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68話:祭の手記3

(祭の視点)


(訓練不足ね……ごめんなさい、チョコ隊長……ごめんなさい、ライラ……ごめんなさい……)


祭は悔恨に唇を噛み、ゆっくりと瞳を閉じ、自身の終焉を待った。


――だが、その時だった。


ピチャ、ピチャ、ピチャ。


ある音が耳に届いた。


それは裸足で水溜まりを踏む音だった。ひどくのんびりと、ゆっくりとした足取り。


祭が目を開けると、視界はぼやけていたが、それでも異変を捉えることができた。触手は空中でピタリと止まり、振り下ろされなかった。あのクズの視線すらも、彼女には向けられていない。


(好機か?)という考えが浮かぶよりも早く、祭の視線もまた、無意識のうちに同じものへと引き寄せられていた。


一つの人影が――通路の奥から、ゆっくりと歩いてくる。その出現により、空間全体が一瞬にして静まり返った。


それは、黒い霧を纏った人型の生物だった。


しかし、それを「生物」と呼んでいいのか、祭にも確信が持てなかった。なぜなら、その身体のバランスがあまりにも異常だったからだ。


大人の人間(人族)の男性ほどの背丈でありながら、腕、太もも、ふくらはぎ、そして胴体に至るまで、すべてが枯れ枝のように痩せ細っている。それなのに腕だけが論理に反するほど長く、巨大な爪のような手を持っていた。ただ直立しているだけなのに、指先が地面に届いているのだ。


胸の奥では赤い炎が燃え盛り、顔にあるおぞましい鮮紅の眼球は、それぞれが全く別の方向をギョロギョロと彷徨っている。目の周りには、血管のようなものが顔中にへばりついているのが見えた。


その頭は時折、小刻みに素早く左右へ振られ、生物としての摂理から完全に逸脱していた。


「お前……一体何者だ?」


祭は最初、あのクズが使役する呪いの一種かと思った。しかし今、オーランドでさえ驚愕の表情を隠しきれていない。


突然、黒霧の中にあるその口元が、ニヤリと歪んだ。口角の上がり方は、とうに人間の骨格の限界を超えている。


――腹が、減った


その一言が響いた瞬間、ただでさえ薄ら寒い下水道が、異様な悪寒に包み込まれた。


祭は全身の毛を逆立て、尻尾を硬直させた。今すぐこの場から逃げ出したいという、根源的な恐怖が刻み込まれる。


その言葉は音として耳に届いたのではない。直接、脳内に響き渡ったのだ。


声など聞こえないのに、確かな『語気』を感じ取れる。黒い影は今、間違いなく笑っている。


――お前、美味そうだな


たった二つの言葉だけで、祭は息が詰まりそうになった。無意識のうちに逃げ出したい、一秒でも早くあの黒い影の視界から消え去りたいという衝動に駆られる。


それは生物としての本能による警告だった。アレは、オーランドの呪いなんかよりも、はるかに触れてはならない存在だ、と。


祭は最後の拠り所である刀をきつく握りしめた。恐怖で全身の震えが止まらず、何か言葉を発しようとしても、声すら出なかった。


沈黙。すべての者が静止し、オーランドでさえ軽挙妄動を控えていた。


次の瞬間、その鮮紅の双眸がオーランドへと向いた。口角がさらに深く裂ける。まるで、オーランドに向かって微笑みかけているかのように。


――食っても、いいんだろ


刹那、黒い影はすでにオーランドの目の前へと到達し、黒い爪が即座に振り下ろされた。オーランドも即座に反応して触手で防ごうとしたが、元々あれほど強固だったはずの触手は、まるで野菜を刻むかのように、黒い影の手によっていとも容易く切断された。


オーランドはすぐさまさらに多くの触手で障壁を作り、距離を取ろうとした。しかし全く効果がない。黒い影の動きは異常なほど素早く、そして不自然だった。


両者が宙で交戦する距離は徐々に縮まっていく。オーランドは手を振り、すべての呪いの人形を呼び寄せて影の猛攻を和らげようとした。


しかし、それらの人形は数歩も踏み込まないうちに、あの怪物の無造作な爪の一振りによって、存在の痕跡すら残さず消し去られてしまった。


強い。信じられないほど強い。だがその事実が、かえって祭の脳内をひどく混乱させていた。


(これは、一体何なの……?)


現れたのがあまりにも唐突すぎる。アレは、敵か味方か? それともオーランドは単なる最初の獲物で、次は自分が狙われるのか? 一体何の目的があるというのか?


祭の脳内の混乱とは裏腹に、オーランドにそんな余裕は微塵も残されていなかった。


「おのれ! 願わくば高潔なる王よ、忠臣が進んで我が命を捧げます。どうか再び――」


呪いの人形が次々と容易く破られていくのを見たオーランドは、腕を掲げて呪文を詠唱しようとした。しかし、黒い影は突如としてさらに速度を上げ、鮮やかに彼の一方の腕を斬り落とした。


激痛にオーランドは奥歯を噛み砕き、触手が即座に反撃に出た。だが、弾き飛ばされた黒い影はほとんどダメージを受けていなかった。身体を異様に捻り、軽やかに石壁を蹴るだけで、すべての衝撃を受け流してしまったのだ。


そして、ソレは祭にとって最もおぞましい行動に出た。祭は自分の胃が激しくせり上がるのを感じた。


黒い影は、オーランドの千切れた腕をそのまま持ち上げ、食べ物を味わうかのように、ありえないほど大きく開いた口の中へと押し込んだのだ。黒霧越しにも、喉を動かして飲み込む動作がはっきりと見えた。


その凶行が、オーランドの残された僅かな理性を完全に粉砕した。

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