第三話 継ぎ接ぎの砦町
赤い空の下を、二人は歩いていた。
正確には、歩いているのは八郎一人だった。
アルヴァンは折れた槍と外套で作った背負い具へ括られ、八郎の背中で浅い呼吸を繰り返している。
焼けた戦場を離れてから、どれほど進んだのか。
空の色がほとんど変わらないため、時の移ろいが分かりにくい。
八郎は道端へ伸びる影を見た。
先ほどより短くなっている。
少なくとも、日は昇っているらしい。
「……死ぬなよ」
八郎は前を見たまま言った。
返事はなかった。
背中から伝わる呼吸も、ひどく弱い。
八郎は歩みを止めかけた。
「命令か」
掠れた声が、耳元で聞こえた。
「願望です」
「随分と勝手な願いだ」
「貴殿が死ねば、俺は道が分からぬ」
「私が生きていれば、道が分かると思っているのか」
「北西だと聞きました」
「大まかにはな」
「それだけあれば十分です」
アルヴァンが小さく笑った。
その直後、咳き込む。
八郎の背へ、老人の身体が何度か強く当たった。
八郎は歩幅を緩めた。
「気を遣うな」
「遣っておりません」
「なら戻せ」
「死なぬ程度に歩きます」
「どちらがだ」
「どちらもです」
また沈黙が戻った。
草を踏む音。
革紐の軋み。
遠くで鳴く、鳥とも獣ともつかぬ声。
八郎の右手は、いつでも刀へ届く位置にあった。
昨夜の魔物たちは、何の前触れもなく焼けた林から現れた。
今も、道の左右に広がる草原のどこかから、何かがこちらを見ているかもしれない。
静かすぎる。
静けさの中では、些細な音まで大きく聞こえた。
アルヴァンの呼吸が一つ止まるたび、八郎は背中の重さを確かめた。
だから声を掛けた。
道を聞くためだけではない。
生きているかを確かめるためだった。
「アルヴァン殿」
「今度は何だ」
「この空は、いつも赤いのですか」
「今は薄明期だ。赤い月の光が残っている」
「俺の国の月は、白い」
「一つだけか」
「一つだけです」
背中でアルヴァンが黙った。
「こちらには三つある」
八郎は足を止め、空を見上げた。
雲の切れ間に、巨大な赤い月が薄く残っている。残る二つは、すでに沈んでいるらしい。
「三つもあるなら、夜道に役立ちそうなものですが」
「月へ役目を求めるな」
「何もせず浮かんでいるよりはよいでしょう」
「月へ説教をする男は初めて見た」
八郎は歩き出した。
会話が途切れても、先ほどまでの静寂とは少し違った。人の声が耳へ残っている間は、遠くの鳴き声も幾分か小さく感じられた。
◇
やがて、土の道へ細い轍が現れた。
二本の筋が、草原の中を北西へ伸びている。
八郎は轍に沿って歩いた。
道と呼ぶには頼りない。
だが、人の通った跡であることは確かだった。
「街道か」
「そうだ」
「随分と細い」
「本街道ではない。調査隊が使う道だ」
「貴殿の隊ですか」
アルヴァンの返事が遅れた。
「ああ」
「他の者は」
「見ただろう」
八郎は振り返らなかった。
焼けた戦場に倒れていた死者たち。
人間。
エルフ。
異様な鎧を着た者。
人とも獣ともつかない骸。
あの中に、アルヴァンの仲間がいたのだろう。
「何人で出たのです」
「十二人」
「戻るのは一人」
「二人だ」
「俺は数に入りません」
「私を背負っている間は入れてやる」
「光栄ですな」
「少しもそう思っていないだろう」
八郎は答えなかった。
轍の縁で膝をつく。
土はまだ湿っていた。
指先で触れ、形の崩れ方を見る。
「何をしている」
「荷車が通っています」
「轍があるのだから当然だ」
「新しい」
「どの程度だ」
「半日ほど」
「分かるのか」
「土が乾き切っていない。縁も崩れておりません」
八郎は立ち上がった。
「車輪は二つ。荷は重い。馬は一頭か二頭」
「二頭だ」
アルヴァンが答えた。
「分かるのですか」
「術を使えばな」
「使えるのですか」
「今は無理だ」
「では、なぜ二頭だと」
「この辺りの荷車は、二頭で引く」
「それは術ではありませんな」
「知識だ」
「俺と同じです」
「お前のは勘だ」
「経験です」
「似たようなものだ」
八郎は轍を追った。
荷車が向かった先に町がある。
