第二十六話 竈の火
シュミは土腕の亀裂をもう一度見てから、工房の奥へ入っていった。
しばらくして、床を擦る音が近づいてくる。
シュミが持ってきたのは、埃を被った細長い木箱だった。
床へ置き、蓋を開ける。
中から現れたのは、腕の形をした鉄の塊だった。
肘から指先までを覆う腕甲。
幾枚もの鉄板が重なり、指にも一節ごとに細かな継ぎ目がある。手首の内側には、中心から五つに枝分かれした金具が収められていた。
作りは頑丈そうだったが、持ち上げるだけでも相当な重さがある。
「それをどうする」
炉の脇にいたゴラムが訊いた。
「使う」
「動かんぞ」
「知ってる」
シュミは腕甲を作業台へ置いた。
ゴラムが椅子から身を乗り出す。
「それは失敗作だ」
「だから残ってる」
「捨て忘れただけだ」
「祖父ちゃんが物を捨て忘れるわけないでしょう」
ゴラムは黙った。
ガルドが腕甲を見下ろした。
「昔、腕を痛めた兵士のために作ったものだ」
「義手ですか」
八郎が訊く。
「違う。腕は残っていた。だが、指へ力が入らなくなっていた」
ガルドは鉄の指を持ち上げた。
途中までは曲がったが、掌へ届く前に止まる。
「土の魔術で腕甲を動かし、握る力を補うつもりだったらしい」
「らしいとは何だ」
ゴラムが睨んだ。
「俺は言われたとおり蝶番を打っただけだ。まだ見習いだった」
「太く打ったのはお前だ」
「あの図面で細く打てるか!」
「だから見習いだったと言っておる」
「今それを言うか!」
シュミは二人を無視し、腕甲の手首へ鑿を当てた。
槌を振り下ろす。
乾いた音とともに留め具が外れ、鉄板が一枚、作業台へ落ちた。
「おい」
ガルドが振り返る。
もう一度、槌が落ちる。
二枚目。
三枚目。
腕の形をしていたものが、瞬く間にばらばらになっていく。
「壊すのか」
ゴラムが言った。
「使えない形を残しても仕方ないでしょう」
「図面を取ってからにしろ」
「失敗した場所まで残ってる。図面より分かりやすい」
シュミは指の関節だけを脇へ分けた。
次に、手首から枝分かれした金具を外す。
アルヴァンが杖をつきながら近づいた。
「土の魔力を、ここから五本の指へ分けるつもりだったのか」
「そうだ」
ゴラムが答えた。
「だが、ほとんど手首で止まっている」
「鉄も元を辿れば土だ」
「元を辿ればね」
シュミは鉄の指を曲げた。
継ぎ目同士が噛み合い、途中で動かなくなる。
「土の魔術を入れたら、動くより先に関節が固まった。腕甲まで土みたいに動かそうとしたから」
「では、何を通す」
シュミは棚から小箱を下ろした。
中には、爪先ほどの魔石が幾つか入っている。
その一つを摘まみ上げた。
「風」
「風石か」
「炉の送風器に使う予備」
「勝手に使うな」
ガルドが言った。
「後で返す」
「削ったら返せんだろう!」
「では腕甲の代金に入れる」
「まだ仕事を受けた覚えはない!」
シュミは聞いていなかった。
ばらした腕甲の内側へ魔石を置き、指で位置を測っている。
「鉄を魔術で動かさなくても、関節の隙間へ風を通せば押せる」
「風を出し続ければ、指が勝手に動くぞ」
アルヴァンが言った。
「出し続けない。土の指が先に動く」
シュミは指の内側を示した。
「土がここを押すと弁が開く。風が後から、同じ方向へ関節を押す」
「土腕の動きを増すだけか」
「そう」
「ならば、私の術が止まれば」
「動かなくなる。でも、枠が土を支える。昨夜みたいに袖が空になることはない」
「ただの重い腕になるわけか」
ゴラムが鼻を鳴らした。
「完成ではないということか」
シュミは作業台へ並べた鉄板を見た。
「腕甲としては完成させる」
「腕は動かんぞ」
「これは腕じゃない。動く腕を守って、力を足すもの」
シュミは八郎の左肩を見た。
「腕まで作ったと言うつもりはない」
ミレアの視線も、八郎の肩へ向いた。
土と身体の境。
そこには、衣服の下へ隠れても消えない継ぎ目がある。
「その境は、腕甲では変わりません」
ミレアが言った。
「そこは治療師の仕事でしょう」
シュミは答え、風石を作業台へ置いた。
「ええ。そこは、私が調べます」
