表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の侍 異世界転移譚  作者: Lambzono
第一章 砦

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/26

第一話 剣と銃

 雪が窓板を細かく叩いていた。


 卓上には、箱館から南へ延びる街道と海岸線が描かれている。木古内、矢不来、七重浜。要所には朱墨が落とされ、その脇へ兵数と砲数が細かな字で書き込まれていた。


「木古内を抜かれれば、箱館まで遮るものがない」


 土方歳三が地図の一点を指で押さえた。


「だから木古内で止める」


 大鳥圭介が答える。


「止める兵が足りんと言っている」


「足りぬものを数えても増えはせん。あるものをどう置くかという話だ」


「置くだけなら碁石で足りる」


 二人の声に険が混じり始めたところで、榎本武揚が口を挟んだ。


「そこまでだ」


 低い一言で、室内が静まった。


「木古内を第一線とすることに異論はない。ただし、退路を一つに限るな。海路も残す。兵を置くなら、引き揚げる手立ても同時に考えろ」


 壁際には、隻腕の剣客――伊庭八郎が座っていた。


 失った左腕の袖は、肘の上で括られている。腰には刀と脇差。軍議へ口を挟むことはなかったが、各隊の配置が読み上げられるたび、八郎は頭の中で戦場を歩き直していた。


 その向かいに立つのは、仏蘭西人砲兵将校、モーリス・ヴァルクール。


 幕府が陸軍を西洋式へ改めるため、仏蘭西から招いた軍事顧問団の一人だった。


 ヴァルクールは地図へ身を乗り出し、海岸近くの高地を指した。


「この砲台は、置かない方がよいです」


 日本語はまだ、ところどころ不自然だった。


 大鳥が眉を寄せる。


「昨日はそこへ置くと言っていたではないか」


「敵の数が変わりました。こちらの砲は少ない。海から狙われれば、退かせる前に失います」


「では、街道を明け渡せと?」


「違います。小さい砲を山へ置く。撃ったら移動する。大砲は箱館へ残します」


 土方が地図を見下ろした。


「ずいぶん慎重になったな、ヴァルクール」


 別の隊長が笑った。


「どうした。やはり祖国へ帰りたくなったか」


 室内に、いくつか含み笑いが漏れた。


 ヴァルクールは顔を上げた。


 日本語を探すように一度口を閉じ、それから一語ずつ答える。


「イイエ」


 声は穏やかだった。


「私は、自分の信念で日本に残りました。この戦争が終わるまで、皆さんと戦う。そう決めています」


「なら、砲を惜しむな」


「砲ではありません」


 ヴァルクールは地図上の木片をつまみ上げた。


 砲兵を示す駒だった。


「これを動かす兵です」


 笑っていた者たちが黙る。


「私は、日本の兵へ砲を教えるために来ました。兵を捨てる作戦を教えるためではありません」


 榎本は、しばらくヴァルクールを見た。


「ムッシュ・ヴァルクール」


「ハイ」


「そなたは、もういい加減、祖国へ帰ってもよいのだぞ」


 ヴァルクールの顔から、わずかに力が抜けた。


 帰国を勧められたのは、これが初めてではないのだろう。


「仏蘭西の軍人としての務めは、とうに果たした。これより先は、日本人同士の戦だ。ここで命を捨てる理由はない」


「理由は、あります」


「何だ」


 ヴァルクールは地図へ視線を落とした。


「私たちは、この兵たちを訓練しました」


 指先で、いくつかの駒を示す。


「隊列を教えた。砲を教えた。戦い方を教えた。負けそうだから帰るなら、最初から教えるべきではなかった」


「それは理屈になっていない」


「信念は、いつも理屈になるとは限りません」


 土方が口元だけで笑った。


「仏蘭西人も、ずいぶん侍じみてきたな」


「それは褒めていますか」


「さあな」


 ヴァルクールも薄く笑った。


 榎本は息をつき、地図へ目を戻した。


「ならば、その信念で兵を生かせ。砲を失わず、街道も渡さぬ策を出せ」


「ハイ」


 ヴァルクールは、別の高地を指した。


「ここへ軽い砲。二門。撃った後、山側へ移動します」


