第二話 仮初めの左腕
闇の中で動いたものは、獣ではなかった。
死体の間から、人に似た巨体が身を起こした。
八郎より頭二つは高い。灰色の皮膚に覆われ、口元から豚のような牙が突き出している。左脚を引きずり、片手には穂先の折れた槍を握っていた。
その足元に、白髪の老人が倒れている。
巨体は老人がまだ生きていることに気づくと、折れた槍を振り上げた。
八郎は鞘を帯へ押しつけ、右手で刀を抜いた。
巨体が振り返る。
だが、遅い。
八郎は傷めた左脚の側へ踏み込み、膝裏を斬った。
巨体が姿勢を崩す。
折れた槍が横薙ぎに振られた。八郎は半歩だけ退いて躱し、伸び切った腕の内側へ入る。
立ち上がる前に、首へ刃を走らせた。
硬い手応えが右手へ返った。
それでも刃は喉を断ち、巨体は声を上げることなく倒れた。
八郎は刀を下げず、周囲の気配を探った。
新たに動くものはない。
そこで初めて、巨体の足元にいた老人がわずかに顔を上げた。
白髪は血と泥に汚れ、脇腹には折れた槍の穂先が突き立っていた。異様な鎧をまとった死者たちの間で、かろうじて息だけをつないでいる。
老人は八郎を見ると、何事かを口にした。
聞いたことのない言葉だった。
それなのに、意味だけは頭へ入ってきた。
「……生き残りか」
八郎は返事をせず、周囲へ目を走らせた。
焼けた木々。
横転した荷車。
人のものとは思えぬ足跡。
倒れている死体の多くには、刃物とも鉄砲とも違う傷がある。胸を抉られた者。鎧ごと焼かれた者。半ば石のように変わった者。
戦はすでに終わっている。
だが、危険が去ったとは限らない。
八郎は刀を抜いたまま老人へ近づいた。
「穂先を抜くぞ」
今度は八郎が口を開いた。
老人の眉がわずかに動く。
「何を言っているか分からん」
そう答えながら、言葉の意味はやはり通じているらしい。
八郎は老人の脇腹を見た。
槍は深くない。刃先が鎧の隙間へ入り込み、肉へ食い込んでいる。だが無理に抜けば出血が増える。
「俺の言葉が分からぬのか」
「音は分からん。だが、何を言っているかは分かる」
「妙な話だ」
「それはこちらの台詞だ」
老人は苦しげに息を吐いた。
「聞いたことのない発音だ。東方諸国の言葉でもない」
「東方とやらは知らぬ」
八郎は刀を置き、脇差で老人の衣服を裂いた。
「噛むものはあるか」
「何をする」
「手当てだ」
老人が止める間もなく、八郎は槍の穂先を抜いた。
老人が歯を食いしばる。
血が溢れた。
八郎は裂いた布を傷口へ押し当て、片手と膝を使ってきつく巻いた。
左腕を失ってから、こうした作業にも慣れた。
美しくはない。
だが血は止められる。
「随分と乱暴だな」
「生きているなら十分だ」
八郎が立ち上がろうとした時だった。
失われた左肩へ、冷たいものが触れた。
濡れた土だった。
焼けた地面から浮き上がった泥が、細い筋となって袖口へ這い上がってくる。
蛇を思わせる動きだった。
八郎は身を引いた。
「何をした」
背後の老人へ問いかける。
返事はなかった。
老人は地面に横たわったまま、一本の杖を握り締めていた。
枯れ木の根を削り出したような杖だった。その先端に嵌め込まれた緑色の石が、弱々しく明滅している。
土が左肩へ集まった。
小石が混じる。
砂が固まり、括られていた袖を内側から押し広げる。
肩の先から、太い柱のようなものが伸び始めた。
「待て」
八郎は右手で土を払い落とそうとした。
だが、指先が触れるより先に土は固く締まった。
上腕らしき形を作り、次いで肘、前腕へと伸びていく。
最後に、五本の太い指が生まれた。
人の腕に似ていた。
似ているだけだった。
肌も爪もない。
表面には石や木の根が露出し、関節の境目には深い亀裂が走っている。
土で作られた、人の左腕。
あり得ぬものが、自分の肩から生えていた。
八郎は言葉を失った。
失ったはずの左腕が重い。
肩が引かれる。
土の塊を縄で括りつけられたような、無遠慮な重さだった。
「……妖術か」