ミレアは八郎の肩へ残る継ぎ目を、しばらく見ていた。
◇
「その前に、刀を置け」
ガルドが言った。
八郎は腰から刀を外し、作業台へ置いた。
ガルドの目が、刃元に巻かれた銀の環へ向かう。
「王都で調べたのだろう」
「調べた」
アルヴァンが答えた。
「結果は」
「刃元から通した魔力は、ほとんど損なわれず切先まで届いた。切先から入れた場合も同じだ」
「逆にも流れるのか」
「ああ」
アルヴァンは銀の環を指した。
「今は、余分な流れをここから逃がしている」
ガルドの眉間に皺が寄った。
「こんな物を付けたまま振らせたのか」
「応急処置だ」
「刃元へ余計な物を巻けば、抜き差しに障る」
「外せば、入った魔力が柄まで戻る」
「だからと言って、このままにはできん」
ガルドは銀の環を爪で弾いた。
シュミが、ばらした腕甲の分流金具をその横へ置く。
「流す先を選べばいい」
「刃と、銀の逃げ道か」
アルヴァンが言った。
「普段は銀へ逃がす。必要な時だけ刃へ通す」
「この大きさでは鍔に収まらん」
ガルドが金具を取り上げた。
「小さく打ち直す」
「言うのは簡単だ」
「父さんがやればできる」
「勝手に仕事を増やすな」
「研いだ刀がどうなったか、知りたかったんでしょう」
ガルドが口を閉じた。
ゴラムが喉の奥で笑う。
「やれ、百六十九代目」
「父さんは黙っててくれ」
「儂の失敗作を使うのだ。口くらい出す」
「口だけなら要らん」
「なら槌を寄越せ」
「引退したのではなかったのか!」
三人の声が工房へ響いた。
八郎は、ばらばらになった腕甲を見た。
腕の形は、もう残っていない。
シュミはその中から使えるものを拾い上げ、ガルドは金具を炉へ入れ、ゴラムは椅子から指図を続けていた。
◇
作業には二日かかった。
最初に、アルヴァンが土の腕を作り直した。
シュミの引いた線に合わせ、前腕を僅かに細くする。指の節には浅い窪みを作り、鉄板がずれぬよう形を整えた。
その上へ、シュミが薄い鉄板を重ねていく。
指の甲。
拳。
手の甲。
手首から前腕。
肩から肘へは三本の細い鉄条を渡し、革帯で土を囲った。全体を鉄で覆わず、術が止まった時にも腕の形だけは残すための枠だった。
掌と指の内側には鉄を回さず、革を張った。刀の柄や鞘を握る時、滑らぬためだった。
前腕には、風石を収める小さな筒が加えられた。
石は蓋を開けば交換できる。
そこから延びた細い風路が、五本の指と手首へ繋がっていた。
「曲げて」
八郎は指を握った。
鉄板が互いの下へ潜り込み、土の指に沿って動く。
風石はまだ入っていない。
動きは少し重くなったが、止まりはしなかった。
「開いて」
五本の指を伸ばす。
継ぎ目から僅かに土が見えた。
「石がなくても動く」
シュミは一つ目の印を板へ刻んだ。
次に、前腕の筒へ風石を収める。
「もう一度」
八郎は左手を握った。
土の指が動き始める。
直後、腕甲の内側で風が短く鳴った。
指が掌へ収まる。
先ほどより速い。
「一度、止めるぞ」
アルヴァンが杖を下ろした。
左肩の奥から、流れが消えた。
八郎が指を曲げようとしても、土の五指は応じない。肘も手首も動かず、腕全体の重さが肩へ掛かった。
だが、崩れはしなかった。
鉄条と革帯に支えられ、人の腕の形を保ったまま垂れている。
シュミは肘の留め具を確かめた。
「形は残った」
「動きませんが」
「動かす方は、アルヴァンの術」
アルヴァンが再び杖を上げた。
左肩の奥へ細い流れが通る。土の指が開き、遅れて風の弁が鳴った。
「私が道を開く。動かすのはお前だ」
「貴殿が眠れば?」
「止まる。術を解いても、離れすぎても同じだ」
「ただの重い腕になる」
「昨夜よりはましだろう」
「比較の仕方に問題がありますな」
「力を入れて」
シュミが木の棒を渡した。
八郎は左手で握る。
風の音。
木が僅かに軋んだ。
「それ以上は駄目」
シュミが言った。
「折れますか」
「棒が」
八郎は力を緩めた。
「俺には、どれほど強く握っているか分かりません」
「だから上限をつけた」
ガルドが答えた。
「風路の圧が一定を越えれば、外へ逃げる」
