第二十二話 同じ道
王都を出て三日目、八郎の左肩から冷たさが消えた。
痛みそのものがなくなったわけではない。
腕のない身体に残った鈍い疼きは、朝になっても同じ場所にある。それでも、黒い石を積んだ馬車と旅をしていた頃のような、奥へ引かれる重さはなかった。
昼の休息で、ミレアが銀盤を肩へかざした。
中央の石は光らない。
「昨日より弱くなっています」
「何も感じません」
「それは良いことです」
「北へ曲がってからも、そうであればよいのですが」
ミレアは銀盤を下ろした。
「先に痛むことを考えないでください」
「先に考えておけば、驚かずに済みます」
「痛まないとは考えないのですか」
「そうなれば、驚く必要もありません」
ミレアは何か言い返そうとしたが、諦めて銀盤を荷袋へ戻した。
道は、王都へ向かった時と同じだった。
低い丘。
街道脇の石柱。
荷車の車輪が刻んだ二本の轍。
向きが変わっただけで、景色に大きな違いはない。
前回、王都までの日数を数えていた八郎は、今度は北へ分かれる道までの距離を考えていた。
その途中で、軍務所を幾つか回る。
最初の一つが、今日の宿駅に併設されているという。
「日が傾く前には着きます」
セレナが馬上から言った。
「記録を調べる時間はあるのですか」
「古い帳面を出すだけでも時間が掛かります。今日は所在を確かめる程度になるでしょう」
「残っていればよいのですがな」
「それを確認しに行きます」
アルヴァンは荷車の御者台から地図を見ていた。
「ここは二十五年前にも使われていた軍務所か」
「それより前からです。北方へ送る物資の多くが、この道を通っています」
「エルディンの荷も」
「王都の支給記録が正しければ」
セレナはそこで言葉を切った。
正しい記録であっても、すべてが書かれているとは限らない。
書かれたものが、すべて残っているとも限らない。
八郎は腰の刀へ右手を置いた。
刀身の根元には、銀の輪が収まっている。
鞘へ入れている限り、以前と見た目は変わらない。
その刀が別のものへ変わったことも、王都の記録へ残された。
いつまで残るのかは分からなかった。
◇
宿駅へ入る手前で、ミレアが街道脇の露店へ寄った。
平たい籠に、蒸した穀物を拳ほどに丸め、濃い緑の葉で包んだものが並んでいる。
「この辺りの名物です」
ミレアは人数分を買い、歩きながら一つずつ配った。
八郎は葉の端を開いた。
白い粒に小さな黄色い穀物が混じり、中央には刻んだ燻製肉が入っている。
匂いも味も違う。
それでも、八郎には握り飯にしか見えなかった。
「何か変ですか」
「いいえ。似たものを知っているだけです」
葉を持ったまま齧る。
塩気は強いが、歩きながら食べても崩れない。
旅人の考えることは、どこでも大して変わらないらしい。
「もう一つ要りますか」
「いただきます」
「気に入ったのではありませんか」
「似ていることと、腹が減っていることは別です」
ミレアは笑い、残っていた一つを渡した。
◇
軍務所は宿駅の西端にあった。
一階には兵士の詰所と馬具庫があり、記録は二階に保管されている。
セレナが王都の許可証を出すと、係の男は何度も署名と封印を確かめた。
「二十五年以上前の輸送記録ですか」
「北方へ向かったものを、前後二月分」
「今夜中には無理です」
「該当する棚だけで構いません」
「棚が残っていればですが」
男は鍵束を持ち、廊下の奥へ向かった。
戻ってきた時には、埃をかぶった帳面を四冊抱えていた。
「この年のものは、これだけです。屋根を直す前に雨が入って、半分ほど読めなくなっています」
一冊の表紙は波打ち、頁の端が黒く変色していた。
別の一冊は綴じ糸が切れ、薄い板で挟まれている。
セレナとミレアが帳面を分けた。
アルヴァンも一冊を取る。
「君はどうします」
ミレアが八郎へ訊いた。
