0388 支配された怒り
時間。2036年5月7日、場所。東京湾神奈川県高座郡寒川町十六番地、味の助魚肉加工場の直下にある蛇部第十六号実験基地。
広々とした中央広場に、巨大な機械プラットフォームの上に人型のものが横たわっている。
この人型には機械の鎧が装着されており、半機械半生命のような存在だ。一部の機械アームがさらなる部品を取り付け、別の機械アームからは注射器が飛び出し、機械の鎧に開けられた細孔に針を差し込み、鎧の下の肉体に薬物を注入している。
現場のスタッフは全員が無能力者であり、さらに優れた感情制御能力が求められている。なぜなら、現在この実験体は他者の怒りを感知することができ、それを感知すると覚醒してしまうからだ。
大型スクリーン越しに技術者が慎重に作業手順をしっかりとやり遂げるのを見ながら、宇田は振り返って後ろにいる淺空明子を見て、ヘッドセットを口元に調整し、仕方なさそうに言った。「お嬢さん、ちょっと退出していただけませんか?あなたがここにいると、私たちの作業がとても危険になるんです。」
淺空は笑って言った。「ふふ、私の情緒は安定しているけど、あなたたちのこのプロジェクトは、自分の目で見ないと、とてもイライラするわ。」
宇田は心の中でつぶやいた。「心の狭い女だな。」
今この実験室の中のものは、蛇部の人たちから「使徒」と呼ばれていて、輪廻者たちはそれを「憤怒」と呼んでいる。それに備わっている不思議な能力は、発見されて以来ずっと蛇部から重視されてきた。
「憤怒」が怒り状態に陥る、あるいは「憤怒」の近くにいる超能力者が怒ると、「憤怒」はその超能力者の超能力をコピーすることができる――これが現場のスタッフ全員が無能力者である理由だ。「憤怒」は以前、異常な成長を見せ、筋肉が膨張し、骨格が大きくなり、何本もの触手が生え、鱗や手足が生えてきた。
マレー半島で発見された時、それは既に元の姿を判別できず、最初の毛髪分析のみからこれがマレー猿であると判断できた。
犼部の研究員はその個体を制圧した後、余分な部分を切り取り冷蔵処理を施した。しかし、これらの余分な部分を切り取った後、この個体の超能力も各部分の切断とともに弱まったことが判明した。
数日後、主体は依然として超能力を持っていたが、「怒り」から切り取られた部分はすべて超能力を失っていた。犼部の研究者は突然ひらめき、まず怒りの感情で「怒り」を刺激して異常な成長を起こさせ、その後「怒り」から超能力を持つ有機組織を切り取り、超能力結晶の製造を試みた。
犼部は超能力結晶を大量に安価で製造しようとした。実際に超能力結晶は作ったが、それらは使用不可能だった。「怒り」から切り取った組織から作った超能力結晶は非常に不安定で、いずれも危険なレベルに達していた。
技術力不足を痛感した犼部は、やむを得ず猿部と共同開発を行うことになった。両部門の科学技術水準は低かったが、研究者の度胸は並外れており、彼らは超能力薬剤の製造を試みた。
この計画は「パンドラ計画」(物語の展開に詳しい一部のループ経験者の目には、この計画の命名者は不吉なことを言う人と映った)と名付けられ、六十四名の二級超能力者が志願した。この計画により一名の四級超能力者の製造に成功したが、その後この四級超能力者は射殺され、パンドラ計画は封印され、全ての資料と記録は極秘に指定された。
犼部と猿部は「憤怒」を自力でどうにかできないと悟り、その後蛇部を引き込む展開となった。
上記の資料から見ると、「憤怒」は確かに超能変異を誘発できるが、今ではベテラン輪廻者たちは誰も「憤怒」を狙おうとしない。ベテラン輪廻者たちは「憤怒」で作った薬剤を新人輪廻者に実験した。新人が「憤怒」薬剤を注射されると、すぐに狂乱状態に陥り、自分の舌を噛み砕き、自分の目をくり抜くほどだった。輪廻者の有する最高の医療手段をもってしても、傷を抑えるのが精一杯で、狂乱そのものを止めることはできなかった。
ベテラン輪廻者たちが主導した実験では、ほとんどの新人が死亡し、生き残ったのはごくわずかだった。これらの幸運な者たちは異常な怒りの感情が収まった後、一級遺伝子ロックを解除した。その確率はおよそ四十分の一だった。
天雲はこのアイテムに評価を与えた。「一階遺伝子ロックの開放に使用可能(成功率は低い)、注射量が多ければ二階遺伝子ロックの開放も可能(おそらくさらに確率は低い)。友情のヒント。血が上った状態で使用しないでください。さもなければ、関連する激しい感情が100%支配し、必ず死に至ります。」
このアイテムは戦闘で劣勢な状況で使用することは不可能である。なぜなら、成功する可能性が全くないからだ。そして、ベテランの輪廻者たちはみな抜け目がなく、誰一人としてこれを使ってリスクを冒して階位を上げようとはしない。
「金持ちはテクノロジーに頼り、貧乏人は変異に頼る」というのは映画のプロットであり、映画は商業製品だから、観客が見たいストーリーを設計するのが好きだ。ここでいう「金持ち」と「貧乏人」とは、実は心の持ち方の違いである。
