0226 世界観の衝突
姬流は自転車に乗り、盧安の後を追った。
姬流は盧安の超能力に回復力があることを、ごく普通のことだと考えている。彼の見解では、レベル4の超能力が急激に一滴残らず低下することこそ異常であり、ある程度の反発があるのが正常なのだ。しかし、姬流は盧安の現在の超能力レベルを見誤っており、彼はまた、盧安の無制限の超能力の真の姿が何であるかについて、一度も考えたことがなかった。
盧安の超能力の使い方の考え方は、この世界の全ての超能力者とは異なっている——レベル5のピーク時の超能力総量の98パーセント以上を計算に使い、攻撃には使わない。この世界のいかなる超能力者も、盧安の超能力がこのような使い方であるとは考えもつかず、このような常軌を逸した使い方を真似することも不可能だろう。
自分の後ろの付きまとい者に、盧安は非常に頭を痛めている。この悩みは、かつて盧九重に出会った時とは異なる。当時の盧九重は、盧安にとって力の脅威だった。今、後ろについている者も五級だが、盧安はもうかつて盧九重に直面した時とは違う。五級が後ろをうろついていても、盧安は今なら対処できる。盧安を困らせるのは、この五級が自分を天啓だと推測していることだ。
最初にこの知らせを聞いた盧安は、無実に感じた。「自分は確かにうまく隠れていたはずなのに、なぜ疑われることになったのか?」
しかし、予行演習での盧安と姬流の会話を何度も重ねるうちに、盧安はついに自分の過ちに気づいた。「あの時、湯宏康が自分を訪ねて来た際に、自分が湯宏康と潘陽を偶然出会わせたあの一回が、潘陽に疑念を抱かせたのだ。」
当時、盧安は多重時間線の上に立ち、猿回しのように敵を利用して虎を退け狼を追う手口を見せたが、潘陽は馬鹿ではない。結果としてこのような局面を招いてしまった。盧安はこの悔しさを飲み込むしかなかった。溺れるのは泳げる者ばかりというが、予演能力を持つ盧安は時として無意識にリスクを冒し、無意識のうちに悪い結果を招いてしまう。
今日、街はとても賑わっており、ホテルもどこも満室だ。大勢の受験生と保護者が受験終了を祝っている。一方、盧安は家に帰って反省し、次にどこを巡るか計画を立てるつもりだ。上海の原子時計の分布状況については、盧安はおおよそ探り終えていた。
しかし、盧安の予想を超える出来事が次々と起こった。
大学入試の採点会場では、国語グループの先生たちが緊張した面持ちで採点に追われている。ここが受験生たちの運命を決める場所だ。
突然、ある教師が解答用紙を持って採点グループのところにやって来た。採点グループの責任者が一目見て、この60点満点の保留作文に零点をつけ、同時にデータをコンピューターに入力すると、その解答用紙は抜き取られ、脇の欄に置かれた。数日後、記者たちが警備員の引率のもと採点の過程を監察し、記者たちに採点業務の進捗状況やいくつかの典型的な事例が紹介される。記者が採点を監察するのは、この位相面における民主的プロセスの特有の現象である。
ただ、この取り出された答案用紙は零点作文の欄に掲載されており、上の受験番号がはっきりと見える。この作文で引用された一文は、国語科主任によって赤ペンで強調して印をつけられていた。「もし10%の利益があれば、資本は至るところで利用されることを保証する。20%の利益があれば、資本は活発になる。50%の利益があれば、資本は危険を冒すことを厭わない。100%の利益のためなら、資本はあらゆる人間の法律を踏みにじることを敢えてする。300%の利益があれば、資本はいかなる犯罪も犯すことを敢えてし、たとえ絞首刑の危険を冒してでも行う。」
この引用文は、孟位のいる位面では何の問題もなかった。しかし、ここは資本主義が単独で統治する位面である。ロール位面から戻ったばかりの盧安は、まだ世界観を調整しきれておらず、この世界の大学入試の復習に没頭するうちに、うっかりこの世界の政治的現実を見落としてしまったのだ。