少なくとも、人が往来する道には出られた。
「魔術があれば、土へ触れずとも分かるのですか」
「術式による」
「術式」
「魔力をどう働かせるか、その組み方だ」
「火を出したり、土から腕を生やしたりするものですか」
「お前の言い方は、いちいち品がないな」
「分かりやすい」
「火を出すだけでも、術式は違う。灯りをつける火と、人を焼く火は同じではない」
「火は火でしょう」
「刀なら何でも同じか」
八郎は少し考えた。
「違いますな」
「そういうことだ」
アルヴァンは呼吸を整えながら続けた。
「魔術は形より流れが重要だ。何を使い、どこへ通し、どこで止めるか。土腕も同じだ」
「あれにも術式が」
「当然ある」
「急いで作ったと聞きました」
「急いだから粗末だった」
「次はもう少しましになる」
「次を作るとは言っていない」
「できぬのですか」
アルヴァンが鼻を鳴らした。
「私を誰だと思っている」
「賢者だそうで」
「まだ教えていない」
「先ほど自分で言っていました」
「忘れろ」
「なぜです」
「面倒だからだ」
八郎は少し笑った。
「賢者も大変ですな」
「その呼び方をする者は、たいてい面倒を持ち込んでくる」
「俺もですか」
「今のところ、最大級だ」
背中の老人は弱っている。
それでも口は回るらしい。
八郎は、それを良い兆候だと受け取った。
◇
日が高くなるにつれ、草原の色が変わった。
赤い光が薄れ、代わりに青みがかった白い空が現れる。
見慣れぬ空だった。
だが、朝が来たということだけは分かる。
八郎の喉は乾いていた。
背負った老人の体温も、まだ高い。
「水場は」
「この先に小川がある」
「どれほど」
「歩ける者なら四半刻」
「俺は歩いています」
「私を背負っていなければな」
「では半刻」
「その程度だ」
アルヴァンの声が、また弱くなった。
八郎は歩みを速めた。
「急ぐな」
「急いでおりません」
「お前は嘘が下手だ」
「嘘をつく必要がない」
「ならば歩幅を戻せ」
「貴殿は注文が多い」
「背負われている者には、景色を見る以外にすることがない」
「眠っていてもよろしい」
「眠るなと言ったのはお前だ」
「よく覚えていますな」
「忘れるほど耄碌していない」
「それなら安心です」
道の先から、水の流れる音が聞こえ始めた。
八郎は草を分け、浅い小川へ出た。
水は澄んでいる。
底の石が青く光っていた。
八郎は立ち止まる。
「飲めるのか」
「流れている。上流に死骸がなければ」
「確かめる方法は」
「私に魔力が残っていれば」
「残っていない」
「そうだ」
八郎は水面を見た。
魚に似た小さな生き物が、石の間を泳いでいる。
腹を上にして浮いているものはいない。
臭いもない。
「飲みます」
「随分と簡単に決めるな」
「飲まずに死ぬよりはよい」
八郎はアルヴァンを木陰へ下ろした。
背負い具を外すだけでも、片手では手間が掛かる。
それでも老人を地面へ落とすことなく座らせた。
「慣れたな」
「二度目は上手くなります」
「一度目は私を荷のように放ったが」
「まだ覚えていたのですか」
「忘れると思ったか」
八郎は小川へ膝をつき、右手で水を掬った。
まず口を濯ぐ。
次に少量を飲む。
冷たい。
身体へ染み込む。
異変はない。
何度か飲んでから、外套の切れ端へ水を含ませ、アルヴァンへ渡した。
「自分で飲めますか」
「その程度はできる」
老人は布から水を吸った。
口元から顎へ水が零れる。
八郎は見なかったことにした。
「何だ」
「何も」
「笑うな」
「笑っておりません」
「顔が笑っている」
「貴殿はよく見ていますな」
「他に見るものがない」
八郎は川辺へ腰を下ろした。
刀を抜き、刃を確かめる。
昨夜の戦いで生じた欠けが二つ。
刃先には目立たない歪みもある。
このまま使い続ければ、遠からず折れる。
「その武器は脆いのか」
アルヴァンが尋ねた。
「刀です」
「名ではなく性質を聞いている」
「斬るためのものです。叩きつければ欠けます」
「昨日は叩きつけていた」
「相手が硬かった」
「魔獣へ向いていないのでは」
「貴殿の腕よりは保ちました」