 大鳥が道を指でなぞった。


「砲を上げられるか」


「道を直せば」


「何日だ」


「四日」


 ヴァルクールは即答した。


「遊撃隊は街道へ置くか」


 榎本が八郎を見た。


「山側へ」


 八郎は答えた。


「街道を守らせれば、敵の鉄砲の的になります。山へ入れ、横へ回した方がよろしい」


「退く時はどうする」


「敵の後ろにいれば、こちらが退く必要はありません」


 土方が鼻で笑った。


「相変わらず、帰る話をしねぇな」


「土方さんにだけは言われたくありません」


 ヴァルクールが小さく息をついた。


「あなたたちは、どうして作戦を考える時、いつも自分の帰る道だけ忘れるのです」


「敵に覚えておいてもらいましょう」


 八郎がそう答えると、土方が声を立てて笑った。


 張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。


 榎本は地図を畳ませ、各隊への指示を確認した。


「今日はここまでとする。細部は明朝までに詰めろ」


 一同が立ち上がった。


 土方は八郎の横を通り過ぎる際、右肩を軽く叩いた。


「仏蘭西人に剣を売るなよ」


「売りませんよ」


「教えるのもなしだ。こいつらは何でも持って帰る」


 ヴァルクールが振り返った。


「ヒジカタ。悪口は、分かります」


「なら、日本語が上手くなったな」


 土方は笑いながら部屋を出ていった。


 榎本と大鳥も、別の話を続けながら去る。


 残ったのは八郎とヴァルクール、それに地図を片づける小姓だけだった。


 ヴァルクールは、八郎の腰へ目を向けた。


「ムッシュ・イバ」


「何でしょう」


「その刀。少し、見ても?」


「抜かなければ」


 八郎は鞘ごと刀を差し出した。


 ヴァルクールは両手で受け取り、重さを確かめた。反りに沿って視線を動かし、鍔と柄を興味深そうに眺める。


「軽い」


「鉄砲よりは」


「片手で使うため?」


「元は両手で使うものです」


 ヴァルクールの目が、八郎の空の袖へ向いた。


 憐れむ色はなかった。


 それが八郎には好ましかった。


「片手で、同じように使えるのですか」


「同じにはなりません」


「では、別の剣術を?」


「別の身体です。同じ剣術を、そのまま使えば死にます」


 ヴァルクールはしばらく考えた。


 それから刀を八郎へ返した。


「一人の男が、この刀を扱えるようになるまで、何年かかりますか」


「扱うだけなら、今日からでも」


 八郎は刀を腰へ戻した。


「人を斬るだけなら、一年もあれば足りましょう」


「剣士になるには?」


「十年」


「あなたのようになるには」


「さて」


 八郎はわずかに笑った。


「十数年では足りぬかもしれません」


 ヴァルクールは窓の外を見た。


 雪の向こうには、白く霞んだ土塁がある。


「小銃は、十日です」


「十日」


「十日あれば、農夫を隊列に並べ、装填させ、狙わせ、撃たせることができる」


「当てられますか」


「一人なら難しい。百人なら当たる」


 八郎は答えなかった。


「十数年鍛えた剣士を、十日訓練した農夫が殺せる」


「なるほど」


 八郎は刀の柄へ右手を置いた。


「つまらぬ世になりますな」


「弱い者には、よい世かもしれません」


 ヴァルクールの返事は早かった。


 八郎は男を見た。


 冗談を言っている顔ではない。


「剣を学ぶ時間も、金も、身体もない者が、自分の家を守れる。貴族でなくても、武士でなくても」


「守る相手を自分で選べれば、ですが」


「どういう意味です」


「鉄砲は、誰へ向けるかまでは決めてくれぬ」


「刀も同じでしょう」


「その通りです」


 ヴァルクールは少し意外そうな顔をした。


 八郎が銃そのものを否定すると考えていたらしい。


「ならば問題は、武器ではない」


「使う者でしょうな」


「使う者だけでもない」


 ヴァルクールは首を振った。


「命令する者。弾を運ぶ者。兵を教える者。軍全体の問題です」


 卓上に残っていた小さな木片を取り上げる。