老人の瞼が、わずかに開いた。
「妖術というものは知らん」
「では、これは何だ」
「腕だ」
「腕は土から生えぬ」
「生えたではないか」
「戯言を申すな」
八郎は左手を握ろうとした。
動かない。
もう一度、強く念じる。
土の指がかすかに震えた。
それだけだった。
感触はない。
重みだけが肩へ食い込み、慣れた姿勢を崩している。
「外せ」
「嫌なら後で外す」
「今外せ」
「今外せば、私もお前も死ぬ」
老人は杖を支えに、上体をわずかに起こした。
脇腹を縛った布へ、新しい血が滲み始めている。
「前を見ろ」
八郎は顔を上げた。
焼けた木々の間に、三頭の獣が現れていた。
狼に似ていた。
だが八郎の知る狼より、ひと回り大きい。肩は人の腰ほどまであり、黒い毛皮の間から骨のような棘が突き出している。
白く濁った息を吐き、濁った赤い目でこちらを見ていた。
「犬ではないな」
「ブラッドリッパーだ」
「名を聞いても分からぬ」
「私にも説明している余裕はない」
三頭はすぐには襲ってこなかった。
一頭が正面に残り、二頭が左右へ散っていく。
八郎と老人を囲むつもりらしい。
群れで獲物を仕留める知恵がある。
ただの畜生ではない。
八郎は刀を右手に構えた。
左へ半歩動こうとする。
土腕の重みで身体が傾いた。
足がもつれる。
八郎は舌打ちした。
「これでは動けぬ」
「動かすためではない。左を塞ぐためだ」
老人の声には、先ほどまでとは異なる力があった。
「片腕でありながら、お前はあの灰色鬼を倒した」
老人の視線が、少し離れた場所へ倒れている巨体へ向いた。
「灰色鬼というのか」
「正確には違う。だが今はどうでもよい」
老人は荒い息を吐いた。
「お前には腕が一本足りない。左から攻められれば、防げるものがない」
「片腕で戦うのには慣れている」
「慣れている者の動きではあった」
老人は認めた。
「それでも、二本ある者より守れる範囲が狭いことは変わらん」
八郎は答えなかった。
そんなことは、左腕を失った日から誰よりも理解している。
敵の攻撃を右側へ集める。
足を使い、左へ回り込ませない。
鞘も袖も、時には身体そのものも使い、間合いをずらす。
失った腕を嘆くより、その腕がない状態で勝つ方法を身につけてきた。だが、この土腕は重心を狂わせ、足を鈍らせている。
「なぜ俺に、このようなものを」
「お前が生きれば、私も生きられる」
老人は隠さなかった。杖は震え、土腕を保つたびに顔から血の気が失われていく。
「俺を守れば、自らも助かると」
「そうだ」
八郎は、わずかに口元を緩めた。
「正直な御仁だ」
「その方が信用できる」
右へ回った獣が地を蹴った。
速い。
八郎は右足を引き、身体を半身に開いた。
土腕の重みが遅れてついてくる。
いつもの間合いではない。
獣は正面から飛びかかると見せ、途中で大きく方向を変えた。
八郎の左側へ回る。
左腕のない敵を狙う、理にかなった動きだった。
八郎は向き直ろうとした。
土腕が地面すれすれまで垂れ下がり、足運びを妨げる。
わずかに遅れた。
獣の爪が迫る。
左肩から胸元へ向けた一撃。
避け切れない。
八郎は反射的に身体を捻った。
その瞬間、土腕が獣の爪の前へ出た。
八郎が動かしたのではない。
背後で、老人の杖が強く光っていた。
鈍い音が響く。
土の上腕へ、三本の爪が深く食い込んだ。
肩を引き千切られるような衝撃だった。
八郎の身体が宙へ浮き、地面を転がる。
刀だけは離さなかった。
左肩が熱い。
斬られた。
そう思った。
八郎は身を起こし、左肩へ目を向ける。
血は出ていない。
土腕の上腕が、大きく抉れている。
表面から小石と砂が零れ落ちていた。
あとわずか深ければ、爪は八郎の肩から胸へ届いていただろう。
「……受けたのか」
土の塊が。
自分の代わりに。
そこに痛みはない。
だが肩には、衝撃が残っている。
腕としての感触はなくとも、確かに左側へ何かが存在していた。
「立て!」
老人が叫んだ。
