第一話 剣と銃
雪が窓板を細かく叩いていた。
卓上には、箱館から南へ延びる街道と海岸線が描かれている。木古内、矢不来、七重浜。要所には朱墨が落とされ、その脇へ兵数と砲数が細かな字で書き込まれていた。
「木古内を抜かれれば、箱館まで遮るものがない」
土方歳三が地図の一点を指で押さえた。
「だから木古内で止める」
大鳥圭介が答える。
「止める兵が足りんと言っている」
「足りぬものを数えても増えはせん。あるものをどう置くかという話だ」
「置くだけなら碁石で足りる」
二人の声に険が混じり始めたところで、榎本武揚が口を挟んだ。
「そこまでだ」
低い一言で、室内が静まった。
「木古内を第一線とすることに異論はない。ただし、退路を一つに限るな。海路も残す。兵を置くなら、引き揚げる手立ても同時に考えろ」
壁際には、隻腕の剣客――伊庭八郎が座っていた。
失った左腕の袖は、肘の上で括られている。腰には刀と脇差。軍議へ口を挟むことはなかったが、各隊の配置が読み上げられるたび、八郎は頭の中で戦場を歩き直していた。
その向かいに立つのは、仏蘭西人砲兵将校、モーリス・ヴァルクール。
幕府が陸軍を西洋式へ改めるため、仏蘭西から招いた軍事顧問団の一人だった。
ヴァルクールは地図へ身を乗り出し、海岸近くの高地を指した。
「この砲台は、置かない方がよいです」
日本語はまだ、ところどころ不自然だった。
大鳥が眉を寄せる。
「昨日はそこへ置くと言っていたではないか」
「敵の数が変わりました。こちらの砲は少ない。海から狙われれば、退かせる前に失います」
「では、街道を明け渡せと?」
「違います。小さい砲を山へ置く。撃ったら移動する。大砲は箱館へ残します」
土方が地図を見下ろした。
「ずいぶん慎重になったな、ヴァルクール」
別の隊長が笑った。
「どうした。やはり祖国へ帰りたくなったか」
室内に、いくつか含み笑いが漏れた。
ヴァルクールは顔を上げた。
日本語を探すように一度口を閉じ、それから一語ずつ答える。
「イイエ」
声は穏やかだった。
「私は、自分の信念で日本に残りました。この戦争が終わるまで、皆さんと戦う。そう決めています」
「なら、砲を惜しむな」
「砲ではありません」
ヴァルクールは地図上の木片をつまみ上げた。
砲兵を示す駒だった。
「これを動かす兵です」
笑っていた者たちが黙る。
「私は、日本の兵へ砲を教えるために来ました。兵を捨てる作戦を教えるためではありません」
榎本は、しばらくヴァルクールを見た。
「ムッシュ・ヴァルクール」
「ハイ」
「そなたは、もういい加減、祖国へ帰ってもよいのだぞ」
ヴァルクールの顔から、わずかに力が抜けた。
帰国を勧められたのは、これが初めてではないのだろう。
「仏蘭西の軍人としての務めは、とうに果たした。これより先は、日本人同士の戦だ。ここで命を捨てる理由はない」
「理由は、あります」
「何だ」
ヴァルクールは地図へ視線を落とした。
「私たちは、この兵たちを訓練しました」
指先で、いくつかの駒を示す。
「隊列を教えた。砲を教えた。戦い方を教えた。負けそうだから帰るなら、最初から教えるべきではなかった」
「それは理屈になっていない」
「信念は、いつも理屈になるとは限りません」
土方が口元だけで笑った。
「仏蘭西人も、ずいぶん侍じみてきたな」
「それは褒めていますか」
「さあな」
ヴァルクールも薄く笑った。
榎本は息をつき、地図へ目を戻した。
「ならば、その信念で兵を生かせ。砲を失わず、街道も渡さぬ策を出せ」
「ハイ」
ヴァルクールは、別の高地を指した。
「ここへ軽い砲。二門。撃った後、山側へ移動します」
大鳥が道を指でなぞった。
「砲を上げられるか」