「逃げなければ」
「土の指か、握った物が壊れる」
「どちらも困りますな」
「だから試している」
ガルドは八郎の指を一本ずつ逆方向へ押した。
腕甲が抵抗する。
やがて前腕の小穴から風が漏れ、指への力が抜けた。
「逃がしも動いている」
シュミが二つ目の印を刻む。
アルヴァンは目を閉じ、土腕へ流す魔力を確かめていた。
「負担は」
ミレアが訊いた。
「腕甲の重さは増えた。だが、動かす時の負担は前より軽い」
「風が補っているのですね」
「ああ。少なくとも指と手首はな」
シュミは八郎へ鉄の塊を渡した。
右手でなければ持ち上げにくい重さだった。
八郎は左手で掴む。
風が鳴る。
土の肘を曲げ、胸の高さまで持ち上げた。
「落ちませんな」
「落としたら床が割れる」
「先に言っていただきたい」
「落とさないで」
八郎は鉄塊を元の場所へ戻した。
シュミが腕甲の留め具を確かめる。
亀裂も歪みもない。
最後に、八郎は左手で鞘を握った。
指は一本ずつ動く。
握る力も調整できた。
右手で柄を取り、左の親指を鍔へ添える。
鯉口を切った。
刀を抜く。
鉄の指は鞘を離さなかった。
「その親指で、こっちも動かせる」
鍔の下には、小さな突起が加えられていた。
ガルドが分流金具を打ち直し、刃元へ収めたものだった。
元の金具で残ったのは、銀線の一部と留め具だけである。
外形も仕組みも、既に別物になっていた。
八郎が左の親指で突起を押す。
小さな音がした。
「これで刃へ流れる」
シュミが言った。
「戻す時は」
「収めれば戻る」
八郎は刀を鞘へ入れた。
鍔が鞘口へ触れたところで、再び小さな音が鳴る。
「抜いたまま戻すことは」
「突起を反対へ押せばいい。でも、何もしていない時は銀へ逃がす方が安全でしょう」
「よく考えられている」
「祖父ちゃんの金具と同じ」
「同じではない」
ガルドが言った。
「大半は俺が打ち直した」
「流す先を分ける考えは同じ」
「それだけだ」
「それがなければ作ってない」
ゴラムは椅子に座ったまま鍔を見ていた。
「逆から来た時はどうする」
シュミの手が止まる。
「逆?」
「切先から入ったものだ」
ゴラムが言った。
「刃へ流す道だけ見ておる。戻ってきたものが、そこで詰まるぞ」
ガルドが鍔を取り上げた。
内部を確かめ、舌打ちする。
「銀線をもう一本足す」
「場所がない」
「作る」
「重くなる」
「お前は少し黙れ!」
結局、鍔はもう一度外された。
ガルドが金具を削り、シュミが組み直し、ゴラムが横から口を出す。
三つの炉の火は、夜まで消えなかった。
◇
翌朝、ミレアが試験に呼ばれた。
刀は鞘へ収められた状態で、作業台に置かれている。
「本当に僅かでよいのですね」
「ああ」
アルヴァンが答えた。
「刃を光らせる必要はない。通るかどうかだけ見ればいい」
ミレアは刀の柄元へ指を添えた。
弱い光が指先に集まる。
その光は柄の中へ吸い込まれたが、鞘に変化はない。
「銀へ逃げている」
アルヴァンが測定盤を見た。
「刃には届いていない」
八郎は刀を腰へ差した。
左手で鞘を握る。
親指で鍔の突起を押し、右手で刀を抜いた。
ミレアが再び光を流す。
刃の中に、細い白い筋が走った。
刃文に沿ったものではない。
銀灰色だった鋼の奥を、ごく淡い光が切先まで進んでいく。
すぐに消えた。
「損失は」
「測れるほどではない」
アルヴァンが答える。
八郎は刀を鞘へ収めた。
金具が戻る。
もう一度ミレアが光を流したが、今度は刃へ現れなかった。
「これで、外から魔力を通す道はできた」
ガルドが言った。
「だが、刀へ石は付けん」
鍔の片側には、小さな空所が残されていた。
魔石を収めるための場所だった。
ミレアがそこへ目をやる。
「光の石は医療院でも不足しています」
「奪う気はない」
ガルドは答えた。
「器だけだ。何を通すかは、必要になってから決めればいい」
八郎は刀を抜き、光へ翳した。
外から見れば、鍔が僅かに厚くなっただけだった。
シュミはその横で、腕甲をもう一度調べていた。
鉄板のずれ。
風路の漏れ。
石を外した状態での動き。