獣が再び飛びかかってくる。
八郎は刀を構えた。
先ほどまでとは違い、土腕の重さを意識する。
動かそうとはしない。
動くものとも考えない。
肩からぶら下がった、ただの土塊。
だが、爪を一度受け止める程度には硬い。
それだけ分かればよい。
二度目の突進。
八郎は早めに足を運んだ。
土腕の重みを見越し、普段より大きく右へ回る。
獣の爪が空を裂いた。
八郎はその脇へ潜り込み、刀を振り上げる。
腹を斬る。
刃が皮を裂いたが、浅い。
獣が身を翻した。
太い尾が八郎の胴へ迫る。
避けるには遅い。
八郎は左肩を前へ差し出した。
腕を出したというより、土塊を敵へぶつけただけだった。
尾が土腕へ当たる。
前腕が半ばから砕けた。
石と土が飛び散る。
しかし威力は削がれ、八郎の身体はわずかによろめくだけで済んだ。
そのまま踏み込む。
右手一本の突き。
獣の片目から、刀を深く突き入れた。
獣は短く鳴き、地へ崩れた。
一頭。
残りは二頭。
八郎は刀を引き抜いた。
左腕は肘から先を失っている。
先ほど生えたばかりだというのに、すでに半分も残っていなかった。
「脆いな」
「急いで作ったのだ!」
残る二頭が左右へ散った。
どちらも先ほどより慎重になっている。
一頭は八郎を見る。
もう一頭は、その背後にいる老人を見ていた。
弱い方から狙うつもりらしい。
「老人」
「誰が老人だ」
「左の一頭を止められるか」
「土を盛れ」
「では、足を取らせろ」
二頭が同時に動いた。
八郎も地を蹴る。
老人を狙う一頭へ、正面から踏み込んだ。
獣は口を開き、牙を剥く。
八郎は直前で身を沈めた。
爪が頭上を掠める。
刀を前脚の付け根へ斬り込む。
深くは入らない。
だが筋を断った。
獣の姿勢が崩れる。
八郎は斬り抜かず、刀の鍔元を右肩で押した。
刃がさらに肉へ沈む。
獣が転倒した。
その背後から、もう一頭が迫る。
「今だ!」
老人の杖が地面へ打ちつけられた。
獣の足元が突然盛り上がった。
壁ではない。
せいぜい拳二つ分ほどの、低い土の隆起だった。
だが全速力で駆けていた獣には、それで十分だった。
前脚が取られる。
巨体が傾き、地面を滑った。
八郎は最初の一頭へ戻る。
倒れた獣が起き上がろうとしていた。
首を狙う。
刀を振り下ろす。
刃が骨で止まった。
硬い。
八郎は歯を食いしばり、右手だけで刀を押し込む。
普段なら、左手を棟へ添えられた。
今はできない。
肩から垂れ下がった土腕の残骸は、重いだけだ。
獣が身体を起こそうとする。
刀が抜けない。
もう一頭の足音が迫る。
八郎は刀を手放し、横へ転がった。
獣の爪が、先ほどまで頭のあった場所を抉る。
刀は倒れた獣の首へ食い込んだままだ。
八郎は腰の脇差へ右手を伸ばした。
だが抜くより早く、目の前の獣が飛びかかる。
八郎は土腕を振ろうとした。
動かない。
重い腕が地面を擦る。
「動け」
何も起こらない。
「動け!」
土の指は、すでに砕けて存在しない。
獣の牙が迫った。
背後で、老人が杖を振る。
土腕が乱暴に持ち上がった。
八郎の意思とは無関係な動きだった。
腕というより、棒で殴りつけるような軌道。
残った上腕が獣の顎へ当たる。
土が砕けた。
八郎の肩まで衝撃が走る。
獣の頭がわずかに逸れた。
八郎は脇差を抜いた。
すれ違いざまに、獣の喉へ刃を突き込む。
短い刀身が、近すぎる間合いには向いていた。
獣の勢いを利用し、切先を深く滑り込ませる。
鮮血が噴き出した。
獣は数歩よろめき、倒れた。
二頭目。
八郎は脇差を引き抜き、立ち上がった。
左肩は再び軽くなっていた。
土腕が完全に砕けたのだ。
湿った土と小石が、地面へ散らばっている。
腕だったものは、もうどこにもない。
最後の一頭が立ち上がろうとしていた。
先ほど脚を取られた獣だ。
八郎は脇差を構える。
刀は別の獣の首に刺さったまま。
取り戻すには、目の前の獣を越えなければならない。
背後では老人の呼吸が弱くなっている。