「道を直せば」
「何日だ」
「四日」
ヴァルクールは即答した。
「遊撃隊は街道へ置くか」
榎本が八郎を見た。
「山側へ」
八郎は答えた。
「街道を守らせれば、敵の鉄砲の的になります。山へ入れ、横へ回した方がよろしい」
「退く時はどうする」
「敵の後ろにいれば、こちらが退く必要はありません」
土方が鼻で笑った。
「相変わらず、帰る話をしねぇな」
「土方さんにだけは言われたくありません」
ヴァルクールが小さく息をついた。
「あなたたちは、どうして作戦を考える時、いつも自分の帰る道だけ忘れるのです」
「敵に覚えておいてもらいましょう」
八郎がそう答えると、土方が声を立てて笑った。
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
榎本は地図を畳ませ、各隊への指示を確認した。
「今日はここまでとする。細部は明朝までに詰めろ」
一同が立ち上がった。
土方は八郎の横を通り過ぎる際、右肩を軽く叩いた。
「仏蘭西人に剣を売るなよ」
「売りませんよ」
「教えるのもなしだ。こいつらは何でも持って帰る」
ヴァルクールが振り返った。
「ヒジカタ。悪口は、分かります」
「なら、日本語が上手くなったな」
土方は笑いながら部屋を出ていった。
榎本と大鳥も、別の話を続けながら去る。
残ったのは八郎とヴァルクール、それに地図を片づける小姓だけだった。
ヴァルクールは、八郎の腰へ目を向けた。
「ムッシュ・イバ」
「何でしょう」
「その刀。少し、見ても?」
「抜かなければ」
八郎は鞘ごと刀を差し出した。
ヴァルクールは両手で受け取り、重さを確かめた。反りに沿って視線を動かし、鍔と柄を興味深そうに眺める。
「軽い」
「鉄砲よりは」
「片手で使うため?」
「元は両手で使うものです」
ヴァルクールの目が、八郎の空の袖へ向いた。
憐れむ色はなかった。
それが八郎には好ましかった。
「片手で、同じように使えるのですか」
「同じにはなりません」
「では、別の剣術を?」
「別の身体です。同じ剣術を、そのまま使えば死にます」
ヴァルクールはしばらく考えた。
それから刀を八郎へ返した。
「一人の男が、この刀を扱えるようになるまで、何年かかりますか」
「扱うだけなら、今日からでも」
八郎は刀を腰へ戻した。
「人を斬るだけなら、一年もあれば足りましょう」
「剣士になるには?」
「十年」
「あなたのようになるには」
「さて」
八郎はわずかに笑った。
「十数年では足りぬかもしれません」
ヴァルクールは窓の外を見た。
雪の向こうには、白く霞んだ土塁がある。
「小銃は、十日です」
「十日」
「十日あれば、農夫を隊列に並べ、装填させ、狙わせ、撃たせることができる」
「当てられますか」
「一人なら難しい。百人なら当たる」
八郎は答えなかった。
「十数年鍛えた剣士を、十日訓練した農夫が殺せる」
「なるほど」
八郎は刀の柄へ右手を置いた。
「つまらぬ世になりますな」
「弱い者には、よい世かもしれません」
ヴァルクールの返事は早かった。
八郎は男を見た。
冗談を言っている顔ではない。
「剣を学ぶ時間も、金も、身体もない者が、自分の家を守れる。貴族でなくても、武士でなくても」
「守る相手を自分で選べれば、ですが」
「どういう意味です」
「鉄砲は、誰へ向けるかまでは決めてくれぬ」
「刀も同じでしょう」
「その通りです」
ヴァルクールは少し意外そうな顔をした。
八郎が銃そのものを否定すると考えていたらしい。
「ならば問題は、武器ではない」
「使う者でしょうな」
「使う者だけでもない」
ヴァルクールは首を振った。
「命令する者。弾を運ぶ者。兵を教える者。軍全体の問題です」