龍部や偷天部のような技術水準が極めて高い超能力組織では、その超能力者は戦闘において純粋に超能力だけで戦うのではなく、大量の技術装備を補助として用いる。
もし盧安が崇明区に留まり、二級減阻超能力者として崇明区を卒業し、戦闘グループに加入した場合、虎部は盧安のために立体投影を見られる戦術ゴーグルのような科学製品を作り、盧安が投影に沿って減阻面を敷設し、広範囲の弾道を逸らして、同じグループの他の戦闘メンバーを援護するのを補助する。これらの資料は、盧安が事前演習を通じて臨淵学院の教師たちの机から探し出したものだ。
龍部と偷天部のような比類なき技術的優位性の前では、他の遅れた超能力組織は技術という正攻法にすでにわずかな希望も抱いていない。これが心構えの違いだ。彼らは近道に目を向けた。これはまるで地球の第二次大戦中、日本が非常に積極的に細菌兵器を研究していたのと同じで、殺傷力は大きいが制御不能な兵器だった。
孟位のいる位面では、細菌兵器は恐ろしく聞こえるが、アメリカが核攻撃を開始した際、日本軍はアメリカに対して細菌兵器を投下する勇気がなかった。昭和の馬鹿どもが良心に目覚めたのか?いや、彼らは怖気づいたのだ。
彼らはアジア戦線で細菌戦を使用し、当時まだ農業国だった中国には当然大きな殺傷力を持っていた。しかし、東北地方ではソ連に細菌戦を仕掛け、墓穴を掘ることになった。ソ連には整った後方支援体制があり、抗生物質の大量生産が可能で、部隊の飲料水もすべて煮沸した水だった。その細菌戦で、防疫措置の不足していた日本軍はひどい目にあった。
第二次世界大戦末期、日本の潜水空母はアメリカに細菌戦を仕掛ける度胸がなかった。敵に恐怖を与え、報復を刺激するだけで、敵の実力を効果的に削ぐことのできないこのような兵器は、自ら殴られに行くようなものだ。
要するに、奇を衒宇田けの策は往々にして役に立たない。
例えば現在、蛇部はこの超能力薬剤プロジェクトに自信を持っていない。犼部と猿部が蛇部と協力する目的は、元々蛇部の比較的先進的な医療技術を借りて、超能力薬剤の開発を続けることだった。しかし蛇部の医学部門は、「怒り」と人間はそもそも別の種であることを発見した。蛇部は依然として定期的に「怒り」から組織を採取しているが、大量の活性タンパク質拒絶反応がこのプロジェクトの将来の展望を完全に閉ざしてしま宇田ろう。
蛇部の別の部門は現在、「怒り」の用途に大きな興味を持っている。
蛇部のこれらの研究狂たちは、「怒り」の脳に大量の電極を埋め込み、脳神経を調節し、他の超能力を複製する能力を保持させようとすると同時に、電子システムでその理性を制御しようとしている。
蛇部の研究員たちは経費を獲得するため、上層部の元老たちへの報告書に「最強」という言葉を40個も使っている。例えば「最強能力」「最強兵器」「最強発見」など。
眼下、この機械体のような「怒り」の各種取り付け作業は、すでに終盤に入っている。
「シュッ」という音とともに、軍服姿の淺空が突然、宇田のそばにテレポートして現れた。このような突然の行動は、何度経験しても宇田は肝を冷やす。
宇田はやや苛立ちながら言った。「何度言ったらわかるんだ、いきなり俺のそばにテレポートするな!」
淺空は宇田の苛立ちを気にせず、「上の元老たちはテストーー場所を準備したのか?」と尋ねた。
宇田は「元老たちが協議中だ」と答えた。
「はっきり言ってくれ、統帥部と菊刀組、それぞれの主張は何なんだ?」
"彼らは議論しているんです、ええと……"宇田はためらいながら言った。
淺空は「もったいぶらないで」という表情を浮かべた。
宇田は続けて言った。「統帥部は、プロジェクトの潜在力が非常に大きいため、国内でさらなるテストーーを行うべきだと考えています。一方、菊刀グループは、5か月後の上海交流会で成果を披露すべきだと考えています。」
淺空は尋ねた。「菊刀グループは、使徒が五級の戦力に直面した際の能力を徹底的にテストーーしたいのですか?継続的な投資価値があるかどうかを確認するために?」
宇田はうなずいた。
「統帥部はこのプロジェクトが決戦兵器になることを期待しているのですか?」
宇田は再びうなずいた。
「それでは、菊刀グループは統帥部のことを、前進を阻む古臭い連中だと罵り、統帥部は菊刀グループの無鉄砲な病気が再発したと罵っているのでしょうね?」
宇田は答えなかったが、その表情は黙認しているようだった。
淺空が手を上げると、掌に球形の時空門が現れ、その中から短い棘が次々と跳ね出た。彼女は「この大物をテストーーさせてみましょう」と尋ねた。
「だめだ!」宇田はすぐに淺空の行動を制止した。この地下基地のどんな防御措置も淺空を止められず、「怒り」も止められない。時空の双系能力が一度「怒り」にコピーされたら、何が起こるか分かったものではない。
「テストーーさせたくないなら、この物を上海に送るのもやめておくことを勧める」と淺空は笑った。
「なぜだ?」
淺空は答えず、ただ苛立たしげに空間門を開けた。立ち去ろうとする時、彼女は宇田をチラリと見た。その目には無知への軽蔑が満ちていた。