「比べるな」
八郎は刀を光へかざした。
「こちらの武器は違うのですか」
「魔獣用の剣は厚い。魔力を通すものもある」
「武器にも魔術を」
「使う者が多い」
「便利ですな」
「お前は先ほどから、そればかりだ」
「便利なのでしょう」
「便利だ」
アルヴァンはあっさり認めた。
「だが、魔力が尽きればただの鉄になる」
「鉄であれば十分では」
「使い手による」
「それは刀も同じです」
八郎は刃を鞘へ納めた。
小川の水面に、赤い月の薄い影が映っていた。
空が明るくなっても、月は完全には消えないらしい。
「お前の国には、魔術がないと言ったな」
「ありません」
「誰も使えないのか」
「少なくとも、俺は見たことがない」
「では、どうやって戦う」
「刀や槍。弓。鉄砲。大砲」
「テッポウというのは、先ほど言っていた武器か」
「ええ」
「どのようなものだ」
八郎は少し考えた。
「筒へ火薬と弾を入れ、火をつけて飛ばします」
「火の術か」
「術ではありません」
「火薬とは」
「燃える粉です」
「その粉を使えば、誰でも撃てるのか」
「教えれば」
「どれほどで」
八郎は、雪の軍議室を思い出した。
窓板を叩く雪。
地図の上の木片。
ヴァルクールが指先で並べた兵の駒。
『小銃は、十日です』
「十日」
八郎は答えた。
「十日あれば、農夫でも撃てるようになる」
「当てられるのか」
「一人では難しい。百人いれば当たります」
アルヴァンが黙った。
その沈黙は、雪の軍議室でヴァルクールが見せたものとよく似ていた。
「恐ろしい武器だな」
「そうでしょうか」
「十日で兵を作れる」
「剣士を作るよりは早い」
「お前は何年掛かった」
「十数年」
「それほど鍛えた者を、十日で殺せるのか」
「殺せます」
八郎は刀の柄へ右手を置いた。
「つまらぬ世ですな」
「弱い者には、よい世かもしれん」
八郎はアルヴァンを見た。
老人は川面へ視線を落としている。
その言葉を、八郎は以前にも聞いた。
まったく同じではない。
だが、よく似ている。
「どうした」
「いえ」
八郎は立ち上がった。
「昔、同じようなことを言った男がいました」
「賢い男だ」
「面倒な男でした」
「お前に言われるなら、余程だな」
八郎はアルヴァンへ背を向け、背負い具を整えた。
「行きましょう」
「もう少し休ませろ」
「先ほど急ぐなと言ったでしょう」
「今は休めと言っている」
「注文が多い」
「老人だからな」
「ようやく認めましたか」
「お前がそう呼ぶからだ」
八郎はアルヴァンを背負い直した。
今度は、先ほどより手際がよかった。
◇
小川を離れて間もなく、道端に横転した荷車が見えた。
八郎はすぐに歩みを止めた。
車輪が一つ外れ、荷台が傾いている。
馬の姿はない。
道へ散った荷物の一部が、踏み荒らされていた。
「先ほどの轍か」
アルヴァンが言った。
「おそらく」
八郎は老人を道脇の木へ下ろした。
「待て」
「見てきます」
「私を置いていくな」
「声が届くところにいます」
「魔物が出たら」
「叫んでください」
「戦えと言うのか」
「逃げるよりは向いているでしょう」
八郎は刀を抜いた。
荷車へ近づく。
血の臭いがした。
新しい。
荷台の陰に男が一人倒れている。
八郎は周囲を見た。
草の倒れ方。
足跡。
引きずられた荷物。
馬の蹄跡は北へ続いている。
逃げたのか、奪われたのか。
男の身体へ近づく。
すでに息はない。
胸へ刃物の傷が一つ。
魔物に襲われた傷ではなかった。
「人です」
八郎が声を掛ける。
「分かるのか」
「斬られています」
「盗賊だろう」
「何を運んでいたのです」
「見れば分かる」
荷台には、干し肉、穀物の袋、乾燥した果実、水袋。
生活物資らしい。
八郎は男の腰を見た。
剣はない。
鞘だけが残っている。
金目の物も奪われたのだろう。
だが食料はすべて持ち去られていない。
急いでいたのか。
あるいは、積み切れなかったか。
「持って行け」
アルヴァンが言った。
八郎は動かなかった。
「死者の物です」
「だから何だ」
「勝手に持つものではない」
「では置いていくか」
「それが筋でしょう」