卓上に残っていた小さな木片を取り上げる。
兵の位置を示すため、地図に置かれていたものだ。
「一人の名人に国を任せてはいけない。名人は死ぬ。技も失われる」
木片を一つ置く。
その横へ、同じ形の木片を並べる。
「同じことができる兵を、何人も作る。誰かが倒れても、次が動く。国を守るのは、英雄ではなく仕組みです」
「英雄がお嫌いか」
「英雄が必要な軍は、たいてい準備に失敗しています」
八郎は喉の奥で笑った。
「それを土方さんの前で仰ってみては」
「斬られますか」
「あの人は鉄砲を使います」
二人はしばらく、窓の外の雪を見ていた。
やがてヴァルクールが尋ねた。
「剣の時代は、終わると思いますか」
「終わるでしょう」
八郎は答えた。
「惜しくはない?」
「惜しんでも、終わるものは終わります」
「それでも、剣を持つ」
「今日はまだ、これが要る」
ヴァルクールは、その答えを気に入ったようだった。
「あなたは、思っていたより現実的だ」
「どのように思っていたのです」
「剣とともに死にたい人」
八郎は少し考えた。
「それも悪くはない」
「悪いです」
ヴァルクールは即座に言った。
「勝った後に、生きている人がいなくなる」
廊下から彼を呼ぶ声がした。
ヴァルクールは扉へ向かい、途中で振り返った。
「生きて戻りましょう、ムッシュ・イバ」
八郎は肩をすくめた。
「それは少々、難しい注文ですな」
ヴァルクールは何か言い返そうとしたが、結局、苦笑しただけだった。
扉が閉まる。
八郎は一人になった室内で、腰の刀へ目を落とした。
十数年。
父の道場で木刀を握った日から数えれば、それ以上になる。
十日。
その短さが、妙に耳へ残った。
◇
木古内の空は、煙で曇っていた。
雪はとうに解けていたが、地面は泥に沈み、足を取られる。山裾から続く銃声は途切れず、白煙の向こうで敵味方の輪郭が重なった。
「右へ回れ!」
八郎は声を張った。
遊撃隊の兵が林の縁へ散る。
正面から撃ち合えば、兵数で押し潰される。山へ入り、側面を叩き、敵が向きを変える前に離れる。それを繰り返すしかない。
八郎は右手で刀を抜いた。
銃剣を構えた兵が泥を蹴って迫る。
刃を受けず、半歩外へ出る。
相手の腕を斬り、返す刀で喉を払う。
背後で銃声。
八郎は身を沈めた。
弾が頭上を抜ける。
「伊庭先生!」
「前を見ろ!」
若い兵が振り返る。
その瞬間、別の敵が銃を構えた。
八郎は兵を突き飛ばした。
次の音は、ひどく近かった。
胸の奥で、何かが砕けた。
息を吸おうとしても、空気が入らない。
脚から力が抜ける。
膝が泥へ沈んだ。
刀を地面へ突き立て、倒れるのをこらえる。
「先生!」
誰かが身体を支えた。
「置いていけ」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「まだ動けます」
「嘘をつけ」
「動ける者が、俺を担ぐな」
兵たちは答えなかった。
二人が八郎の身体を持ち上げる。
敵の弾が木を削り、泥を跳ね上げる。
「命令だ。置いていけ」
誰も従わなかった。
薄れていく意識の中で、八郎は腹を立てるべきなのか、笑うべきなのか分からなかった。
◇
砲声は、遠くなったり近くなったりした。
八郎が目を覚ますたび、天井の染みの形が少しずつ変わって見えた。
胸には厚く布が巻かれている。
咳をすれば、傷の奥を火箸で掻き回されるように痛んだ。
熱が下がらない。
傷口から漂う臭いで、医者でなくとも分かる。
治らない。
木古内から運ばれ、泉沢から船に乗せられたという。箱館の病院を経て、今は五稜郭の一室に寝かされている。
何日経ったかは、途中から数えなくなった。
廊下を急ぐ足音がした。
扉が開く。
