0443 貪婪と傲慢
時間のカットが再び10時45分に巻き戻される。
西塞は上海のあるバーに落ち着いて座っており、彼の輪迴者を五百メートル先に誘導しようとしている。その時、分体の一体は既にそれらの輪迴者を処理しに行っている。今、西塞の前に座っているのはもう一体の分体である。
この分体はライターを手に取り、ビーカーの中の酒に火をつけた。青白い炎が二人の間で揺らめき、炎の照り返しの中で、西塞の顔は冷たい震えでいっぱいだった。
盧安が西塞を放そうとしないのではなく、もし分体を一人西塞の監視につかせなければ、五百メートル先の別の分体があの転生者たちを片付けに行くとき、西塞が颯爽と現れて自分を阻止しようとするからだ。コードネーム「貪欲」のこの主錨に好奇心を抱かせ、あの謎の者たち(転生者)と盧安の関係を探らせるよりは、むしろ先に彼の前に座っているほうがましだ。
焼酎は導力脈絡の制御下で、一本一本の液体の火の蛇となり、空中でうねっている。酒液の中央は空洞で、絶えず外部の空気を吸い込み、爆燃の効果を形成し、まるで小さなエンジンのようだ。これは導力超能の小さな応用だ。濃紺の火の蛇が杯の中でうねり、まるで魔法をかけられたようだ。
しかし、この時西塞を恐怖させたのは、このような導力超能の使用技巧ではない。
盧安の分体を見た後、西塞はこの天の高さを知らぬ若者をちらりと見て、そして直接に心霊侵入能力を使用した。この心霊侵入能力は幻想や恐怖を生み出し、さまざまな渇望を引き起こすことができる。しかし、この能力は必ず対象の内心に深く入り込まなければならない。五級レベルの心霊侵入能力は、自然と盧安の世界に入り込み、盧安のこの時のすべての視点を理解した。
西塞の侵入は非常に順調で、これまでにないほど順調であり、微塵の抵抗にすら遭わず、まるで深い深淵に真っ逆さまに落ちるかのように順調だった。
本来ならば、盧安の導力超能力場が抵抗を示せば、西塞の侵入はここまで容易ではなかったはずだ。西塞が侵入しようとした際、盧安が西塞の指を針で刺せば、彼のマインド侵入も途切れただろう。しかし今、盧安は彼の侵入を許し、彼の意識が部分的な記憶情報を携えて、自分の思考の中に挿入することを許したのだ。
その過程で、西塞の脳の思考は混沌状態に入った。西塞の意識は、盧安の該当する分体の記憶思考情報に挿入されるに伴い、盧安のその分体の思考容器の中で思考する。つまり、盧安のこの思考容器には二つの意識が存在するということだ。
昔、西塞が他人の頭脳に侵入した時、簡単に相手の思考を自分の思考パターンで支配できた。このプロセスはほんの1、2秒だったが、今ではその2秒がすぐに過ぎ、長い5分間が始まる。
知的生命体が思考を行う基礎的な電流思考は、位面によって呼び名が異なり、魔法位面では魂、仙侠位面では魂魄と呼ばれる。これらはすべて、知的生物の脳内で跳躍する情報量の総称だ。
魂には質と量があり、量としては当然情報の総量だ。情報大爆発を経験した人の思考内の知識量は、農業時代の人の思考内の情報量をはるかに上回る。それは魔法位面の基準で言えば、魂の量が多いということになる。
そして質とは、思考の安定度のことだ。つまり情報爆発の時代において、各人の思考における情報の増加状況も異なる。情報時代に生み出される大量の偽情報を、見極めなければ、自己の思考に矛盾が生じる。情報の真偽を弁別する過程で、価値観や世界観が覆されやすい。もちろん、より多くは本人も気づかぬうちに影響を受ける潜在的な変化である。安定した思考は、容易に悟ったり、容易に他人に啓発されたりするのではなく、以前は見えなかった側面を見出し、新たな視点と古い視点で考えて補完的な思考を形成することで、外来情報の衝撃に対する強力な弁別力を形成する。
そして盧安がずっとやってきたのも、まさにそういうことだ。各予演の時間が長くなるにつれて、それぞれの自分が予演中に抱く感情、態度、考え方は、新しい変化を起こすのに十分な時間を持つようになる。多連合状態以前は、これらの感情は互いに衝突し合い、その頃の盧安は高度に優柔不断な状態で、自分自身でも自分の本心が何か分からなかった。社会状態で言えば、無政府状態だ。そして多連合状態以降は、あらゆる感情態が相互に結合し、求心力を形成するようになった。
ある高廃墟位面の基準によれば、盧安の魂は旭起星で多連合状態に入ってから、量においても質においても恐ろしいほど高まり、神々に匹敵するほどになっていた。事実、盧安はすでに神の残骸(白露の残骸)と比較して、引けを取らなかった。しかもその状態は、ずっと以前の状態だったのだ。
