第二十三話 遺された日誌
エルディンの北行きを案内し、その十年前には北の村から身元不明の保護対象を運んだ兵士は、すでに亡くなっていた。
残る手掛かりを求め、一行は遺族の家を訪ねた。
その家は、街道から一本入った細い路地に建つ、小さな平屋だった。
軒下には薪が積まれ、扉の前で干した薬草が風に揺れている。
戸を叩くと、しばらくして女が顔を出した。
五十をいくらか過ぎた頃だろう。後ろで束ねた髪には、白いものが混じっていた。
セレナは軍務所に残り、北行きの許可と地図を整えていた。同行した軍の書記が身分を告げ、戸口脇へ下がると、女の顔が僅かに強張った。
「父が、何か?」
「咎めに来たわけではない」
アルヴァンが答えた。
「軍務に関わる遺品があれば、見せてもらいたい。日誌や、手控えの類だ」
「手控え……」
女は考え込み、やがて奥へ引っ込んだ。
ほどなくして、一つ目の木箱が運ばれてきた。
続いて二つ目。
三つ目の箱が床へ置かれた時、アルヴァンは蓋を開けたまま天井を仰いだ。
中には、革表紙の帳面が隙間なく詰め込まれている。ほかの箱も同じだった。数えれば、五十冊では利かない。
「父は、毎日何かしら書いていましたから」
女は困ったように笑った。
「天気だの、馬が何を食べただの、靴底を張り替えただの。こんな紙の無駄遣いみたいな落書きがお役に立つかは分かりませんが、ごゆっくりご覧になってください」
そう言って、女は湯気の立つ茶を人数分置いた。
軒先に干されていたものと同じ、ほろ苦い薬草の香りがした。
女が部屋を出ると、アルヴァンは床に並んだ箱を見渡した。
「記録を残す人間は嫌いではない」
最初の一冊を手に取る。
「限度を知らん者は別だが」
ミレアが二つ目の箱を引き寄せた。
「年代で分けましょう。該当する年だけでも、かなり絞れるはずです」
八郎には文字が読めない。
それでも、頁の上に繰り返される日付らしき数字を頼りに、帳面を二人へ渡していった。
茶から湯気が消えかけた頃、ミレアの手が止まった。
「……これです」
開かれた頁の日付は、王都の記録にあった護送任務と一致していた。
乾いた頁を慎重にめくる。
『北端の小村にて、素性不明の男一名。三日前、林の中で倒れているところを村人が発見。高熱あり。言葉通じず』
ミレアが読み上げた。
次の記載は、その翌日だった。
『検査役は、男の体内に魔力なしと記す。衣服及び携行品にも反応なし。本人に敵意なし。拘束せず護送する』
八郎は、机の上の帳面を見た。
「魔力がなかった」
「そう書いてあります」
さらに数頁先で、ミレアの指が止まった。
『中央より賢者エルディン来着。男を異邦人と呼ぶ。罪人ではなく保護対象として扱うよう命あり』
部屋が静かになった。
外で薪の割れる音がした。
「名は」
八郎が訊いた。
ミレアは続きを目で追った。
『名を問うも聞き取れず。賢者殿は、いずれ言葉を合わせると言う』
「それだけです」
「どこから来たかは」
「書かれていません」
「その後は」
ミレアが頁をめくる。
食糧の支給数。
馬の脚の腫れ。
街道沿いの小競り合い。
異邦人についての記載は、そこで途切れていた。
「中央へ引き渡したのでしょう」
アルヴァンが言った。
「そこから先の記録が、王都では抜かれている」
八郎は帳面へ右手を伸ばしかけ、止めた。
「私より前にも、こちらへ来た者がいた」
「同じ方法で来たとは限らん」
「魔力がなく、言葉も通じず、身につけた物にも魔力がなかった」
「よく似てはいる」
アルヴァンは認めた。
「だが、似ていることと同じであることは別だ」
「では、何と呼べばよいのです」
アルヴァンは開かれた頁へ目を落とした。
「今は、異邦人だ。それ以上は記録にない」
その時、茶器を下げに女が戻ってきた。
開かれた帳面を見ると、ふと思い出したように口を開いた。
「その人の話なら、一度だけ聞いたことがあります」
三人の視線が集まる。
「父が酒を飲んだ時に。言葉の分からない男を運んだことがある、と」
「何か言っていましたか」
「よく頭を下げる人だったそうです。水を渡しても、馬へ乗せても、そのたびに」
女は少し考えた。
「父は、兵士より行儀がよかったと笑っていました。それだけです」
名前さえ残っていない。
ただ、確かに一人の男が保護され、エルディンの手へ渡っている。
八郎には、それで十分ではなかった。
十分ではないからこそ、先を探す理由になった。
女は冷めた茶を新しいものへ替え、再び部屋を出た。
◇
帳面を調べ始めてから、陽が傾くまで二刻ほどかかった。
先に見つけた記録から、ちょうど十年後。
今度はアルヴァンが一冊を開いたまま手を止めた。
「ミレア」
呼ばれたミレアが、彼の横から頁を覗き込む。
「……同じ筆跡ですね」
書かれていたのは、二十五年前の日付だった。
『中央研究所、賢者エルディン殿より直命。北方測定行の案内役を命じらる』
王都で見つけた物資の記録と同じ時期だった。
旧い測量具。
封印杭。
銀の筒。
一月分の食糧。
アルヴァンが次の頁をめくった。
短い一文があった。
『賢者殿より、十年前に異邦人を拾った村への道を覚えているかと問われる。覚えていると答える。ならばよい、と』
八郎は顔を上げた。
「エルディンは、その村へ向かったのですか」
「少なくとも、この兵を選んだ理由はそれだろう」
その先には、出発日の天候と人数が記されていた。
荷車二台。
護衛四名。
研究者三名。
荷は王都の記録と一致している。
だが、日誌はそこで終わっていた。
破り取られたのではない。
残りの頁は白いままだった。
女が灯りを持って戻ってきた。
「この続きはないのか」
アルヴァンが尋ねると、女は白い頁を見て首を振った。
「父は、この旅から戻ったあと、帳面をつけなくなりました」
「何があったのかは」
「話しませんでした。ただ、北へ行く仕事だけは、もう受けませんでした」
アルヴァンは白紙の頁を指で押さえた。
王都の記録から頁を抜き、北へ向かった先代の賢者。
その案内役に選ばれたのは、かつて名も知れぬ異邦人を運んだ兵士だった。
偶然ではない。
「出発は明朝だ」
アルヴァンが帳面を閉じた。
「まず、旧い詰所まで行く。そこから先は、この兵が辿った道を探す」
八郎は黙って頷いた。
二十五年前、エルディンが追っていたのは、黒い石だけではなかった。