留め具をすべて確かめ、最後に八郎の左拳を軽く叩く。
「これで渡せる」
「完成ですか」
「腕甲はね」
シュミは土と身体の境へ目を向けた。
「腕は別」
ミレアも同じ場所を見た。
「ええ」
短く答えた。
「そこは別です」
「儂の腕甲は、どこへ行った」
ゴラムが訊いた。
シュミは八郎の左手を指した。
「指の関節と、留め具と、風を分ける弁」
次に刀の鍔を指す。
「それから、刀の中」
「原形がないな」
「要らないところを捨てたから」
「儂の失敗まで使ったか」
「そこが一番役に立った」
ゴラムは、ばらされた鉄板の残りを見た。
「……それでいい」
ガルドが鼻を鳴らした。
「使って壊れたら持ってこい」
「承知しました。壊れずとも、戻った折には使った具合をお伝えします」
「礼なら、こいつに言え」
ガルドが顎でシュミを示した。
「考えたのはシュミだ。俺と親父は手を貸しただけだ」
「壊れないように作った」
シュミが言う。
「お前がそれを言うと不安になる」
「父さんよりは軽く作った」
「軽ければいいわけではない!」
いつもの声が工房へ戻った。
◇
シュミが腕甲の革紐を切り揃えている間に、八郎は訊いた。
「ベズラスのパン屋について、伺いたいことがあります」
「焦げたパンの店?」
「ええ。あの家の者が、どこへ移ったかご存じですか」
「どうして?」
「二十五年前、エルディンが村へ入った時にも、あの家には人がいたはずです」
シュミの手が止まった。
「封じられた採掘場について、何か見聞きしているかもしれない」
「移った先は知らない」
シュミは革紐へ印をつけた。
「子供の頃、祖父ちゃんについて行っただけだから」
「ゴラム殿と?」
「竈口が割れたと呼ばれた」
ゴラムが答えた。
「パン屋へ行くにも鍛冶師が要るのですか」
「竈の扉と留め具は鉄だ。歪めば熱が逃げる」
「修理は一度だけですか」
「いや。あの家は古かった。三度か、四度か」
ゴラムは目を細めた。
「村から人が減った後も、あそこだけは竈を使っていた」
「最後まで残った家だ」
ガルドが言った。
「何度か移るよう勧められていたはずだ」
「なぜ残ったのでしょう」
「知らん」
ゴラムは短く答えた。
「仕事をしに行った。事情を聞きに行ったのではない」
シュミの手が止まった。
「そういえば」
三人が彼女を見る。
「竈を直した時、聞いた」
「何を」
「帰ってくる人がいるから、先に火を落とすわけにはいかないって」
「誰が帰ると」
アルヴァンが訊いた。
「知らない。名前までは聞いてない」
シュミは革紐を八郎の腕へ巻いた。
「あの時は、パンを焼くための言い訳だと思ってた」
「焦げたパンを?」
「焦げたから、ただでもらえたの」
「それで覚えていたのですな」
「悪い?」
「いえ」
アルヴァンが杖を床へついた。
「砦へ移った者なら、記録が残っているかもしれん」
「セレナ殿へ頼みましょう」
八郎が言った。
◇
その日の夕刻、セレナが一枚の書付を持って工房へ来た。
「ベズラスの移住記録を調べました」
作業台へ書付を広げる。
八郎には読めなかったが、下の方に同じ家名が三度並んでいた。
「何ですか」
「退去勧告です」
セレナが指で一行ずつ示した。
「一度目は、北側の畑が放棄された時。二度目は、外柵が壊された時。三度目は、村の標柱を維持できなくなった時」
「三度とも断った?」
「ええ」
「では、いつ村を」
「最後の一軒になった後です。魔獣に竈の一部を壊され、ようやく退去しています」
セレナは最後の行へ指を移した。
「移住先も残っています。今もそこでパン屋を営んでいるかは分かりませんが、家族の行き先は追えます」
八郎は書付を見下ろした。
二十五年前、エルディンが北へ入り、採掘場へ杭を打った時にも、その家の竈には火があった。
王都の記録にも、退役兵の日誌にも残らなかったものを、その家の者は見ているかもしれない。
「次は、ここですな」
八郎が言った。
「ああ」
アルヴァンは書付を見た。
「まず聞くのは、エルディンのことだ」
パン屋は、ベズラスで最後まで竈の火を落とさなかった。




