第二十五話 手応え
四人は、以前と同じパン屋跡で夜を明かすことにした。
屋根は半分しか残っていない。
竈の煙道も詰まったままだったが、石造りの壁は風を防いでくれる。
セレナは村の入口と井戸を確かめ、ミレアは室内へ銀盤を並べた。
「黒い魔素は薄く広がっています」
銀盤の端が、僅かに濁っている。
「特定の場所から出ている反応ではありません。地面の下に残っているものが、村全体へ染み出しているように見えます」
「夜のうちに歩き回る理由にはならんな」
アルヴァンが言った。
「調べるのは明るくなってからだ」
八郎は床へ積もった枯れ葉を足で寄せた。
右手だけでは、敷物を広げるにも時間が掛かる。
アルヴァンがその様子を見ていた。
「左肩を出せ」
「検査ですか」
「腕をつける」
八郎の手が止まった。
ミレアも銀盤から顔を上げる。
「ここで試すの?」
「黒い石そのものはない。反応も王都での試験より遥かに弱い」
「だから安全とは限らないわ」
「安全だとは言っておらん」
アルヴァンは杖で床を叩いた。
「王都で分かったのは、道が残っているということだけだ。使えるかは、使ってみなければ分からん」
八郎は上着を脱ぎ、左肩を出した。
「前の腕とは違うのですか」
「あれは腕の形をした土塊だ」
「今回は」
「土塊へ、関節をつけた」
「大きな違いですな」
「使ってから言え」
アルヴァンが杖を上げた。
崩れた床の隙間から土が集まる。
小石が細く固まり、八郎の肩から肘へ伸びた。
前腕には二本。
手の内には、掌から指へ分かれる細い芯が形作られる。
その周囲へ湿った土が巻きついた。
上腕。
肘。
前腕。
手首。
最後に五本の指が伸びる。
最初の土腕より細い。
肘と手首には継ぎ目があり、指にも二つずつ節が刻まれていた。
土の色をしていることを除けば、人の左腕に近い形だった。
「重さは」
ミレアが訊いた。
「前より軽いです」
八郎は左腕を持ち上げようとした。
肘が曲がる。
僅かに遅れて、土の拳が胸元まで上がった。
親指を曲げる。
次に人差し指。
五本の指は、一つずつ八郎の意思に従った。
拳を握る。
失われたはずの左手が、目の前で閉じた。
「感触はありますか」
「ありません」
八郎は指を開いた。
「ですが、どこにあるかは分かります」
「力を出しているのは私だ」
アルヴァンが杖を握ったまま言った。
「どこへ流すかを、お前の肩に残った道が決めている。私から離れすぎれば崩れるぞ」
「どの程度です」
「村の反対側まで一人で歩くな」
「随分と短い紐でつながれましたな」
「嫌なら外せ」
「まだ試しておりません」
八郎は肘の上で括っていた左袖を解いた。
土腕を袖へ通す。
長く空だった布が、腕の形へ広がった。
袖口から、灰褐色の手が現れる。
八郎は腰の鞘へ左手を置いた。
指を閉じる。
感触はない。
それでも鞘は動かなかった。
右手で柄を握る。
左手で鞘を僅かに後ろへ引き、刀を抜いた。
刃が滑らかに鞘を離れる。
身体を傾ける必要も、鞘を帯へ押しつける必要もなかった。
八郎は刀を納め、もう一度抜いた。
「どうですか」
ミレアが訊いた。
「以前に近い」
八郎は刀を鞘へ戻した。
「腕が戻ったわけではないぞ」
アルヴァンが言った。
「分かっています」
「感触もない。力を入れすぎれば、自分で指を砕く」
「心得ました」
「黒い反応が強まれば、前と同じように私の魔力を引かれる。その時はすぐ外す」
「ええ」
八郎は左手を開いた。
土の指が、袖口の先で静かに動いた。
◇
火が小さくなった頃、八郎の左手が勝手に握り込んだ。
鞘を掴んだまま、指へ力が入る。
八郎は目を開いた。
左肩の奥が冷たい。
強い痛みではない。
だが、先ほどまでより明らかに深かった。
「アルヴァン殿」
声を掛けるより早く、外で石を踏む音がした。
セレナが壁際の弓へ手を伸ばす。
アルヴァンも杖を取った。
入口の暗がりに、赤い目が浮かんだ。
肩は人の腰ほどまである。
黒い毛皮の間から、骨のような棘が突き出していた。
八郎は立ち上がった。
「ブラッドリッパーですな」
「名前は覚えていたか」