「この男はもう食わん」
アルヴァンの声は静かだった。
「だが、お前は食わねば歩けん。私も水が要る」
八郎は死者を見下ろした。
戦場で、死者から弾薬や武器を取ることはあった。
必要だった。
仲間の死体から弾を抜き、敵の銃を拾い、次の敵へ向ける。
今さら死者の荷へ触れることを潔癖に嫌うつもりはない。
だが、この男は兵ではない。
商人か、運び人か。
家族のために荷を運んでいたのかもしれない。
「気分が悪いか」
「ええ」
「気分では腹は膨れん」
「分かっています」
八郎は刀を納め、男の傍らへ膝をついた。
右手を合わせる。
「借ります」
返事はない。
水袋と干し肉を少し取った。
それ以上には触れなかった。
「少ないな」
「町まで保てばよい」
「私の分もあるのか」
「貴殿は水だけです」
「怪我人ほど食うべきだ」
「吐かれても困ります」
「医者か」
「料理人でもありません」
八郎は水袋を腰へ括りつけ、男の身体へ外套を掛けた。
荷車の板を一枚外し、短い杭のように地面へ立てる。
「何をしている」
「目印です」
「誰のためだ」
「後から来る者のために」
「盗賊が戻るかもしれん」
「それでも、死者がいるとは分かります」
アルヴァンは何も言わなかった。
八郎は背負い具へ老人を戻した。
「行きましょう」
「お前の国では、皆そうするのか」
「何を」
「死者へ手を合わせる」
「人によります」
「お前はする」
「寝覚めが悪いので」
「随分と自分勝手な弔いだ」
「死者は文句を言いません」
「生きている者には言われるぞ」
「慣れています」
八郎は再び歩き始めた。
背後に、横転した荷車と小さな目印が残った。
◇
道は次第に広くなった。
轍も増えている。
人の足跡。
馬の蹄。
小さな車輪の跡。
ところどころ、道端へ古い石柱が立っていた。
文字らしきものが刻まれているが、八郎には読めない。
「何と書いてあるのです」
「距離だ」
「町まで」
「あと二里ほど」
「里」
「こちらの距離だ。お前の国とは違う」
「どれほどです」
「歩いて半刻ほど」
「初めからそう言えばよい」
「お前が里と聞いたから答えた」
「言葉は通じても、物差しまでは通じぬようですな」
「当たり前だ」
アルヴァンの声は少し戻ってきていた。
水を飲ませたことが効いたのか。
あるいは、町が近いと分かり気が緩んだのか。
「アルヴァン殿」
「何だ」
「この辺りは、いつも魔物が出るのですか」
「出る」
「町の近くにも」
「ああ」
「人が住めるのですか」
「住んでいる」
「なぜ移らない」
「どこへ」
「安全な場所へ」
「土地を捨ててか」
「命より大事なものがありますか」
アルヴァンはすぐには答えなかった。
「あると思う者もいる」
「土地が」
「家。畑。墓。仕事。名。そうしたものだ」
「死ねば、すべて失います」
「生きるためにすべて捨てれば、何が残る」
八郎は黙った。
五稜郭。
箱館。
幕府。
父の道場。
仲間たち。
すべて失った。
最後には、自分の命まで捨てた。
その時、何が残ったのか。
今の自分には答えられない。
「この土地の者は、強いのですな」
「違う」
アルヴァンが言った。
「離れられないだけだ」
「それを強いと言うのでは」
「弱さと強さは、似た顔をしている」
八郎は答えず、歩き続けた。
◇
やがて、丘の向こうに町が見えた。
最初に目へ入ったのは、石壁だった。
だが城壁と呼ぶには、形が揃っていない。
低い石垣の上へ木柵が載り、その向こうに土塁が盛られている。
一部には煉瓦に似た赤い石が使われ、別の場所では丸太を縦に並べて補っている。
見張り櫓も、左右で高さが違った。
古い柱へ新しい梁を渡したもの。
傾いた屋根を、外側から別の柱で支えたもの。
城門の手前には空堀が掘られているが、途中で形が変わり、後から深く掘り直した跡があった。
町を守る設備が、一つの考えで造られていない。
八郎は歩みを緩めた。
「妙な町ですな」
「何がだ」
アルヴァンが背中で尋ねる。
「宿場へ砦を継ぎ足したように見える」
「元はそうだ」
「元は?」
「街道沿いの宿場町だった」