もう一度、土腕を作る余力はないだろう。
獣が低く唸った。
八郎も動かない。
先ほどより状況は悪い。
それなのに、身体は動きやすかった。
土腕の重さが消え、慣れ親しんだ隻腕の均衡が戻っている。
「やはり、こちらの方が楽だ」
老人が息を切らしながら言った。
「せっかくの腕を失っておいて、何を言う」
「俺の腕ではなかった」
「ならば、なぜ使った」
「使えるものは使う」
「気に入らぬ男だ」
獣が重心を下げる。
右の前脚を傷めている。
真っ直ぐには来られない。
左へ回る。
八郎はそう読んだ。
獣が地を蹴る。
予想どおり、左へ身体が流れた。
八郎は正面から退かず、半歩だけ踏み込む。
脇差を振り上げない。
切先を低く保ったまま、獣の内側へ身体を滑り込ませる。
牙が肩先を掠めた。
八郎は脇差を、傷ついた前脚の付け根へ深く突き入れた。
獣の身体が崩れる。
右手を返し、刃を喉へ引き上げる。
血が八郎の頬へ飛んだ。
獣は地面を二度掻き、それきり動かなくなった。
周囲に静寂が戻った。
八郎はしばらく耳を澄ませた。
新たな足音はない。
そこで初めて、深く息を吐いた。
身体は蘇っていても、疲れまで消えるわけではないらしい。
脇差を拭い、鞘へ納める。
倒れた獣の首から刀を引き抜いた。
刃には、新たな欠けが生じている。
この地の獣を斬り続ければ、長くは保たないだろう。
八郎は刀身を拭い、鞘へ戻した。
それから老人のもとへ歩み寄る。
老人は地面に横たわり、半ば目を閉じていた。
「生きているか」
「辛うじてな」
「先ほどの腕は、もう出せぬか」
「今は無理だ」
八郎は老人の脇腹を確認した。
傷口から再び血が流れている。
土腕を保った分だけ、老人自身の命が削られたのだろう。
「賭けたのだ」
老人が言った。
「何に」
「お前にだ」
八郎は眉を寄せた。
「選べる立場ではなかった」
「正直だな」
老人は地面に散った土を見た。
ほんの少し前まで、八郎の左腕だったもの。
「あれは急造だ。形を保つだけで精一杯だった」
「だから動かなかったのか」
「腕とは、形だけで動くものではない」
老人は咳き込んだ。
唇へ血が滲む。
八郎はその身体を起こした。
「近くに人のいる場所は」
「北西に街道がある。半日ほどで砦町へ着く」
「貴殿を担いでもか」
「一日以上かかるだろう」
「夜を越せるか」
「ここでは無理だ」
老人は焼けた戦場を見回した。
「血の臭いに、別の魔物が寄ってくる」
「なら、俺が運ぶ」
八郎は老人の右腕を自分の肩へ回し、抱え上げようとした。
左腕がないため、思うように支えられない。
老人の身体が傾く。
「待て。落とすつもりか」
「黙っていろ」
八郎は周囲を見回した。
近くに転がっていた折れた槍を拾い、柄を二本並べる。死者の外套を裂いて結び、簡単な背負い具を作った。
老人をそこへ座らせ、右肩と腰へ括りつける。
不格好だが、歩けないことはない。
「お前は何者だ」
背中の老人が尋ねた。
「先ほど名乗った」
「名ではない」
「伊庭八郎だ」
「だから、それが何者なのかと聞いている」
「武士だ」
「ブシ」
「剣を取り、主君に仕える者だ」
「どこの国の」
「日本」
老人は沈黙した。
しばらくして答える。
「知らん国だ」
八郎の足が止まった。
「日本を知らぬ?」
「聞いたことがない」
「清国も、英吉利も、仏蘭西も」
「どれも知らん」
八郎は振り返ろうとした。
背中に老人がいるため、顔までは見えない。
「では、ここはどこだ」
「セレネア大陸西部。アルディナ王国の北辺だ」
聞いたことのない地名だった。
八郎は黙った。
江戸からどれほど離れた土地なのか。
蝦夷より北か。
海を越えた西洋の、さらに奥なのか。
だが英吉利も仏蘭西も知らぬ者が、西洋人に似た顔をしている。
しかも土から腕を作り、犬とも狼ともつかぬ獣を魔物と呼ぶ。
何一つ、理屈がつながらない。
「貴殿は西洋人ではないのか」
「西洋人とは何だ」
「異国の、白い肌をした者だ」
