67話:祭の手記2
(祭の視点)
「あなたたち……もう子供たちを助け出してくれたのですね? それは本当に良かった……」
「オーランド神父? ご無事だったんですか!?」
「ええ! 下水道に連れ去られてから、私はずっと子供たちを探していたんです」
何も知らないライラに向かって笑顔で語りかけるオーランドの姿に、祭は心の底から嫌悪と吐き気を覚え、今すぐ刀を抜いてこの畜生を斬り捨てたい衝動に駆られた。
(――だが、まだ距離が足りない。一撃で致命傷を与えられなければ、次に危機に陥るのは私とライラだ)
オーランドは歩み寄りながら、怪訝そうに祭を見つめた。
「どうしましたか?」
祭の手はすでに刀の柄に添えられていた。それは無意識の挙動だったかもしれないが、オーランドはその瞬間、ピタリと足を止めた。その反応はどう見ても、ただの普通の神父のものではなかった。
(理想的な間合いにはまだ少し足りないが……これでも十分だ)
「ライラ、魔法で子供たちの視界を遮ってくれる?」
「えっ? できるけど、どうして?」
(これからの光景は、あの子供たちには残酷すぎる。見せたくない)
ライラは困惑しながらも深くは追及せず、即座に氷の魔法を放ち、カートと子供たちをドーム状に覆い隠した。
「一体、何事ですか?」
祭はわずか三歩の距離にいるオーランドを睨みつけた。自分が悪いことをしたと気づいていない子供のようなその困惑した表情は、どんな悪意よりも悍ましかった。
(相手が警戒していると分かっていながら、こんな至近距離に立ち続けるなんて、よほど自分の力に自信があるのね――ならば、その傲慢さ、遠慮なく斬り捨てさせてもらうわ)
「奥義、一閃」
刹那、祭は一歩を大きく踏み込んだ。腰の刀が稲妻のように空気を切り裂き、その強大な威力が一瞬にしてオーランドを後方の石壁へと吹き飛ばした。壁に巨大な亀裂が走るほどの凄まじい衝撃だった。
それは祭が幼い頃から鍛え上げ、磨き抜いてきた抜刀術であり、今の彼女の渾身の一撃と言えるものだった。
「祭!? どうしたの!? なんで――」
「下がって、ライラ。あれはもう、あなたの知っている神父じゃない。ただの人殺しよ」
言葉を終えるより早く、祭は不吉な気配を感じ取り、ライラを自分の背後へ引き寄せた。
オーランドの背中から、無数の漆黒の触手が蠢きながら這い出し、彼の身体全体を宙へと持ち上げた。
彼の腹部には先ほど斬り裂かれたばかりの生々しい傷口があった。しかし、そこから流れ出しているのは鮮烈な赤い血ではなく、まるで産業廃棄物のような漆黒の液体だった。
オーランドは痛みを一切感じていないかのように、恍惚とした表情で虚空を見つめ、ブツブツと呟き始めた。
「なぜ……? なぜ、私だと分かった……? ああ……マフェロさんですね……私も油断しましたよ……頭が、どんどん回らなくなっていく……」
ライラを救出する前、あいつ(あの男)は祭にこう警告していた。
『犯人はおそらくオーランド神父だと思います。私自身もあまり信じたくはないのですが、全ての証拠が彼を指し示しているのは否定できません。もしこの後、彼が見つからなければ、犯人でほぼ確定でしょう。……もちろん、絶対とは言い切れません。もし後でオーランド神父に遭遇したなら、祭さん自身の目で判断してみてください』
彼の言葉を一言一句忘れていなかったからこそ、オーランドを見た瞬間、祭は相手の衣服を鋭く観察したのだ。
「理由はそれもあるけれど。もう一つは、あなたのその白衣があまりにも綺麗すぎることよ。誘拐された被害者を装うつもりなら、せめて一度くらい、そこの汚い水路に飛び込んでから来なさい」
祭が彼を吹き飛ばす前、オーランドの白衣には汚れ一つなかった。走ってきた祭の白いパンツでさえ、跳ね返った泥で汚れているというのに、裾が地面につきそうな彼の白衣が汚れていないなどあり得ないのだ。
