200話:ひとまずこれにてお別れを
有名な『さよならだけが人生だ』とは、詩人の『勧酒』に付した井伏鱒二先生の訳ですね。
もともとの言葉は『人生足別離』で、『人生に別離はつきものだ』というのが普通の和訳になるでしょうか。
教師の何気ない雑談でしたが、なんとなく心に残っています。
詩人の名前は忘れました。(笑)
確か、唐の時代の詩人だったとは思うんですが。
ただ、この井伏先生の妙訳も実生活における経験が大きく影響したらしく、そのことを手記に残しているとか。
ならば、妙訳の元ネタは井伏先生の人生経験、もしくはそれを経験させた人物であると言えるし、妙訳と評価される以上、心を打たれるひともまたそれを想起できる何かしらの経験をしているとも言えます。
他人に共感されないものは基本的に評価されることはありませんから。
そういえば、寺山修司先生の『さよならだけが人生ならば~』の詩文も、おそらくはこれを下敷きにしたものなんでしょう。
昔、『さよならだけが人生だ』の言葉の元ネタをめぐって、知人と言い合いになったことがあるのですが、私はこの時初めて寺山先生を知りました。(笑)
うん、双方の知識レベルが噛み合わないと、議論になりません。
……今の世の中、そんなことばかりのような気もしますが。
まあ、人生における『さよなら』の場面で小粋な台詞がはけるかどうかはもちろん、そんな心意気でいられることはほとんどなく……その『さよなら』が心に占める割合が多ければ多いほど、ひどいことになりがちですね。
想いが深ければ深いほど、言葉は心を離れていく……などと、恋愛ものでよく語られますが、これは恋愛に限った事ではないでしょう。
言葉は便利で、だからこそ不自由でしかない。
そこで、『言葉を重ねるしかない』と思うか、『言葉など無意味だ』と思うかは個人の自由。
まあ、創作においてはキャラクターを極端に走らせなければお話にならないことも少なくありませんが、現実においてはそういうわけにもいきません。
白黒はっきりつけるなどといいますが、私たちは灰色の世界を生きる存在でしょう。
日常の場面場面において、己の中の濃淡を変化させて生きていく。
出会いがあり、別れがある。
様々な場面。
自分の濃淡そのものではなく、濃淡の変遷こそが足跡と呼べるものではないでしょうか。
……などと、なんとなく『別れ』をテーマにして、ちょうどのキリの良い200話ということで。(笑)
ネット環境があるならば日記感覚でどこまでもいつまでもいけそうですが、ネット環境がない人間にとってはなかなか厳しい感じでございます。
と、いうか……リハビリ第二ステージというか、創作意欲チャージというか、別の話を書きたかったり。
まあ、限られたリソースの振り分けという、野暮なお話で。
環境というか、状況が変わればまたひょっこりと続きを書き始めるかもしれません。
再開時のサブタイトル候補は『また会えたね(腰痛)』。
これにてひとまず幕を下ろします。
そしてこっそりと、総文字数をキリよくしてみました。(笑)
どうせなら、33万3333文字の方が美しかったでしょうけど。




