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10話:兄妹の日常 3

病室を出る直前、マリーナがロルを呼び止めた。


「ロル、スマホを開きなさい」


「ん? おお、給料が振り込まれたんですか――あれ? なんだかいつもより多いような……」


振り込まれた金額を確認したロルだったが、そこにはいつもの倍の額が印字されていた。


「一ヶ月後の龍王祭、ハイム道具屋もお休みにしてあげる。ライラちゃんを連れて、思いっきり遊んできなさい」


「珍しく気前がいいですね……」


「本当にありがとうございます! マリーナさん!」


「ふふっ、どういたしまして。ライラちゃん、楽しんできてね――ロル、私たちとの間の条件、忘れないでよ」


「分かってますよ。最低でも依頼を三つ、ですよね。頑張りますよ……」


「ふふん、せいぜい私を楽しませてちょうだいね〜」


「それじゃあ、ありがたく『恩賜』を頂戴しておきますよ……」


マリーナの背筋が凍るような笑い声に見送られながら、兄妹は病院を後にした。当然のことながら、その直後に彼女が窓辺で見せた、まるで母親のような優しい微笑みに、彼らが気づく由もなかった。


病院を出る頃には、空の色は青から徐々にオレンジ色へと変わり始めていた。ロルは緊張から解放されたように、両手を上に大きく伸ばして背伸びをした。


「まさかこんなにあっさり見逃してもらえるとは思いませんでしたね……逆に疑心暗鬼になってしまいますよ……」


「兄さんは気にしすぎだよ! マリーナさんはすごく優しい人なんだから」


「それはライラに対してだけですよ。私に対する態度とは大違いです」


「マリーナさんがそういう態度を取るのも、兄さん自身がちゃんと反省すべきだと思うな――あれ? 兄さん? 橋脚に戻るんじゃないの?」


キャンピングカーに戻るはずが、ロルが別の通りへと歩き出したのを見て、ライラは不思議そうに後を追った。


「せっかくここまで来たんですからね。ヘミルンさんのお店で新しいスイーツが出たそうですよ。確か、フレンチトーストとか言ったかな……」


『ヘミルン・スイーツ』は中町区でも有名な洋菓子店だ。スイーツの種類が豊富で、店内の内装や雰囲気も抜群。中町区におけるSNS映えの聖地の一つだが、いかんせん値段が少々張るのが難点である。


ロルはいかにも自分が行きたいかのように言ったが、実際のところ、三日前にライラがスマホで新作のニュースを偶然見つけた時の、あの目をキラキラさせた様子を、彼が忘れるはずもなかった。


「ねえ、兄さん……本当に行ってもいいの? 私たち……今、貯金もあんまりないのに……」


ライラは手を伸ばしてロルの袖をきゅっと掴んだ。耳が興奮を隠しきれずにピクピクと動いていたが、すぐに預金残高の現実を思い出したのか、半円形の熊耳はしょんぼりと垂れ下がってしまった。


そんな妹の様子にたまらなくなったロルは、ライラの頭に手をポンと乗せ、力を込めてワシャワシャと彼女の髪を思いきりかき回した。


「何を言ってるんですか。ただお兄ちゃんが、お給料をもらったから美味しい紅茶を一杯飲みたいだけですよ。スイーツを食べるかどうかは、ライラの自由ですけどね」


ライラは呆れたようにロルの手を押し除け、無言で自分の乱れた髪を整えながら考え込んだ。視線はあちこちを泳いでいたが、やがて決意を固めたようにぱっと明るく笑った。


「食べる! でも急がないと、夜は無料の駐車場が空いてないかもしれないよ」


なにせ話題の聖地で、おまけに今は夏休みだ。どう考えても行列に並ぶことは避けられないだろう。


「だから今回は速戦即決です。行きますよ!」


ライラに向けて右手を差し出すと、彼女もその手をしっかりと握り返してきた。血の繋がらない兄妹は、互いの手を繋いで街を歩き出す。


「でも、これを食べちゃったら明日からの生活はどうするの?」


「それは明日の私に任せましょう! 私ほど賢ければ、明日の私がきっと何か名案を思いつくはずですよ!」


「兄さんはいつもそう言うよね。でも、兄さんは一度も嘘をついたことはないもんね」


二人はそうやって他愛のない軽口を叩き合いながら、手を繋いで通りを歩いていく。夕陽がちょうど、彼らの影を長く長く伸ばしていた。


これは、兄妹が初めて迎える龍王祭の一ヶ月前。季節が春から夏へと移り変わる頃の、すべての物語の始まりである。

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