盧安は知らず知らずのうちに、この世界の禁忌に触れてしまった。中国西部のプロレタリア武装組織は三十年前にようやく完全に掃討され、この世界では『資本論』のような書籍も非常に忌避され、禁書に指定されている。特に盧安が作文で引用したその一文は、この世界の主流メディアによって社会矛盾を煽る妖言惑衆の言葉と断じられている。
戦争は正誤を証明する。なぜなら戦争はすべての最終決着であり、正しい者のみが生き残れるからだ。一方、平和期の対立は極端を生み出す。双方が決着をつけないまま、自陣営の思想理念を極端な方向へ導いてしまう。マッカーシズム[1]が横行した時代のアメリカと、文化大革命期の中国は、冷戦期の国家陣営間の対立から生まれた。そして21世紀、世界最強のアメリカは、攻撃できない朝鮮とペルシア、絶え間なく続く中東の混乱に直面し、実質的に対抗の道を歩み始めている。これらの地域は対抗の最前線にあり、当然のごとくアメリカに対する極端な思想が生まれた。アメリカが敵を作る際、国民はメディアの誘導により長期間にわたり理念的にこれらの地域に芽生えた極端な思想と対立し、自国でも知らず知らずのうちに極端なポピュリズム思想が生まれてしまう。
しかし、盧安の前世では、上記の国情を全く体感することがなかった。孟位は自国の国情を体感しており、戦争が勃発する前はまだ無知で、「戦火がなぜかわからないうちに自国の玄関に迫ってきた」という感覚で、2017年に大部分の中国人が、インドが越境して法を執行し中国が自国で道路を建設するのを阻止したのに対し、同じように不可解に感じたのと似ている。当時はインドの力が弱すぎて、考えを行動に移す大胆さが全くなかったが、もし自分は力が十分だと考える国に代わったら、状況は違っていただろう。
こうした国情を全く経験したことのない盧安は、メインワールドのポピュリズムやポリティカル・コレクトネスに対して非常に鈍感だった。孟位の世界にもポリティカル・コレクトネスは存在する。例えば、孟位次元の新中国の指導者、毛澤東は決して誹謗中傷してはならないが、この世界では毛澤東はひどく貶められている。この世界には孟位次元のポリティカル・コレクトネスに反する行為が数多くあり、盧安はそれらすべてをこの世界では正常な状況だとデフォルトで認識していた。しかし今、盧安はうっかり、自分とこの世界との違いを露呈してしまったのだ。
五日後。成績が発表され、受験票で照会できるようになった時、盧安はあるニュースで自分の名前を目にした——『彼は数理化で満点を取ったのに、こんな零点の作文を書いた』。予行演習でこのニュースを読み終えた盧安の各感情状態は、爆発的に議論を始めた。
「間違いだ、これは大きな間違いだ。早くから時事を見ておくべきだったのに、どうしてこんな常識を無視したのか。」と、ある予演者が総括した。
「馬克思の言葉一つじゃないか、こんなに大げさにすることはないのに。」ある予演中の盧安は理解しがたい嘆きの声を上げた。
「この世界のニュースはどうしてこういうことをばかり報道するのが好きなんだ……他のゼロ点の作文は報道しないのに、わざわざ私のを報道するなんて!」ある予演中にこの世界のメディアを恨んでいる。
実は、盧安のこのゼロ点と評価された作文が報道されたのは、盧安が他の科目で非常に良い成績を取ったからだ。
成績発表の初日、盧安はこのような不愉快な状況の中で過ごした。盧安が今回の騒動の収束を願うも、期待とは裏腹に、ニュースは拡散し続けた。成績発表の2日目、盧安の総合得点が高すぎるとして社会の関心と議論を呼ぶと、世論の圧力のもと、多くの報道機関が議論を始め、答案に社会憎悪を煽る言葉が記載されている行為への批判が巻き起こった。そして、ニュース動画のコメント欄はまるで炸裂したかのように、コメント数が急増し始めた。