「刀を一本、取られかけましたので」
獣が地面を蹴った。
八郎の左手が鞘を押さえる。
今度は勝手にではない。
自分の意思で指を閉じた。
獣は戸口から飛び込み、八郎の左側へ回ろうとした。
この世界へ来た夜に戦った時と同じ動きだった。
左腕のない側を狙う。
だが、今はそこに腕がある。
八郎は左手で鞘を引いた。
右手が刀を抜く。
以前より短い動きで、切先が鞘を離れた。
獣の爪が届く前に、半歩踏み込む。
首へ刃を走らせた。
手応えはあった。
だが、止まらない。
刃は毛皮と肉を抜け、その内側の骨まで断った。
ブラッドリッパーの首が、身体から遅れて床へ落ちた。
巨体が石壁へぶつかり、横倒しになる。
八郎は振り抜いた姿勢のまま、僅かに目を見開いた。
以前は、倒れた獣の首へ振り下ろした刀が骨で止まった。
右手だけでは押し切れず、抜くことさえできなかった。
今の一刀には、骨を断った感触がほとんど残っていない。
八郎は刃を傾けた。
銀灰色の筋が、火の残りを細く返す。
刃こぼれはなかった。
「やはり、あの鍛冶師の腕は本物ですな」
「砥石の影響だろう」
アルヴァンが倒れた獣へ目を向けた。
「その砥石を刀へ当てたのも、あの鍛冶師です」
「口を動かす前に、次を見ろ」
暗がりの中で、もう一対の赤い目が開いた。
一頭目より大きい。
毛皮の間を走る骨の棘が、先端から黒く染まっている。
左の前脚にも、細い亀裂のような筋が幾つも浮かんでいた。
八郎の左肩が強く疼いた。
土腕の指が、意思に反して鞘を握り込む。
表面から細かな砂が落ちた。
「黒く変わり始めています」
ミレアが言った。
ブラッドリッパーが唸る。
先ほどの一頭が倒れたことにも、血の匂いにも怯んでいない。
アルヴァンが杖を振った。
戸口の前で土が盛り上がる。
獣は速度を落とさず、黒ずんだ前脚を土壁へ叩きつけた。
固められた土が砕ける。
そのまま室内へ飛び込んだ。
セレナの矢が放たれた。
獣は首を振る。
矢は頬へ刺さったが、浅い。
八郎は右へ回った。
左手が鞘から離れにくい。
「開け」
指が震える。
「開け」
土の指が一本ずつ離れた。
八郎は刀を構える。
獣が前脚を振り上げた。
八郎はその内側へ入り、肩口へ刃を走らせる。
刃は黒い皮膚を裂いた。
肉へ入る。
だが、一頭目のようには抜けなかった。
硬いものに触れ、刀身が僅かに押し戻される。
八郎は無理に押さず、刃を引いた。
傷口から黒ずんだ血が流れる。
それでも獣は止まらない。
身体を捻り、左の爪を八郎へ向けた。
避け切れない。
八郎は左腕を上げた。
土の前腕へ、三本の爪が食い込む。
鈍い音がした。
肩まで衝撃が伝わる。
前腕の表面へ、手首から肘まで亀裂が走った。
だが、砕けない。
八郎は衝撃に合わせて半歩退き、爪を外へ流した。
「今です!」
セレナの二本目の矢が、獣の左目へ入った。
ブラッドリッパーが首を振る。
アルヴァンが杖を地面へ突いた。
後脚の下だけが持ち上がり、獣の姿勢が前へ崩れた。
八郎は土の左手で、黒ずんだ骨の棘を掴んだ。
感触はない。
指が閉じたことだけは分かる。
獣が頭を振り上げる。
土の手首へ新たな亀裂が入る。
それでも離さない。
八郎は右手の刀を、開いた口の下から突き上げた。
切先が上顎を抜け、その奥へ入る。
獣の身体が大きく跳ねた。
土の指が棘から外れる。
ブラッドリッパーは前脚で床を二度掻き、動かなくなった。
室内に荒い呼吸だけが残った。
八郎は刀を引き抜く。
黒ずんだ血が刃を伝った。
その周囲へ、黒い筋が集まろうとしている。
だが、獣が死ぬと動きも止まった。
「肩は」
ミレアが八郎へ駆け寄る。
「疼きは残っています」
「腕の方は」
八郎は左手を開こうとした。
親指と人差し指が動く。
残る三本は途中で止まった。
前腕の亀裂から、土が少しずつ零れている。
「脆いな」
八郎が言った。
「前にも同じことを言ったな」
アルヴァンは杖先を土腕へ向けた。
「受け止めるために作ったのではない」
「前にも同じことを言われました」
「なら学習しろ」
亀裂へ新しい土が入り込み、崩れかけた前腕を繋いだ。
指が再び動き始める。
