分は、その問いに「否」と答えて死んだ。
そして今、なぜかここにいる。
兵士は返事を待たず、目を閉じた。
ミレアが歩き出す。
八郎も後へ続いた。
「今の問いに、答えませんでしたね」
「聞いていたのですか」
「隣にいました」
「答えがありません」
「なくても、生きている」
「それは答えになりますか」
「私には」
ミレアは前を向いたまま言った。
「この町では、皆そうです」
◇
医療院の裏手では、洗った布が風に揺れ、その端に杖や義足、簡素な義手が並べられていた。
八郎は足を止めた。
「これを、この町で作っているのですか」
「身体に合わせるのは私たちです。部品は鍛冶師や木工職人へ頼みます」
八郎は木の義手を一つ手に取ろうとし、右手を止めた。
「触れても?」
「構いません」
手に取る。軽く、腕の形はしているが関節は動かない。
「使えるのですか」
「指は動きません。袖を保ち、荷を押さえ、身体の釣り合いを取る。それだけでも、ないより良いという人はいます」
八郎は木の義手を元へ戻した。
「作るのは」
「鍛冶師です」
「腕を作る鍛冶師」
「武器だけが鍛冶師の仕事ではありません」
「俺の国にも木の義手はありましたが、使いませんでした。剣の邪魔になる」
ミレアは義手の列を見た。
「それでも土の腕は使い、戦いの後には、また作れるか父へ聞いたそうですね」
八郎は中庭の向こうを見た。
高い防壁が、医療院の屋根越しに見える。
石、木、土、鉄。違う素材が、違う時期に継ぎ足されている。
八郎は昨夜の土腕を思い出した。
動かず、重く、粗末な腕。それでも一度、命を守った。
「町へ出ても?」
「今ですか」
「少し見たい」
「何を」
「ここが、どういう場所なのか」
ミレアは八郎の顔を見た。
止めても出る、と判断したらしい。
「正門までなら」
「十分です」
◇
医療院の正面へ出ると、町は夕刻を迎えていた。
石造りの家へ木の部屋を足し、木壁へ鉄板を打ち、窓を何度も板で塞いでいる。通りの角には槍と水桶。家々の間には、後から押し込んだような防壁まであった。
八郎は足を止めた。
「何だか、町全体が継ぎ足しだらけですな」
隣を歩くミレアが、壁へ目を向ける。
「壊されたら直します。同じものが手に入るとは限りません」
八郎は低い石垣を見た。
古い石へ違う色の石を積み、土を盛り、さらに木柵を立てている。
「町を守るために砦を造ったのではない」
八郎は呟いた。
「町へ、守りを縫い付け続けた」
ミレアが八郎を見る。
「父も似たことを言います。この町は、一度も完成したことがないと」
八郎は空の左袖へ目を落とした。
「俺の腕と同じですな」
「何がです」
「昨夜の土腕です」
八郎は左肩を軽く動かした。
「重く、動かず、見栄えも悪い」
「父が聞いたら怒ります」
「本人にも言いました」
「でしょうね」
「それでも、俺を生かした」
八郎は外壁を見た。
「この町も同じです」
ミレアは返事をしなかった。
町の一角から、今日も壁を継ぎ足す槌音が聞こえる。
「何年、こうしているのです」
「私が物心ついた頃には、もう砦町でした」
「随分と長い」
「長いですよ」
見た目は若い。
だが、その口調には八郎が想像するより長い時間が含まれているように感じた。
それ以上は尋ねなかった。
道端で子供たちが木の棒を振っていた。
二人が守り役。
三人が獣役。
木箱を防壁に見立て、獣役の子供たちが何度も突っ込んでいる。
守り役は押し返されるたび、箱を横へ並べ直した。
「遊びまで籠城ですか」
「昔からです」
「勝つ遊びではない?」
「日が暮れるまで門を守れば勝ちです」
八郎は子供たちを見た。
「敵を倒さなくても」
「門を守れば」
ミレアは当然のように答えた。
箱館では、勝たなければすべてを失うと思っていた。
この町では、敵を倒せなくても、今日一日残れば勝ちになる。
その考え方を、八郎はまだ理解できなかった。
だが、子供たちは笑っている。
◇
正門近くの詰所で、刀と脇差が返された。
門兵は、布へ包んだ二振りを両手で差し出す。
「言われたとおり、刃には触れていない」
「ありがとうございます」
八郎は刀を腰へ差した。
重さが戻り、身体の均衡が整う。だが夕日に抜いた刃には、二つの欠けと歪み、魔獣の骨へ食い込んだ箇所の細い筋が見えた。