「文字は読めません」
「では、待っていてください」
「印なら探せます」
八郎は王都から持ってきた支給記録を開いた。
エルディンの物資には、中央研究棟の印が押されている。
二重の輪の内側へ、縦の線が三本。
同じ印がある頁を探せばよい。
「破らないでくださいよ」
アルヴァンが言った。
「子どもではありません」
「読めない帳面を扱う者には言っておくべきだ」
「読めても扱いの粗い方はいます」
「誰のことだ」
「心当たりがあるのですか」
八郎は一冊を引き寄せた。
頁を一枚ずつ捲る。
文字の意味は分からないが、日付と数量の並びは見分けられた。欄外には軍務所や商会の印が押されている。
円。
三角。
動物の角に似たもの。
目当ての印はなかった。
外が暗くなり、係の男が卓上へ油灯を置いた。
二冊目の半ばまで進んだ時、ミレアが声を上げた。
「ありました」
全員が顔を上げる。
頁の右上に、二重の輪と三本の線が残っている。
水濡れで薄くなっていたが、王都の印と同じだった。
セレナが内容を読む。
「荷車二台。測定器具、封印具、保存食。銀筒四本」
「数も合うな」
アルヴァンが言った。
「行き先は」
「北方第五巡察所」
セレナは王都から持ってきた古い地図を開いた。
指が、現在の巡察路より北で止まる。
「二十五年前に閉じられた巡察所です」
「エルディンが消えた頃か」
「同じ年です」
帳面には、荷車を運んだ御者と、護衛兵の数も記されていた。
護衛四人。
案内役として、北方巡察兵が一人。
その名を見たセレナの指が止まった。
「どうしました」
八郎が訊いた。
「知っている名です」
セレナは鞄から、砦町の巡察記録を取り出した。
二十五年前、異なる魔獣が同じ道を南へ下った時の報告。
その控えへ、正式には採られなかった所感を残した兵士。
移動と記されたが、私には退却に見えた。
「この一文を書いた巡察兵です」
「エルディンの荷を案内した者が、魔獣の退却も見ていた」
アルヴァンが帳面を覗き込む。
「順番は」
「荷を運んだ方が先です。同じ年ですが、数月の開きがあります」
「その後に、獣が南へ動き始めた」
部屋が静かになった。
八郎は二つの記録を見た。
北へ向かった荷。
南へ逃げた獣。
その両方を、同じ兵士が見ている。
「この方は、すでに亡くなったのでしたな」
「ええ。数年前に」
セレナは係の男へ顔を向けた。
「兵籍は残っていますか」
「退役者なら、別の棚です」
「出してください」
男は露骨に嫌そうな顔をしたが、再び鍵束を持って部屋を出た。
◇
巡察兵の兵籍は残っていた。
北方で生まれ、若い頃から旧街道沿いの巡察所を転々としている。
エルディンの荷を案内した後も勤務を続け、十数年前に退役。
死亡の記録と、遺族へ引き継がれた年金の届けもあった。
「遺族は街道沿いの村にいます」
セレナが言った。
「ここからなら、明日の午後には着きます」
ミレアは兵籍の下部を見ていた。
「待ってください」
「何だ」
「この方、エルディンの荷を案内する以前にも、特別任務に就いています」
細かな文字を指で追う。
「十年ほど前です。北方の村から、保護対象一名を地方官舎まで護送」
「保護対象の名は」
「ありません」
「どの村だ」
「番号だけです。今の地図と照合しないと分かりません」
アルヴァンが椅子の背へ身体を預けた。
「今度は人か」
八郎は兵籍を見た。
書かれた文字は読めない。
それでも、同じ男が二度、北から何かを運んだことだけは分かった。
一度目は、名のない人間。
二度目は、消えた賢者の荷。
そしてその後、南へ逃げる魔獣を見た。
「明日、その家へ行きます」
セレナが兵籍を閉じた。
王都へ続く道と、北へ消えた道。
その両方を知る者は、すでに死んでいる。
残っているものがあるとすれば、死者の家だけだった。