だが、手首に残った細い筋までは消えなかった。
八郎が刀の血を拭い終えた頃、左肩が急に重くなった。
同時に、壁際から低いいびきが聞こえた。
土の指から力が抜ける。
手首の亀裂が広がり、前腕から土が零れ落ちた。肘が形を失い、上腕も肩口から崩れていく。
アルヴァンは杖を抱えたまま、誰よりも早く寝息を立てていた。
八郎は、再び空になった左袖を見下ろした。
「これは、いささか不便ですな」
◇
夜が明けると、セレナは二頭の足跡を調べた。
村の入口から来たものではなかった。
崩れた家々の間を抜け、北側の斜面へ続いている。
「旧採掘場の方角です」
古地図には、村の北に採掘場の印が残っていた。
四人は足跡を追った。
斜面へ入る手前で、細長い石柱が三本、地面へ打ち込まれている。
どれにも銀色の輪が嵌まり、中央研究所とエルディンの管理印が刻まれていた。
中央の一本は、上部から斜めに割れている。
黒い筋が亀裂の内側まで入り込んでいた。
獣の足跡は、その杭の間から村へ出ている。
「封印の内側にいたのですか」
八郎が訊いた。
「少なくとも、足跡はここから始まっている」
セレナが答えた。
アルヴァンは割れた杭へ触れず、その周囲の土を杖で固めた。
「これでは長く保たん」
「直せないのですか」
「何を封じているかも分からず、勝手に術を足せるか」
黒い筋の周囲へ新しい土が盛られる。
割れた杭が倒れないよう、外側から支えるだけだった。
「王都から道具と人員を寄越させる。それまでは近づくな」
「エルディンは、ここに何を封じたのでしょう」
ミレアが言った。
アルヴァンは杭の向こうを見た。
木々の奥には、崩れた岩壁がある。
採掘場へ続いていたはずの道は、岩と土で完全に塞がれていた。
「それを知るために来た」
答えは、それだけだった。
◇
村へ戻り、残る家々も調べた。
記録らしいものは見つからない。
紙は湿気で崩れ、木の道具も大半が朽ちている。
だが、パン屋だけは違っていた。
屋根の梁には、ほかの家より新しい木が継がれている。
竈の割れ目も、異なる色の土で何度も塞がれていた。
村の家々が崩れ始めたあとも、誰かがここへ残り、屋根を直し、火を使い続けていた。
「この家が、最後まで使われていたのでしょう」
ミレアが竈の縁へ触れた。
八郎は、前にここで聞いた言葉を思い出した。
『子供の頃に来た。焦げたパンをもらった』
「この家を知っている者がいます」
「シュミか」
セレナが言った。
「ええ」
「先に砦町へ戻りましょう」
村を出る前に、八郎は一度だけパン屋を振り返った。
待つ者のいない家にしては、長く火が残りすぎていた。
◇
陽が傾く前に、一行は旧い巡察詰所へ戻った。
待っていた兵士たちは、土の左手をつけた八郎を見たが、何も訊かなかった。
砦町までの道中、アルヴァンは朝になるたび土腕の形を整えた。
動かすたびに砂は落ちた。
それでも肘も手首も曲がり、五本の指は八郎の意思に従った。
三日後、砦町へ着いた。
フェーン工房から、槌の音が聞こえている。
八郎が中へ入ると、炉の前にいたシュミが振り返った。
「シュミ殿。ベズラス村のパン屋について、訊きたいことが――」
「その腕」
シュミの視線は、八郎の左側へ向いていた。
八郎は袖口から出た土の指を開いた。
五本の指が、僅かな遅れもなく動く。
シュミは槌を置き、八郎へ近づいた。
「土?」
「ええ」
「誰が作ったの」
「アルヴァン殿です」
シュミは土腕の肘を曲げ、次に手首を回した。
八郎に感触はない。
それでも、自分の意思とは別に腕を動かされていることは分かった。
「骨の位置も、関節の数も合ってる」
「それはよかった」
「よくない」
シュミは前腕に残る細い亀裂へ爪を当てた。
「これ、何を受けたの」
「魔獣の爪を少々」
「少々で、ここまで割れるの?」
「砕けはしませんでした」
「次も砕けないとは限らない」
シュミは土の指を一本ずつ確かめた。
「動くのに、外が脆すぎる」
「アルヴァン殿にも同じことを言われました」
「なら、補強する」
「腕をですか」
シュミは八郎を見上げた。
「ほかに何があるの」