「どうしました」
ミレアが尋ねる。
「思ったより悪い」
「折れますか」
「すぐには」
「すぐでなければ?」
「次に硬いものを斬れば、分かりません」
八郎は刀を鞘へ戻した。
「砥石を借りられますか」
ミレアは少し考えた。
「普通の砥石では無理かもしれません」
「なぜ」
「魔獣用の武器は、硬い鉱石を混ぜています。砥石もそれに合わせている」
「では鍛冶師に見せる」
「この町の鍛冶師は、皆忙しいですよ」
「壁の補修で?」
「壁。武器。農具。義肢。何でも。暇ではありませんが、興味を持つ者ならいます」
ミレアの口元が僅かに緩んだ。
「ガルドフェーン」
「人の名ですか」
「ドワーフです」
「どわーふ」
「見れば分かります」
「それで何も分からぬことは、昨日学びました」
「では会えば分かります」
「腕は」
「確かです」
「性格は」
ミレアは少し黙った。
「父親と娘もいます。三代で鍛冶をし、三代で喧嘩をしていますが、あの三人にしか直せないものも多いです」
八郎は刀の柄へ右手を置いた。
「この刀も」
「見せてみなければ」
「どこにいます」
「南の工房区です」
「今から」
「駄目です」
「なぜ」
「門が閉まります」
「町の中でしょう」
「工房区は内壁の外です。町が広がるたび、壁の外へ建物が増えました」
「明日、案内してください」
「私が?」
「紹介したのは貴女です」
「仕事があります」
「では場所を教えていただければ」
「迷います」
ミレアは医療院へ戻ろうとした。
その時、背後から声が飛んだ。
「ミレア!」
包帯を巻かれたアルヴァンが、杖もなく歩いてきた。
左右から二人の治療師が追っている。
「先生、戻ってください!」
ミレアの顔から表情が消えた。
「父さん」
その一言で、アルヴァンが足を止めた。
「なぜ歩いているのです」
「八郎の刀を見る」
「戻ってください」
八郎は刀を鞘ごと差し出した。
「ご覧になりますか」
「渡さないでください」
ミレアが言う。
「少しだけだ」
アルヴァンが言う。
「駄目です」
「娘の言うことは聞いた方がよいですな」
八郎が刀を戻す。
アルヴァンは八郎を睨んだ。
「どちらの味方だ」
「強い方です」
追ってきた治療師が笑いを堪えた。
ミレアはアルヴァンの腕を取る。
「戻ります」
「ガルドフェーンへ持っていけ」
引かれながら、アルヴァンが八郎へ言った。
「ミレアから聞きました」
「なら話は早い」
「腕のいい鍛冶師ですか」
「腕はいい」
「性格は」
「悪い」
ミレアが振り返る。
「三人とも、ですか」
「三人ともだ」
八郎は小さく笑った。
「意見が合いましたな」
「何の話だ」
「明日、刀を見せに行きます」
アルヴァンは足を止めた。
「私も行く」
「行きません」
ミレアが即座に言う。
「ガルドフェーンの爺とは話がある」
「傷が閉じてからにしてください」
「いつ閉じる」
「あなたが大人しくしていれば」
「では明日だ」
「十日後です」
「長すぎる!」
「二十日にしますか」
アルヴァンは黙った。
八郎はそのやり取りを見ながら、刀の柄へ触れた。
この世界で生きるには、刀を保たせなければならない。
刀を保たせるには、この世界の技を借りなければならない。
日本で打たれた刀を、異世界の鍛冶師へ預ける。
それが何を変えるのか。
まだ分からない。
だが、何も変えなければ、次の戦いで折れる。
「明日ですな」
八郎が言う。
「勝手に決めないでください」
ミレアが振り返った。
「案内していただける?」
「私が行くとは言っていません」
「迷うと仰った」
「誰かつけます」
「貴女が一番早い」
「なぜです」
「話が通じます」
ミレアは八郎を見た。
「それは褒めていますか」
「さあ」
アルヴァンが笑った。
笑った拍子に脇腹を押さえる。
「ほら、傷が開きました」
「開いていない」
「戻ります」
ミレアは父を連れて、医療院へ歩き出した。
治療師たちも続く。
八郎はその背を見送り、刀へ目を落とした。
夕陽を受けた鞘には、箱館の泥も、異世界の獣の血も残っている。
同じ刀だった。
だが、このまま同じではいられない。
町の外壁から、槌を打つ音が聞こえた。
壊れたものへ、別のものを継ぎ足す音。
八郎は鞘を右手で握り直した。
明日。
三代の鍛冶師へ、この刀を見せる。