「まだ死んでねぇか」
土方が入ってきた。
八郎は枕へ頭を預けたまま答えた。
「まだですよ」
「つまらねぇ返事だ」
「毎日同じことを聞かれますので」
土方は枕元へ腰を下ろした。
軍服には泥がついている。目の下に濃い影があった。
「木古内じゃ、派手にやったそうだな」
「負けました」
「生きて戻った」
「運ばれただけです」
「同じことだ」
「違いますよ」
土方は八郎の胸の包帯を見た。
何か言おうとしたが、やめた。
部屋の外では、人が慌ただしく行き交っている。
「また出るんですか」
「ああ」
「どちらへ」
「さあな。敵のいる方だ」
「軍議では怒られる答えです」
「今さら誰が怒る」
八郎は少し笑い、すぐに胸を押さえた。
土方が眉をひそめる。
「笑うな。傷に障る」
「笑わせたのは土方さんでしょう」
「俺のせいにするな」
短い沈黙が落ちた。
土方は窓の外を見た。
土塁の向こうから、黒い煙が上がっている。
「伊庭」
「はい」
「お前はもう、ここにいろ」
「初めからそのつもりです」
「そういう意味じゃねぇ」
八郎は土方を見た。
土方は八郎を見なかった。
「俺ァまだ行く」
「知っています」
「お前は来るな」
「行けるなら行きますよ」
「行けねぇから言ってる」
「ひどい話ですな」
「ひどいのは昔からだ」
土方が立ち上がった。
「また来る」
八郎は返事をしなかった。
土方は扉へ向かう。
「土方さん」
呼び止めると、土方は振り返った。
何を言うべきか、八郎には分からなかった。
生きて戻れと言えば、ヴァルクールの真似になる。
死ぬなと言っても、土方が聞くはずはない。
「お気をつけて」
結局、それだけだった。
「お前もな」
土方は笑った。
それが最後になった。
◇
その日の夜、砲声は途切れなかった。
誰かが、土方の名を口にした。
別の者が、黙れと制した。
八郎は目を閉じた。
確かめる必要はなかった。
枕元には、舶来の薬が置かれていた。
痛みを眠らせるためのものだと、医者は言った。
決められた量より飲むなとも言った。
八郎は小瓶を右手で取り上げた。
片手では栓が外しにくかった。
それが妙に可笑しかった。
箱根で左腕を失った時も、死にはしなかった。
木古内で胸を撃たれても、部下が命令に背いて運び出した。
今度こそ、自分で終わらせるしかないらしい。
八郎は栓を外した。
苦い薬の匂いがした。
父の道場が浮かんだ。
汗の染みた床。
木刀がぶつかる音。
試衛館で笑う近藤や沖田。
不機嫌そうな顔をして、誰よりも面倒を見た土方。
そして、雪の軍議室に立つ仏蘭西人。
『生きて戻りましょう、ムッシュ・イバ』
「あれは、少々難しい注文だったな」
八郎は小さく呟き、薬を口へ運んだ。
苦味が舌に残った。
やがて、胸の痛みが遠ざかる。
砲声も、足音も、人の声も消えていく。
八郎は暗闇の中で、自分がようやく死ぬのだと思った。
◇
痛みが消えた。
それで、伊庭八郎は自分が死んだのだと思った。
次に、頬へ触れる土の冷たさを感じた。
死者にも冷たさがあるのかと、しばらく考えた。
焦げた臭いがする。
鳥とも獣ともつかない声が、遠くで響いている。
八郎は目を開けた。
空が赤かった。
見たことのないほど大きな月が、黒い雲の間に浮かんでいる。
日本の空ではなかった。
胸へ手を当てる。
包帯を解く。
傷もない。
息を吸っても痛まない。
左腕だけは、やはり戻っていなかった。
八郎はゆっくりと身を起こした。
周囲には、異様な鎧を着た死体と、人とも獣ともつかないものの骸が転がっている。
腰には刀と脇差が残っていた。
八郎は刀の柄へ右手を置いた。
「……死ぬというのも、存外むずかしいものだな」
闇の向こうで、何かが動いた。