心の強さにおいて、盧安の強大さは一度も外に漏れたことはなかった。臆病な性格のため、盧安が他人と衝突する可能性は極めて低く、ましてや心の接続が起こる可能性はさらに低かった。しかし、盧安が回避するからといって、盧安が弱いわけではない。
盧安のその分体と接続した後、西塞は気づいた。盧安の思考はまるで滔々と流れる長江のように、次々と目的を秩序正しく実行している。一方、西塞はまるで水ネズミのように、どこから手をつければいいのかさえわからなかった。いや、手をつけるどころか、彼は今まさにもがいているだけだった。
例えば、西塞は心の中で、盧安がリハーサル中に電子スクリーンを取り出し、デジタル周波数帯を調整しているのを感じ取った。西塞は盧安がそんなことをする目的をまったく知らなかった——盧安は天空と大地の下の二つのシステムの接続を確立しようとしていたのだ。盧安のこの小さな行動の目的さえ知らないのに、どうやって盧安にその行動をやめるよう説得できるだろうか? 盧安を説得できないなら、盧安の考えに沿って一緒に考えていくしかない。
これは盧安の思考容器であり、否定する理由が見つからなければ、連動させられるしかない。西塞は過去に記憶や思考を挿入して他人に影響を与えていたが、今は挿入した記憶や思考が引きずられている。
彼がこの小さな動作を理解した時には、すでに六十回以上の予行演習が過ぎていた。長い時間に、西塞は外に出たくなったが、盧安は頭の中に諦めようという考えがあるのを察知し、すぐに諦めないよう求めた。そのため、西塞の思考は外に出ようとするが、盧安の思考に引きずられ、しばらく抜け出す理由を見つけられなかった。西塞のこの感覚は、ちょうどゲームをしていて、続けるのは良くないと思いながらも、つい次の一局を始めてしまうようなものだった。
そのため現実のバーで、西塞の元々自信に満ちた落ち着いた眼差しは、数秒後に茫然自失の色を帯びた。茫然自失の中に、時折恐怖がちらつく。彼は今、盧安の思考が時間の渦であることを理解した。彼が盧安の頭脳の中で過ごした膨大な時間の中で、多くの思考は持ち帰ることができなかったのだ。西塞の脳はまるで数百KBの容量しかないフロッピーディスクのようで、盧安という分身体に内蔵されたスーパーコンピューターに保存された情報ライブラリをコピーしようとしているようなものだ。
分体は他の何よりも計算能力が高く、記憶容量が大きい。これは盧安の本体でさえ持てない利点だ。クラスタを形成してから、盧安の本体はどの情報を記憶に留めるべきか選別する方法を既に知っているが、西塞はそれができない。彼はこの繰り返しの時間の中で何を忘れるべきか区別がつかない。彼は極めて貪欲で、すべてを記憶して自分の体の脳にフィードバックし、盧安の弱点を探し、再び侵入しようとする。本体の脳に激痛が走った時、彼はようやく気づいた。自分の能力が己の脳の記憶力を責め苛んでいたのだ。
西塞のカーボンベースの脳は、今や三秒ごとに情報が切り替わる。三秒の間に、盧安の分体にいる西塞の意識は、自分の本体の脳に一連の情報をフィードバックする。西塞の本体の脳は、次々と押し寄せる電気信号に思考が追いつかず、三秒後にはまた新たな理解不能な情報の波を詰め込まれる。
そんな西塞の様子を見て、盧安は思わずため息をついた。今の西塞の姿は、まるで過去の自分そのものだ。かつての自分は、あらゆる情報を欲しがったが、頭の中で優先順位をつけようとはしなかった。
いわゆる貪欲さとは、自分に必要なものも欲しがり、必要でないものまで欲しがることだ。しかし、魚と熊の掌は両立しがたいことを知らない。何かを得るためには、代償を払わねばならない。何かを欲するなら、別の欲するものを諦めなければならないことを知らないのだ。誰にとっても時間は限られている。自分が最も望むことを可能な限り成し遂げることこそ、成功なのだ。
西塞は一体何が欲しいのか?彼は盧安を支配したいのだ。そして今、彼の意識が盧安の分身の思考体系に侵入したが、盧安を支配するには盧安のやっていることを理解しなければならない。しかし、盧安が今やっていることは、自分自身で長い時間をかけてようやく理解したことだ。このわずかな時間で、西塞に何が理解できるというのか?盧安にしてみれば、西塞は自分自身さえも理解できていないのだ。
時間の下では、貪欲には節度が必要だ。
その時、鄧雯もまた盧安の視点に入ることに成功した。
鄧雯が入ったのは、単なる分身の多重プレ演習の視点であり、毎秒5つのプレ演習を発動し、各プレ演習の長さは約11分である。
