8話:ハイム道具屋のオーナー
外の部屋に比べて、奥の部屋はどこか薄気味悪かった。漆黒の空間には巨大な培養槽がいくつも並び、その中の蛍光色の液体には正体不明の物体が浸かっている。そして、それらの培養槽の中央には、なぜか一つのバスタブが置かれていた。
その中に横たわっているのは、当然ながらロルたちが探し求めていた人物である。
「マリーナさん、お久しぶりです」
ライラは微塵の躊躇もなくバスタブへと歩み寄る。声を聞いたバスタブの中の人影は、吸盤のついた触手を伸ばし、すぐさまライラの体を絡め取った。
「ライラちゃん!しばらく見ないうちに、また一段と可愛くなったわね!」
バスタブの中にいた女は笑いながら立ち上がった。触手に巻かれたライラも全く抵抗する素振りを見せず、むしろ嬉しそうに答える。
「マリーナさんの言うことって、いつも大げさなんだから。そうだ、前に出された課題、全部終わらせましたよ」
「本当にえらいわね! どこか分からないところはあったかしら?」
「乾燥させた薬草のところが、少しよく分からなくて」
「さすがライラちゃん! 本当に優秀ね! 乾燥薬草のくだりは、まさに今回の課題で補足してあげようと思っていたところなのよ」
二人が楽しげに会話を弾ませる中、暗さに目が慣れてきたロルも、ようやく相手の容姿をはっきりと捉えることができた。
地面に届くほどの長い深紫の髪。漆黒の部屋の中でいっそう深みを増す、底知れない暗い瞳。その顔立ちは、どこか異様で妖艶な魅力を漂わせている。もし彼女が今このように機嫌良く笑っていなければ、その威圧感は尋常ではなかっただろう。
彼女の名前はマリーナ。タコと人族のハーフである亜人族だ。この病院では様々な薬材が各種族に与える影響を研究しており、同時に『ハイム道具屋』の真のオーナーでもある。
上半身こそ一般の人族の女性のような豊満な肉体を持っているが、最も目を引くのは、腰から下から生えている、吸盤を備えた八本の暗い色の触手だった。
種族的な制約により、普段のマリーナは街の通りを歩くことができない。彼女が自由に外を歩き回れるのは、大雨が降る日だけだ。
一年前、ロルが外出中のマリーナと偶然出会ったのも、そんな大雨の日だった。
「ライラちゃん、後で教材を渡してあげるわね。でも、その前に――」
マリーナは触手を伸ばし、ロルが事前に用意していたバスタオルを奪い取って自身の肩に羽織った。すると次の瞬間、口調と表情が一変し、残酷で暴虐な独裁の女王へと姿を変えた。
「まずはあなたのその勇気を褒めてあげるわ。少なくとも、逃げ出さなかったのだから」
マリーナの喋るスピードはひどくゆっくりで、それが知らず知らずのうちにその場のプレッシャーを増幅させていく。ロルは思わず生唾を飲み込んだ。
「ま、マリーナさん……お久しぶりです。最近いかがお過ごしですか? 研究の方は順調で?」
「私たち二人の関係で、ありきたりな挨拶なんて必要ないでしょう。言いなさい、今月はどうだったの?」
マリーナが声を低くして核心を突いてきたことで、ロルの背中にはとうに冷や汗が流れ落ちており、声も次第に震え始めた。
「こ、今月ですか……まあ、そこそこ、といったところで……」
「ほう。で、いくつ?」
「ええっと……き、今日もちょうど一件の依頼を完了させたところですし! 道具も二つ売れましたよ! しかもそのうちの一つは、かなり価値の高い魔道具の指輪で」
「だから、数はいくつだったの?」
マリーナはロルの誤魔化しなど一切意に介さず、徐々に彼を袋小路へと追い詰めていく。ロルは自分が、とうに網で囲い込まれた魚群になったかのような気分だった。どちらへ泳ごうとも、そこには罠しか待っていないのだ。
「こ、今月は……依頼が……一件……です……」
絞り出すようなロルの声を聞き、マリーナはふふっと軽やかに笑い声を漏らした。
「ふふふっ、ロル。さすがは私がこれまでの人生で出会った中で、最も上等なオモチャと褒めるべきかしら。あなたは本当に、いつだって私の期待を裏切らないわね」
いつの間にか、ロルは立っていた状態から無意識に土下座へと移行していた。
(人間の尊厳は捨ててはならないなどとのたまう奴らは、絶対にマリーナに会ったことがないからそんな寝言が言えるのだ!)
