9話:呪い
「ほら、ライラちゃん。これが今回の教材よ。分からないところがあったら、またメッセージで聞いてちょうだい」
「ありがとうございます、マリーナさん! 私、頑張りますね」
散らかり放題の部屋の中から、マリーナはライラに渡す教材を的確に見つけ出した。先ほどの威圧的な態度はどこへやら、マリーナの触手はライラの頭を優しく撫でており、その声は愛情に満ちていた。
半年ほど前からライラが様々な薬材に興味を持ち始めたため、マリーナは彼女にとって正式な『先生』という立場でもある。
ライラはいつも学校へ通う合間を縫って、マリーナから出された課題をこなしている。うちの妹、本当に優秀すぎるだろう。
「分かっていればよろしい」
マリーナがくすっと笑ってロルの心の声に直接答えてきたため、ロルは気まずそうに、手元でまとめた書類を彼女に手渡した。
「むやみに人の心に直接語りかけるのはやめてください。プライバシーが侵害されている気分になりますから」
「自分のオモチャと話すのに、何か問題があるかしら?」
「いえ、まったく問題ありません……」
「分かればよろしい。さあ、早く脱ぎなさい」
あまりにも直球な命令に、ロルは自分が犯されるのではないかと一瞬疑ったが、もちろんそんなはずはない。
マリーナは薬材の研究のほかに、呪いが肉体に及ぼす影響についての研究も行っている。ロルの胸に刻まれた呪いはまさに彼女の研究対象であり、月に一度、こうして全身検査を受けに来なければならないのだ。
ロルがジャケットを脱ぎ、さらにシャツを脱ごうとした時、じっと見つめてくる視線を感じた。言うまでもなく、ソファで本を読んでいるライラからのものだ。
「ライラ、見ないでください。お兄ちゃん、恥ずかしいんですが……」
「ダメよ、ライラちゃん。いくら何でも女の子なんだから、少しは遠慮しないと」
珍しくマリーナがロルの味方をしてくれた。彼女は一本の触手でライラの目を覆い隠した。ライラは不満げに片方の頬を膨らませた。
「別にいいじゃないですか。今までだって見たことあるのに」
「私の方が大ありなんですよ!」
ライラの視線が遮られている隙に、ロルは慌ててシャツを脱ぎ、隣の部屋へと逃げ込んだ。
ライラが自分の呪いを心配してくれているのは分かっている。だが、普通なら男が服を脱ぐのを平然と見つめるなんてあり得ない。やはり何かが間違っている気がしてならない。
「はぁ……ライラの男性に対する価値観、やっぱり少しおかしいですよね。どうやって注意したものか……」
「それは苦労するわね。ライラちゃんは漂流者に育てられたんだったわね?」
マリーナも後から入ってきて、パソコンと検査機器の電源を入れた。
「ええ。周りにいるのが男ばかりで、しかも漂流者たちはみんなガサツな連中が多かったですからね。そのせいで彼女の振る舞いも、どうしても男っぽくなってしまって……」
とはいえ、ここへ来たばかりの頃に比べれば、学校に通い始めた今では、たまに年相応の少女らしい反応を見せてくれるようにもなった。気長に見守るしかないだろう。
ため息をついている間にも、マリーナの触手によって上半身のあちこちに電子機器のセンサーが取り付けられていく。
ロルは胸元の呪いを見下ろした。黒い蔦のような紋様が、肌に深く刻み込まれている。
「それじゃあ、定期検査を始めましょうか。採血と、心臓のスキャン……今日は何か変わったことはあった?」
手慣れた様子で注射器を手に取り採血を行うマリーナの姿を見て、この時ばかりは彼女が医者なのだと実感させられる。
「今日は……朝方、またあの悪夢を見たことくらいですかね」
「今回は夢の内容、はっきり分かったのかしら?」
「いつも通りですよ。目が覚めたら綺麗さっぱり忘れていました」
採血が終わると、ロルは検査台に横たわり、心臓や身体全体のスキャンを受けた。
「ふむ、面白いわね。あなたって子は、やっぱり本当に興味深いわ」
パソコンのモニターに次々と表示されるデータを見つめながら、マリーナは何かを思案するように意味深な笑みを浮かべた。
「何か新しい発見でもありましたか?」
「いいえ、これまでのデータと変わらないわ。あなたの体に刻まれている呪いは、古今東西どんな文献にも記載がないの。何度あなたの身体のデータを見ても、ただ謎が深まるばかりよ」
パソコンの画面を見つめるマリーナの眼差しは次第に熱を帯び、早口になっていった。
「人族であるにもかかわらず、体内には魔力も闘気も一切存在しない。そのせいで、肉体そのものの強度は子供よりもはるかに脆いわ。それなのに、胸に宿るその呪いは想像を絶するほど強大で複雑。私が持っているどんな呪いの道具よりも強力な代物よ。
おまけに十六歳以前の記憶がない。記憶をすべて失ったわけではなく、あなた自身に関する部分だけが強制的に封じられている。
本来、呪いというものは人の精神を侵食するものなのに、この呪いは普段は驚くほど安定している。異常なほど安定していると言ってもいいわ。
つまり、この呪いはあなたの記憶を封じている以外、基本的には身体に何の影響も与えていないということよ――ふふふっ! 本当に! 最高に面白いわね!」
「私はちっとも面白くありませんよ……」
マリーナの独り言を聞きながら、ロル自身も自分の身体が他人と大きく異なっていることは自覚していた。魔力も闘気もないという時点で相当おかしな話なのだ。だが、そんなことよりも今ロルが痛感しているのは――
(怖い。ひたすらに怖い……)
興奮して早口でまくし立てるマリーナは、普段の威圧感とはまた別のベクトルで恐怖を感じさせる。最近公開されたホラー映画の殺人鬼のように、今にもチェーンソーを持って襲いかかってきそうな勢いだ。
しばらくして、マリーナは冷静さを取り戻し、いつもの落ち着いたトーンに戻った。
「とにかく、以前の推測通り、あなたの呪いと失われた記憶は密接に関係しているわ。もしある日突然記憶を思い出すようなことがあったら、ちゃんと報告書にまとめなさいよ」
「ええ、書きますよ。思い出したらの話ですがね」
「よし、あとは検査結果が出るのを待つだけね。さあ、そこの部屋を綺麗に掃除しておきなさい」
「はいはい。採血の結果が出るまで、あとどのくらいかかりますか?」
「一、二時間ってところね。どのみち、駐車料金三時間分は確定よ」
「この病院、やっぱり駐車料金で儲けてるんじゃないですか……」
いつもの検査が終わると、マリーナは月に一度のマンツーマン授業を開始し、根気よくライラの質問に答えていた。
ロルはまるで清掃員のように、ほうきと雑巾を手に散乱した書類を片付けながら、暇つぶしにテレビから流れるニュースをぼんやりと眺めていた。
大して面白いニュースはなかったが、エイブダムの伝説的警察官の紹介と、人気の恋愛ゲームの続編『僕と君の夏』が近日発売されるという二つのニュースだけは、多少興味を引くものだった。
血液検査の結果はこれまで通りで、特に目立った変化はなく、身体は至って健康そのものだった。
この呪いは一体何なのだろうか? 身体の健康にも影響を与えず、精神を侵食することもない。ただ単に十六歳以前の記憶を封じるためだけに存在している。一体何のために?
全く分からない……だが、分からないままでも別に構わないような気もする。
何しろ、十六歳以前の記憶がなくても、こうして四年間生きてこられたのだ。たとえ一生思い出せなかったとしても、大した問題ではないのだから。