「時間が足りない……私は……こんな所で死ぬわけにはいかない……そうだ……魔力さえあれば……魔力さえあれば!」
その場でうわ言を繰り返していたオーランドは、突如として黒い液体を吐き出すと、ヒステリックに祭とライラに向かって叫び声を上げた。
「慈愛の巨竜よ! お前が今ここにいることは分かっている! 早く姿を現せ! 私の願いを叶えろ!」
背後の触手が彼の感情に呼応して狂ったようにのたうち回り、その赤く濁った眼球は、狂気じみた祈りを込めてライラにピタリと固定された。
「もしこのまま沈黙を続けるというのなら、お前の目の前で、この下等生物と子供たちを全員〜殺して見せてやるぞ〜!」
オーランドの限界を超えた狂態に、祭は思わず眉をひそめ、無意識のうちに刀の柄を握る手に力を込めた。
彼女とライラは視線で瞬時に意思疎通を図った。ライラは残された僅かな力を振り絞ってカートへと駆け寄り、最後の魔力を使い果たして分厚い氷の障壁を作り出し、自分たちをその中に閉じ込めた。
今回、祭に一切の迷いはなかった。刀を鞘に納め、姿勢を低く沈め、全身の神経を限界まで研ぎ澄ます。その瞳は、冷たい刃の光のように真っ直ぐ前方を射抜いていた。
(感じ取れる――相手の状態は決して安定していない)
あいつが補足してくれた情報によれば、呪いを酷使すればするほど、いずれ身体がその負荷に耐えきれなくなるという。もしそれが本当なら、今が最大のチャンスだ。
自分の懦弱さのせいで、もう二度と会えなくなってしまった人がいる。もしここでライラまで守りきれなかったら、どの面下げてチョコ隊長に顔向けすればいいというのか。
チョコ隊長は言っていた。「誰にでも、自分の限界を超えなければならない瞬間がある」と。今こそが間違いなく、その瞬間なのだ。
「あなたの思い通りにはさせない!」
先に仕掛けたのは祭だった。彼女は再び前方へ猛然と踏み込み、渾身の斬撃を放った。しかし、先ほどと同じ威力であったにもかかわらず、今度は触手によって力ずくで受け止められてしまった。直後、数十本の触手が同時に彼女を襲う。
青い瞳が触手の軌道を瞬時に捉える。祭は攻撃を躱しながら、あるいは触手そのものを足場にして踏み台にし、オーランドの本体へと肉薄していった。
予想通り、これらの黒い触手を斬り断つことはできない。だが先ほどの一撃で、確かに肉を斬る手応えはあった。つまり、本体さえ叩けば勝機はあるのだ。
もちろんオーランドもそれに気づいており、祭の斬撃を防ぐため、常に三本の触手を自分の身体の周囲に纏わせて防御を固めていた。
祭は触手の間を縫うように飛び回り、攻撃を神業のように回避し続けたが、どうしても突破口を見出せなかった。幾度かの斬撃も全て触手に阻まれ、死角に回り込んでも届かない。
しかし最も致命的だったのは、彼女自身の速度が目に見えて落ち始めていたことだ。
呪いの人形との連続戦闘に加え、子供たちとライラを引きずっての強行軍。すでに彼女の体力は限界を迎えつつあり、水分不足による目眩すら感じていた。
だが、そんなものは所詮言い訳に過ぎない。全ては自分の鍛錬不足が招いた結果だ。
祭は攻撃を躱しながら自らを責め立てた。そして、突破口が見つからない焦りからか、彼女はあいつがいつもの自信満々な笑みを浮かべて、ひょっこりと現れるのを無意識に期待してしまっている自分に気づいた。
『私が死ぬわけないでしょう』などと、得意げな言葉を並べ立てながら。しかし、そんな妄想が叶うはずもない。現実は残酷だ。このクズがここに姿を現した時点で、あの人の運命はとうに……。
祭は目を伏せ、奥歯が砕けそうなほど噛み締めながら、刀の柄を死に物狂いで握りしめた。黒い触手の中心にいるクズに向けるその顔には、隠しきれない殺意が満ちていた。