「答えなさい。ハイム道具屋を任せてから、今まで一体何件の依頼を受けたの?」
「十五……いや、今日を含めて全部で十六件です……」
「店を引き継いでからもうすぐ一年になるというのに、たったの十六件?」
彼女のその鋭すぎる詰問に、ロルは返す言葉を失った。
「一ヶ月に一件すら依頼をこなせず、魔道具の売り上げもさっぱり……ねえ、ロル。私は一体何のためにあなたに給料を払っているのかしらね?」
「本当に申し訳ありません……これからはもっと真面目に働きますから」
凍りつくような視線が全身に突き刺さるのを感じながら、ロルは目配せでライラに助け舟を出してもらおうとした。しかし、当のライラは触手の上で暢気に本を読んでいるではないか。
(この裏切り者め! 今はもう自分自身に頼るしかない!)
「まあいいわ。私も従業員をいつまでも責め立てるような鬼上司じゃないもの。あなたの言い訳を聞いてあげるから、話しなさい」
マリーナは満面の笑みを浮かべていたが、その口調には明らかな遊び心が透けて見えた。
(この女こそ、世界で一番そんな台詞を言う資格がない人間だろう)とロルは思ったが、今は生き残るためのいかなるチャンスも逃すわけにはいかない。
「待ってください! 言い訳させてください! 本当にあの店の立地が悪いんですよ! あの場所はどう考えても辺鄙すぎます」
「つまり、私が選んだ場所が悪いと言いたいのね?」
マリーナの触手が悠然と彼の背筋を撫で上げた。ふんわりとした口調の中に確かな圧がこもっており、ロルは即座に言葉を翻した。
「滅相もありません! ただ、五年間も休業していた店が営業を再開すれば、当然ながら客足が戻るまでの陣痛期があるんです! ですから、どうしても時間が必要なんですよ」
一年前、マリーナはロルに店を任せる際、「ハイム道具屋はすでに丸五年間休業していた」と告げていた。新たな客層を呼び戻すには、当然それなりの時間がかかるはずなのだ。
「ですから、私にもう少しだけ時間をください! 必ず業績を上げてみせますから」
思いつく限りの言い訳を並べ立てている間にも、黒い触手が彼の背中を這うように滑っていく。マリーナはオモチャをからかうかのように、楽しげに笑い声を漏らした。
「ええ、一理あるわね。どうやら今日はちゃんと言い訳を用意してきたみたいじゃない」
「なら――」
「でも、もうかれこれ一年近く経つわ。少しの業績も上げられないのでは、私も色々と困るのよ」
一筋の希望が見えたと思った直後、自分が完全に相手のペースに乗せられていることに気づく。どう足掻いても反抗できないロルは、恐る恐る尋ねるしかなかった。
「な、何かご要望でもおありですか?」
「依頼を三つ。これから毎月、三件の依頼報告書を提出しなさい」
マリーナは三本の触手を持ち上げ、軽快でありながらも決して拒絶を許さない口調で言い渡した。
予想以上に奇妙な要求だったが、驚きはしなかった。マリーナという女は、いつだってこうやって人の意表を突いてくるのだ。
「依頼だけでいいんですか? 魔道具の売り上げは?」
「正直な話、元からハイム道具屋の魔道具に利益が出るかどうかなんて、これっぽっちも気にしていないの。私、お金には全く困ってないもの。でもね、あなたたちが受けるその依頼の内容は、私にとって数少ない娯楽の一つなのよ。だからわざわざ報告書にまとめさせて、ここまで持ってこさせてるの」
丸一年近くも働いて、ようやく自分のボスの悪癖を知ったロルだったが、同時に、マリーナがこんな『娯楽好き(レジャー狂)』の性格だったからこそ、あの時自分は彼女の従業員になることを選んだのだろうとも思った。
何しろ、完全な善意を向けられるよりは、何か目的があって接触してくる相手の方が、はるかに安心できるからだ。
「もちろん、何の問題もないわよね。ロル」
「はいっ! このご恩は一生忘れません!」
二人の短い『会議』(という名の取り立て)が終わり、ロルはついに安堵の息をついた。マリーナも自身の触手を動かしてオフィスのスペースへと移動し、医師の象徴である白衣へと着替えたのだった。