八郎は防壁を見た。
古い石壁。
その上へ載せた木柵。
木柵の隙間を埋める土嚢。
壊れた箇所へ積み直した石。
一度の工事で造られたものではない。
「いや」
八郎は首を振った。
「宿場へ砦を足しただけではありませんな」
「では何だ」
「町へ守りを縫い付け続けた」
アルヴァンは何も言わなかった。
「壊されるたび、別のものを継いだ。足りぬところへ、また足した」
八郎は、城壁の一角を見た。
石壁の外側へ、古い木柵が斜めに張り出している。
そのさらに前へ、尖らせた杭が並べられていた。
見栄えは悪い。
だが敵が近づけば、足は止まる。
「急場しのぎの積み重ねです」
「悪いか」
「いいえ」
八郎は空の左袖へ目を落とした。
「俺の左腕のようだと思いまして」
「昨夜の土腕か」
「ええ。重く、動かず、見栄えも悪い」
「作った者の前で随分と言う」
「ですが、あれがなければ死んでいた」
八郎は城壁へ目を戻した。
「この町も同じでしょう」
アルヴァンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「二十六年だ」
「何がです」
「最初の壁が造られてからだ」
八郎は石壁を見た。
二十六年。
古いはずだった。
雨に削られ、苔が生え、何度も補修されている。
「それほど長く」
「魔物が増え始めてからな」
「二十六年前に、何かあったのですか」
「分からん」
「調べに出たのでは」
「分からぬから調べに出た」
アルヴァンの声が僅かに硬くなった。
「戻ったのは俺たちだけです」
「そうだ」
「また行くのですか」
「生きていればな」
「懲りぬ御仁だ」
「お前に言われたくない」
八郎は口元を緩めた。
城門が近づく。
壁の内側から、槌を打つ音が聞こえていた。
補修は今も続いている。
「この町は、負け続けている」
八郎は呟いた。
「違う」
アルヴァンが答えた。
「生き残り続けている」
八郎は門を見た。
傷だらけの門板。
継ぎ足された鉄板。
何度も打ち直された蝶番。
新しい材木と、黒く変色した古い材木。
勝った町には見えない。
だが、滅びた町でもなかった。
◇
城門の上で、見張りがこちらに気づいた。
「止まれ!」
鋭い声が飛ぶ。
八郎は足を止めた。
壁上から、複数の弓が向けられる。
長い弓ではない。
横向きの台へ弦を張った、鉄砲に似た形の武器だった。
「名を名乗れ!」
アルヴァンが八郎の背中で顔を上げる。
「アルヴァン・セレディアだ」
声が届かなかったのか、反応がない。
八郎は息を吸った。
「アルヴァン・セレディア!」
城門へ向けて声を張る。
門上が静まり返った。
若い兵が、隣の男へ何か尋ねる。
年嵩の兵が目を凝らした。
「……賢者様?」
アルヴァンが右手をわずかに上げた。
「生きておられた!」
門上が一斉に騒がしくなった。
「門を開けろ!」
「医療班へ知らせろ!」
「調査隊の生存者だ!」
重い門が軋み始める。
動きは早かった。
誰かが鐘を鳴らす。
壁の内側から足音が集まってくる。
門が開く前から、担架を持った者たちが待機していた。
「随分と慣れていますな」
八郎が言う。
「何に」
「怪我人を迎えることに」
アルヴァンは答えなかった。
門が開いた。
町の中から、人々が駆けてくる。
先頭は兵士ではない。
同じ灰色の上着を着た、数人の男女だった。
腕章のような布には、八郎の知らない印が縫い付けられている。
その後ろから担架が運ばれてきた。
年嵩の男が、アルヴァンの脇腹を見るなり顔色を変える。
「すぐ医療院へ」
「大袈裟だ」
「黙っていてください」
男は八郎へ向き直った。
「下ろせますか」
「手を貸していただければ」
背負い具の紐を解く。
右手だけでは時間が掛かる。
男がすぐに結び目を切った。
アルヴァンの身体が担架へ移される。
傷口を覆っていた布が外されると、周囲の者たちが息を呑んだ。
「この止血は誰が」
男が尋ねる。
「俺です」
「片手で?」
「膝も使いました」
男は八郎の左袖を見た。
何か言いかけたが、今はアルヴァンが先だと判断したらしい。
「その方も一緒に」