その反応を、オーランドは蔑むような流し目で捉えていた。不意に、彼は先ほどのヒステリックな様子を消し去り、またしても元のような温和な態度を取り繕い始めた。
「誰かを探しているのですか? ああ! マフェロさんですね! 彼ならもう動かなくなってしまったので、あの場所に捨ててきましたよ」
優しくも冷酷なその言葉は、鋭い刃となって祭の心臓を深々とえぐった。痛みを伴う怒りが胸の奥から燃え上がり、祭は感情を制御できなくなっていった。
「黙れ……お前みたいなクズが、彼の名前を口にするな……」
元々人の心を弄ぶことに長けているオーランドが、祭のその反応を見て口を閉ざすはずがなかった。彼はさらに温和な口調で、長々と語り始めた。
「マフェロさんは本当に優秀な方でしたよ。聡明で、頭の回転も速く、おまけに私と同じで生まれつき魔力が乏しい。もし彼が私の邪魔さえしなければ、私たちはきっと、素晴らしい友人になれたはずなのに」
あいつは確かに優秀な人間だった。怠け者で、時々調子に乗るけれど、観察眼に優れ、常に他人のことを思いやれる男だった。ライラから見せられたメッセージのやり取りからも、彼がどれほど優しい人間であるかが伝わってきた。
もし可能であれば、祭は彼を連邦警察にスカウトしたいとすら思っていた。
だが、あいつはきっと断るだろう。彼の頭の中には一番大切な『家族』のことしかなく、家族のためなら他の全てを投げ打つことすら厭わないような男だから。
(それなのに……どうして? どうしてあんなに優秀な人間が、こんなクズの手にかかって死ななければならないの?)
「彼が死ぬ間際、どんな無様な姿だったか、教えて差し上げましょうか?」
相手が心理戦を得意としており、これが彼を隙に誘い込むための挑発であることは痛いほど分かっていた。それでも、祭の理性は瞬く間に怒りの炎に焼き尽くされた。
「死ねっ!」
祭は足元の触手を力強く蹴り上げ、刃の閃光と共にオーランドへ真っ直ぐに斬りかかった。
斬撃の威力は依然として恐ろしいものだったが、その一撃もまた、いとも容易く防がれてしまった。オーランドは指を一本立て、祭の背後を指し示した。
「怖い、怖い。ですが……あなたの背後で守るべきものは、本当に大丈夫ですか?」
祭の狼耳がピクリと動き、直後、子供たちの抑えきれない悲鳴が彼女の鼓膜を打った。猛然と振り返ると――氷の壁の周囲を数体の呪いの人形が取り囲み、狂ったように壁を叩き割ろうとしていた。
「ライラッ!」
焦燥に駆られたその叫びは、次の瞬間、無情にも断ち切られた。
轟音が下水道を揺るがす。祭の身体は、触手によってまるでボロ人形のように石壁へと叩きつけられた。骨が砕ける不吉な音と同時に、血の生臭さが喉元まで込み上げてくる。彼女は無理やり血を吐き出し、壁にめり込んだ身体を必死に引き抜こうと足掻いたが、ただ無様に地面へと崩れ落ちる結果に終わった。
だが、そのおかげで触手の追撃だけは間一髪で躱すことができた。
しかし、運良く生き延びたからといって勝利を意味するわけではない。全身の骨が砕け散ったかのように激しく悲鳴を上げており、今彼女の衣服を濡らしているのが汗なのか血なのか、もはや判別すらつかなかった。
それでも、彼女は刀だけは決して手放さなかった――それは長年の訓練が体に刻み込んだ本能だった。だが、刀を握るその両手は、今の彼女には何ももたらしてはくれない。
祭の両足は言うことを聞かず、酷く痙攣している。這ってでも前へ進もうとするが、どうにもならない。
なぜなら、高く振り上げられた相手の触手が、すでに彼女の真上に迫っていたからだ。その姿はまるで、まとわりつく鬱陶しい羽虫を叩き潰そうとするかのようだった。
今回ばかりは、もう逃げ場はどこにもなかった。