「成績がどんなに良くても、品行が伴わなければ意味がないじゃないか?」
「このゴミが、今度はどこの学校に行くのか見てやろう。」
成績発表の翌日、翌々日になっても、こうしたコメントを盧安は見ていなかったが、盧安はどこか既視感を覚えていた。どうやら旭起星でも世論はこんな感じだったらしい。ただ、その騒動の主役が自分ではなかっただけで。そして、これらの発言は人の心をよく表している。孟位もかつては劣等生だったことがあり、ニュースで見かける、日常生活もままならない高得点の学生に対し、ネット上で批判を書き込んだこともあった。受験という緊張した環境から離れれば、日常生活もままならない高得点の学生であっても、優れた学習能力を活かして大学で生活の仕方を学べるのだ、とは露ほども考えずに。
世論の圧力に迫られ、各大学が態度を示し始めた。もちろん、これは様々な大学にとって宣伝のチャンスでもあった。一部の大学が先陣を切って態度を表明し、成績発表から4日目に、安徽省のある職業学校がニュースで発表した。「当校は人文の聖地であり、新入生の知識だけでなく、学生の思想や品行も審査する。得点が高くても品行が伴わなければ、入学を許可しない」
この宣伝工作は成功し、ポピュリストーー世論もこの同調を楽しみ、盧安を非常に悩ませた。しかし、盧安をさらに悩ませる事態が起こった。「個人情報の暴露」を求める声が怒濤のように高まっているのだ。
成績発表から五日目、盧安はベランダに立ってこの街を見つめ、思わずため息をついた。「うっかり大ごとをやらかしてしまった。これからはこの世界で息を潜めて生きていくしかないな……くそっ、この街に腰を据えて、ひっそりと暮らすつもりだったのに、ああ……」
どの国にも普通の人々がいるが、国によって普通の人々が従う社会的な常識は異なる。地球の21世紀において、アヘン戦争の歴史を経験した中国の一般市民は労教所式の薬物依存症治療施設を支持するが、このような施設は大麻が蔓延する欧米の人々の目には、楊永信のネット依存症治療施設が中国人の目に映るのと同じように映る。そう、地球の21世紀の中国人もゲーム依存症は良くないと考えているが、大半の人はネット依存症治療施設のような存在を認めず、非人道的だと見なしている。欧米の一般市民は薬物中毒が良くないと考えるが、大半の人が依存症治療施設に対して、まさにそのような態度を取っている。二つの国の人々が従う基準でさえ異なるのに、ましてや二つの時間線上の人々はなおさらではないか?
盧安の性格は英雄や偉人のような高くそびえる山並みではなく、非常に平穏で、あらゆる感情の状態が平穏であり、いかなる極端な思想にも容易に傾かない。しかし、この平穏の下には、一つの全体的で分裂を許さない価値観と世界観が内包されている。それ以前には、盧安はこの世界の普遍的価値観と結合を試み続けてきたが、今やその結合が成り立たなくなっている。それはまるで、大陸上の二つのプレートが互いに向かって移動し、圧縮面の応力が過剰に蓄積されれば、いずれ破裂せざるを得ないようなものだ。
高くそびえる山々は壮麗で観賞しやすいが、プレート衝突の現象は観賞のためのものではない。山並みの景勝地で景色を楽しむ家を買う人はいても、人生における大地震の経験という成果を完結させるために、わざわざ地震帯に家を買おうという人はいない。
[注1]。(マッカーシズム)1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国上院議員麥卡錫に端を発した、アメリカ国内の反共・極右の典型的な例であり、共産党や民主進歩人士、さらにはあらゆる異なる政見を持つ人々に対して、悪意のある誹謗中傷や恣意的な迫害を行った。