 兵の位置を示すため、地図に置かれていたものだ。


「一人の名人に国を任せてはいけない。名人は死ぬ。技も失われる」


 木片を一つ置く。


 その横へ、同じ形の木片を並べる。


「同じことができる兵を、何人も作る。誰かが倒れても、次が動く。国を守るのは、英雄ではなく仕組みです」


「英雄がお嫌いか」


「英雄が必要な軍は、たいてい準備に失敗しています」


 八郎は喉の奥で笑った。


「それを土方さんの前で仰ってみては」


「斬られますか」


「あの人は鉄砲を使います」


 二人はしばらく、窓の外の雪を見ていた。


 やがてヴァルクールが尋ねた。


「剣の時代は、終わると思いますか」


「終わるでしょう」


 八郎は答えた。


「惜しくはない?」


「惜しんでも、終わるものは終わります」


「それでも、剣を持つ」


「今日はまだ、これが要る」


 ヴァルクールは、その答えを気に入ったようだった。


「あなたは、思っていたより現実的だ」


「どのように思っていたのです」


「剣とともに死にたい人」


 八郎は少し考えた。


「それも悪くはない」


「悪いです」


 ヴァルクールは即座に言った。


「勝った後に、生きている人がいなくなる」


 廊下から彼を呼ぶ声がした。


 ヴァルクールは扉へ向かい、途中で振り返った。


「生きて戻りましょう、ムッシュ・イバ」


 八郎は肩をすくめた。


「それは少々、難しい注文ですな」


 ヴァルクールは何か言い返そうとしたが、結局、苦笑しただけだった。


 扉が閉まる。


 八郎は一人になった室内で、腰の刀へ目を落とした。


 十数年。


 父の道場で木刀を握った日から数えれば、それ以上になる。


 十日。


 その短さが、妙に耳へ残った。


     ◇


 木古内の空は、煙で曇っていた。


 雪はとうに解けていたが、地面は泥に沈み、足を取られる。山裾から続く銃声は途切れず、白煙の向こうで敵味方の輪郭が重なった。


「右へ回れ!」


 八郎は声を張った。


 遊撃隊の兵が林の縁へ散る。


 正面から撃ち合えば、兵数で押し潰される。山へ入り、側面を叩き、敵が向きを変える前に離れる。それを繰り返すしかない。


 八郎は右手で刀を抜いた。


 銃剣を構えた兵が泥を蹴って迫る。


 刃を受けず、半歩外へ出る。


 相手の腕を斬り、返す刀で喉を払う。


 背後で銃声。


 八郎は身を沈めた。


 弾が頭上を抜ける。


「伊庭先生!」


「前を見ろ!」


 若い兵が振り返る。


 その瞬間、別の敵が銃を構えた。


 八郎は兵を突き飛ばした。


 次の音は、ひどく近かった。


 胸の奥で、何かが砕けた。


 息を吸おうとしても、空気が入らない。


 脚から力が抜ける。


 膝が泥へ沈んだ。


 刀を地面へ突き立て、倒れるのをこらえる。


「先生!」


 誰かが身体を支えた。


「置いていけ」


 声が、自分のものではないように聞こえた。


「まだ動けます」


「嘘をつけ」


「動ける者が、俺を担ぐな」


 兵たちは答えなかった。


 二人が八郎の身体を持ち上げる。


 敵の弾が木を削り、泥を跳ね上げる。


「命令だ。置いていけ」


 誰も従わなかった。


 薄れていく意識の中で、八郎は腹を立てるべきなのか、笑うべきなのか分からなかった。


     ◇


 砲声は、遠くなったり近くなったりした。


 八郎が目を覚ますたび、天井の染みの形が少しずつ変わって見えた。


 胸には厚く布が巻かれている。


 咳をすれば、傷の奥を火箸で掻き回されるように痛んだ。


 熱が下がらない。


 傷口から漂う臭いで、医者でなくとも分かる。


 治らない。


 木古内から運ばれ、泉沢から船に乗せられたという。箱館の病院を経て、今は五稜郭の一室に寝かされている。


 何日経ったかは、途中から数えなくなった。


 廊下を急ぐ足音がした。


 扉が開く。


「まだ死んでねぇか」


 土方が入ってきた。


 八郎は枕へ頭を預けたまま答えた。


「まだですよ」


「つまらねぇ返事だ」