「俺は怪我をしていません」
「血だらけです」
「他人と獣の血です」
「なお悪い」
担架が町の奥へ運ばれていく。
八郎も後を追おうとした。
だが門兵が前へ出た。
「待て」
槍の穂先が、八郎の胸元へ向けられる。
「その武器を預かる」
八郎は門兵を見た。
若い。
だが槍を持つ手は震えていない。
壁の上には、まだ弓が向けられている。
町へ入る以上、当然の警戒だった。
「承知しました」
八郎は刀と脇差を鞘ごと腰から外した。
「ただし、雑に扱わぬよう願いたい」
門兵は戸惑った。
「武器を預けるのに、随分と素直だな」
「ここで斬り合う理由がありません」
「抜こうとは思わなかったのか」
「思う必要がない」
八郎は刀を差し出した。
門兵が両手で受け取る。
予想より重かったのか、少し姿勢を崩した。
「細いな」
「刃へ触れぬよう」
「分かっている」
「先ほどの持ち方では、指が落ちます」
門兵は慌てて持ち直した。
「先に言え」
「今言いました」
八郎は担架の後を追った。
◇
門をくぐると、町の内側にも長い防衛の跡があった。
古い木造家屋の間へ石の詰所が割り込み、軒先には水桶と砂袋が並ぶ。片脚を木へ替えた男、片目を布で覆った女。子供たちは、担架が通っても泣きも駆け寄りもしなかった。
怪我人が戻る光景に、町そのものが慣れている。
横道から、包帯を巻いた兵士を乗せた荷車が出てきた。
「今日は少ない方だ」
担架の脇を歩く男が言う。
「北門の哨戒が戻れば、もう少し増える」
嘆きではなく、ただ事実を述べる声だった。
◇
医療院は、町の中央近くにあった。
二階建ての石造りで窓が大きく、入口は荷車が入れるほど広い。周囲の建物より明らかに堅牢で、長く使うことを前提に造られていた。
「随分と立派ですな」
「ここだけは金が出る」
担架の上でアルヴァンが薄く目を開けた。
「死ぬ者が多いからだ」
入口を入った途端、空気が変わった。
薬草の匂い。
煮沸した布の湯気。
血の臭い。
壁に埋め込まれた青白い石が、灯りを放っている。
廊下の左右にはいくつもの部屋が並び、負傷者の呻き声が聞こえた。
医療院の者たちは、アルヴァンを見ても騒がなかった。
驚きはした。
だが、手は止めない。
「第二処置室を空けろ」
「洗浄水を」
「出血量は」
「分からん。傷口を確認する」
指示が飛び交う。
担架が廊下を進む。
その先から、一人の女が歩いてきた。
走ってはいない。
だが周囲の者たちが、自然に道を空けた。
見た目は、二十代後半ほど。
淡い銀色の髪を後ろで束ね、灰色の長衣の袖を肘まで捲っている。
細身ではあるが、歩き方に迷いがない。
長く尖った耳。
アルヴァンと同じ、深い緑色の瞳。
女は担架の横へ来ると、まず顔を見た。
次に呼吸。
首筋へ指を当て、脇腹の布をわずかにめくる。
「意識は」
「ある」
アルヴァンが答えた。
「口を開く力があるなら、まだ大丈夫ですね」
「随分な言い方だ」
「帰ってきて最初に言うことが、それですか」
「迎えが遅い」
女の目が細くなる。
「迎えを待てる場所へ行ってください」
アルヴァンは答えなかった。
女はすぐに傷へ意識を戻した。
「処置室へ。洗浄を先に。魔力は使わせないでください」
「賢者様が術を?」
「使っています。残滓がひどい」
女の視線が、担架から八郎へ移った。
血と泥に汚れた装束。
腰から外された刀の跡。
そして、空の左袖。
視線がそこで止まった。
「アルヴァン先生を運んだのは、あなたですか」
「成り行きです。他に運ぶ者がおりませんでした」
女は八郎の顔を見た。
感謝より先に、何かを測っている目だった。
「怪我は」
「ありません」
「左肩を見せてください」
「左肩?」
「今すぐ」
八郎は空の袖へ右手を触れた。
「何もありません」
「いいえ」
女は一歩近づいた。
八郎の左肩へ手を伸ばす。
触れる寸前で、指を止めた。
緑の瞳がわずかに見開かれる。
「土の魔力が残っています」
八郎は眉を寄せた。
「残るものなのですか」
女は答えなかった。
ただ、何もない左肩を見つめている。
やがて、低い声で呟いた。
「……あり得ない」