「それなら、人間の北方種を指しているのかもしれん」
「人間の?」
八郎はようやく、老人の耳へ視線を向けた。
白髪の間から、長く尖った耳が覗いている。
先ほどまでは、怪我で変形したものか、異国人特有の形だと思っていた。
「その耳は、生まれつきか」
「今頃気づいたのか」
「貴殿は人ではないのか」
老人はしばらく黙った。
八郎の問いの意味を測っているようだった。
「私はエルフだ」
「えるふ」
「人間とは別の種族だ」
八郎は再び足を止めた。
「人に似ているが、人ではないと」
「そう言っている」
「私も、お前の言うブシが何なのか分からん」
八郎は赤い空を見上げた。
地獄か。
黄泉か。
あるいは、死の際に見ている長い夢なのか。
五稜郭で自分は確かに死んだ。
胸の傷は腐り、薬を飲み、意識を手放した。
次に目覚めた場所に、日本を知らぬ異人がいて、土から腕を生やした。
人ではないと名乗り、見たことのない獣が人を喰う。
理解できることは、一つもなかった。
「ここは、死者の行くところか」
八郎は尋ねた。
「何だと」
「俺は死んだはずだ」
老人が背中で身じろぎした。
「どういう意味だ」
「そのままだ。胸を撃たれ、その傷で死んだ」
「だが傷はない」
「だから分からぬ」
「蘇生術を受けた形跡もない」
「死者を生き返らせる術か」
「極めて高度で、成功例もほとんどない。少なくとも私には使えん」
二人とも黙った。
八郎は再び歩き始めた。
今は考えても答えが出ない。
分からぬことを分からぬままにするのは気に入らない。
だが、戦場で立ち止まり続ければ死ぬ。
それだけは、どこの国でも変わらないらしい。
「老人」
「アルヴァンだ」
「何」
「私の名だ。アルヴァン・セレディア」
「老人と呼ぶな」
「では、アルヴァン殿」
焼けた戦場を離れ、二人は北西へ向かった。
八郎の左肩には、もう何もない。
土腕は砕け、ただの泥へ戻った。
それでも肩には、獣の爪を受けた衝撃が残っている。
動かすことすらできなかった、粗末な土の塊。
だが、あれがなければ胸を裂かれていた。
八郎は歩きながら、存在しない左手を握ろうとした。
当然、何も動かない。
そのはずなのに、一瞬だけ、土の指が閉じたような錯覚があった。
「アルヴァン殿」
「今度は何だ」
「先ほどの腕は、休めばまた作れるのか」
背中の老人は、少し間を置いて答えた。
「作るだけならば」
「動かすことも」
「すぐには無理だ」
「なぜ」
「腕とは、形だけで動くものではない。関節を組み、力の流れを作り、お前の動きと術を合わせる必要がある」
「では、合わせれば動くのだな」
「簡単に言うな」
「できぬのか」
アルヴァンが鼻を鳴らした。
「私を誰だと思っている」
「土から腕を生やす、正体不明の異人だ」
「……賢者だ」
「賢者?」
「それも知らんのか」
「知らぬ」
「先が思いやられる」
アルヴァンは疲れたように息を吐いた。
八郎はそれ以上、尋ねなかった。
この老人が生きていれば、先ほどの腕について知ることができる。
この不可解な土地について、話を聞くこともできる。
アルヴァンもまた、八郎がいなければ街まで辿り着けない。
友情でも、忠義でもない。
互いに生き延びるためだけの縁。
戦場で結ぶ関係としては、それで十分だった。
「眠るなよ、アルヴァン殿」
「無茶を言うな」
「眠れば、死ぬぞ」
「分かっている」
「それに、俺の腕も作れぬ」
「やはり、そちらが本音か」
「どちらも本音だ」
八郎は、老人を背負ったまま歩き続けた。
赤い月は黒い雲の間を、ゆっくりと進んでいる。
帰る場所は、もうない。
ここがどこであろうと、それは変わらない。
だが、自ら終わらせたはずの命が、なぜか再び動いている。
その理由を知るまでは、死ぬわけにもいかなくなった。
少なくとも今は、この老人を生かして街まで辿り着く。
その先のことは、着いてから考えればよい。
八郎の失われた左肩には、仮初めの腕の重さだけが、いつまでも残っていた。