「毎日同じことを聞かれますので」


 土方は枕元へ腰を下ろした。


 軍服には泥がついている。目の下に濃い影があった。


「木古内じゃ、派手にやったそうだな」


「負けました」


「生きて戻った」


「運ばれただけです」


「同じことだ」


「違いますよ」


 土方は八郎の胸の包帯を見た。


 何か言おうとしたが、やめた。


 部屋の外では、人が慌ただしく行き交っている。


「また出るんですか」


「ああ」


「どちらへ」


「さあな。敵のいる方だ」


「軍議では怒られる答えです」


「今さら誰が怒る」


 八郎は少し笑い、すぐに胸を押さえた。


 土方が眉をひそめる。


「笑うな。傷に障る」


「笑わせたのは土方さんでしょう」


「俺のせいにするな」


 短い沈黙が落ちた。


 土方は窓の外を見た。


 土塁の向こうから、黒い煙が上がっている。


「伊庭」


「はい」


「お前はもう、ここにいろ」


「初めからそのつもりです」


「そういう意味じゃねぇ」


 八郎は土方を見た。


 土方は八郎を見なかった。


「俺ァまだ行く」


「知っています」


「お前は来るな」


「行けるなら行きますよ」


「行けねぇから言ってる」


「ひどい話ですな」


「ひどいのは昔からだ」


 土方が立ち上がった。


「また来る」


 八郎は返事をしなかった。


 土方は扉へ向かう。


「土方さん」


 呼び止めると、土方は振り返った。


 何を言うべきか、八郎には分からなかった。


 生きて戻れと言えば、ヴァルクールの真似になる。


 死ぬなと言っても、土方が聞くはずはない。


「お気をつけて」


 結局、それだけだった。


「お前もな」


 土方は笑った。


 それが最後になった。


     ◇


 その日の夜、砲声は途切れなかった。


 誰かが、土方の名を口にした。


 別の者が、黙れと制した。


 八郎は目を閉じた。


 確かめる必要はなかった。


 枕元には、舶来の薬が置かれていた。


 痛みを眠らせるためのものだと、医者は言った。


 決められた量より飲むなとも言った。


 八郎は小瓶を右手で取り上げた。


 片手では栓が外しにくかった。


 それが妙に可笑しかった。


 箱根で左腕を失った時も、死にはしなかった。


 木古内で胸を撃たれても、部下が命令に背いて運び出した。


 今度こそ、自分で終わらせるしかないらしい。


 八郎は栓を外した。


 苦い薬の匂いがした。


 父の道場が浮かんだ。


 汗の染みた床。


 木刀がぶつかる音。


 試衛館で笑う近藤や沖田。


 不機嫌そうな顔をして、誰よりも面倒を見た土方。


 そして、雪の軍議室に立つ仏蘭西人。


『生きて戻りましょう、ムッシュ・イバ』


「あれは、少々難しい注文だったな」


 八郎は小さく呟き、薬を口へ運んだ。


 苦味が舌に残った。


 やがて、胸の痛みが遠ざかる。


 砲声も、足音も、人の声も消えていく。


 八郎は暗闇の中で、自分がようやく死ぬのだと思った。


     ◇


 痛みが消えた。


 それで、伊庭八郎は自分が死んだのだと思った。


 次に、頬へ触れる土の冷たさを感じた。


 死者にも冷たさがあるのかと、しばらく考えた。


 焦げた臭いがする。


 鳥とも獣ともつかない声が、遠くで響いている。


 八郎は目を開けた。


 空が赤かった。


 見たことのないほど大きな月が、黒い雲の間に浮かんでいる。


 日本の空ではなかった。


 胸へ手を当てる。


 包帯を解く。


 傷もない。


 息を吸っても痛まない。


 左腕だけは、やはり戻っていなかった。


 八郎はゆっくりと身を起こした。


 周囲には、異様な鎧を着た死体と、人とも獣ともつかないものの骸が転がっている。


 腰には刀と脇差が残っていた。


 八郎は刀の柄へ右手を置いた。


「……死ぬというのも、存外むずかしいものだな」


 闇の向こうで、何かが動いた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