西塞は盧安の分体に精神侵入した存在で、意識は盧安の分体の思考容器の中にあるため、本体には予演による時空跳躍現象は起こらない。彼はその分体の思考に接続することで時間能力を感知したが、彼の本体の炭素ベースの脳には時間能力はない。現実では、彼は直接電流情報を注入されており、その電流情報もエネルギーであるため、脳神経は耐えられない。一方、鄧雯は盧安の暗黒物質場での構造を複製し、盧安に予演能力を提供する高次元構造に接続したため、複製された脳内に電子折躍現象が現れ、脳の記憶が直接変化し、思考電流の作動によるエネルギーの散逸が存在しない。これは鄧雯が予演能力を得た、あるいは盧安の予演能力に接続したに等しい。
高次元の視点から見ると、鄧雯は自ら盧安がいる時空の檻に入った、言い換えれば、盧安の身の契約の時空結晶に入った。低次元から見ると、異なる時間線上の電子量子の超距離が鄧雯の頭の中に現れた。
鄧雯は時間の呪いというものを悟った。何もする事がない人が無限の時間に入ると、時間は授かりものではなく、拷問となる。
最初の三回の予行演習では、鄧雯はまだ興味津津だった。しかし四回目の予行演習では、鄧雯は破壊を始めた。六百二十七回目の予行演習では、鄧雯は様々な破壊をやり遂げ、鐘楼をじっと見つめ、授業の終わりを待ちながら時計を凝視する学生のようだった。
新たな予演によると、現実の時間を示す時計台はわずか2分も経っておらず、おおよそ毎秒5回の予演が行われていることになる。各予演の長さは約9分で、鄧雯にとっては4日間が経過したことになる。これほど少ない予演の総量でも、鄧雯はうんざりしていた。彼女は自分がここに閉じ込められていることに気づき、毎回の開始地点は決まった場所であり、自分が干渉しなければ、誰の動作も一切変わらないのだ。
これは独房監禁よりも恐ろしい。時空における蟻地獄であり、唯一定型でないのは、上海の高空を飛行している盧安の各個の分身だけだった。
七百回以上の予演の中で、鄧雯は予演中に大声で叫び、各分身に向かってこの忌々しい場所から出たいと怒鳴った。しかし、叫びは全く無意味だった。盧安はこの全てが定型化された上海の中で、鄧雯から身を隠した。
千八百回目の予行で、ようやく鄧雯の目に渇望と懇願の色が浮かんだが、それでもなお口をへの字に曲げて何も言わなかった。しかしこの時の彼女は、ようやく盧安の言葉に耳を傾けられるようになっていた。
二千回目の予行で、盧安は数理化の教科書を手に、この鄧雯にとっての時空の檻の中で彼女に授業を始めた。彼女の知識が限られていることに気づき、小学校の教科書に切り替えて一から教え直し、彼女の落ち着かない感情を少しずつ鎮めていった。
二千五百回目の予行で、鄧雯は教科書に八つ当たりし、盧安は続く五百回以上の予行で再び彼女から距離を置いた。
時が経てばすべては薄れていく。世界に話し相手がただ一人しかいない時、もう一人の側に他に選択肢はないのだ。
これが予行という視点だ。時の流れの前に、誰が思い上がれるというのか?
三千二百回目の予行演習で、鄧雯は再び浮遊戦艦のコックピットに座り、興味深そうに艦内のすべてを見ている。
予行演習中、盧安は教育だけでなく、彼女を上海各地の自分の存在場所に案内し、上海で行っている仕事や、各高層ビルの下にある建設の痕跡にまつわる物語を紹介している。
今から、鄧雯はこの都市で最も盧安の行ったすべてを理解している人である。そして、鄧雯も今、盧安以外には自分だけが知っているこの話を、嬉しそうに聞いている。同じ定まった時間帯に、誰かと交流し、付き添い、導かれる感覚は格別だ。この定まった時間領域の中で、盧安が鄧雯に与えた最も重要な教えは、もし誰もいない檻の中にいるなら、自分の破壊力など無意味で、仲間こそが最も大切だということだった。実際には、盧安の植え付けた概念は、彼が理想とする効果に届かないかもしれない。今回の経験を通じて、傲慢を背負う鄧雯は、この感覚を永遠に覚えるかもしれない。
鄧雯が戦艦で東を探し西を探しあちこち尋ね回っているとき、時折、横で宿題を添削している盧安をちらりと見た。この聞き分けの良くて利発で、可愛らしさも失わない性格は、数千回の予行演習を経て知らず知らずのうちに形成されたものだ。このときの彼女は盧安の前では普通の中学生のように、指を折って授業が終わるのを待ち、終わったら自由にぺちゃくちゃ話して、自分のすべてを打ち明けられるのを楽しみにしている。
盧安がしているこれらすべては、鄧雯の欠けていた思考の成長時間を補完するためだ。子どもがどうして教育の義務を逃れられようか。どうして机に向かって忍耐を磨く過程を欠くことができようか。




