ワイバーン
昨日の肉の残りを水筒の清涼な水とともに携帯用の袋へ詰め、俺と琥珀はねぐらを出た。
目指すは、上空の黒雲を突破できる小型ワイバーンの捜索だ。
道中、足場の悪い岩場を歩きながら、琥珀がふと疑問を投げかけてくる。
「ねえ、仁さん……ずっと気になってたんだけど、なんで仁さんはここから出ないの? あれだけ強いなら、いつでも地上に戻れるでしょ?」
「出ないのではない。出られないのだ」
俺は前方に視線を向けたまま、淡々と答えた。
「何度も試したが、俺はあの黒雲を越えられない。雲の境目に達すると、何か不可視の力が働いて、強制的に押し戻される」
「え……?」
「最初は同じようにワイバーンに乗ったがダメだった。それならと、ドラゴンなどの大きな飛竜を従えるたびに上空を目指したが、結果は同じだ。……昨日見せたあの巨大な奴でも試したが結局越えられなかった」
琥珀は青ざめた顔で俺を見る。
「そんな……。じゃあ、私にも越えられないのかな……」
「それは分からん。だが、お前は外界から『入ってきた』のだろう? なら、抜け出せるかもな」
「入ってきた……って、仁さんは違うの?」
頭上に大きなはてなマークを浮かべたような表情をする琥珀に、俺はそれ以上語るのをやめた。
自分が異世界から罰として放り込まれた存在だなどと説明したところで、余計な混乱を生むだけだ。
「……俺はお前のいう外の世界からここに来たわけじゃない」
会話を打ち切り、俺はふと足を止めた。周囲の気配を探る。
「……いたぞ」
俺が指し示した先、切り立った崖の少し低い位置を、一匹の飛竜が優雅に旋回していた。
体色はくすんだグレー。尾は細く、身の丈は四〜五メートルほど。まさに俺が指示した通りの若く小柄なワイバーンだった。
「あいつにするか。連れてきてやるから準備しとけよ」
「えっ、連れてくるってどうやって——」
琥珀の言葉が終わるより早く、俺は地表を軽く蹴った。
爆風とともに垂直跳躍し、一瞬でワイバーンの頭上へと躍り出る。そして、無警戒に飛んでいたワイバーンの額に向けて、軽く手首を効かせてデコピンを叩き込んだ。
音速を超えた指からスパンと衝撃波が走り鋭い打撃音とともに、ワイバーンは白目を剥いて意識を失った。
そして、そのまま重力に従って真っ逆さまに落下していく。
俺はワイバーンより早く着地すると、頭上から落ちてくるその巨体を、抱きかかえるようにして地上で受け止めた。ドシン、と軽い地響きが立つ。
「加減が難しいな」
ピクピクと足を痙攣させて失神しているワイバーンを見下ろし、俺は顎をさする。
「デコピンで気絶させるとか…もう驚くのも疲れた…」
琥珀が引きつった顔で歩み寄る。
「まあいい。こいつが目を覚ますまで、その聖剣とやらに慣れておけ」
俺が顎で示すと、琥珀は抱えていた「聖剣アレス」をぎゅっと握り直した。
彼女は倒れているワイバーンから少し離れた場所で、聖剣を両手で構え、勢いよく空を切る。
ブンッ——ズシャアァァン!!
ただ剣を振っただけのはずだったが、刃から放たれた目に見えない剣圧が前方へ走り、十メートルほど先の岩塊を真っ二つに切断した。
「うわっ!?」
予想以上の破壊力に、振った本人の琥珀が一番驚いて尻もちをつく。
「な、なにこれ……! すごすぎる……! 私、ただ振り抜いただけなのに……自分の魔力と腕力が、何倍にも増幅されてる……!」
琥珀は目を輝かせ、信じられない様子で聖剣の美しいレリーフに見入った。
「これがあれば私、帰ったらすぐにS級ハンターになれちゃうかも……」
興奮気味に呟く琥珀。神器の威力を肌で実感し、少し自信がついたようだ。
俺の調理道具がなくなるから渡すつもりはないが。
そうこうしているうちに、地面に転がっていたワイバーンが「グ……ガ……」と低い唸り声を上げ、ゆっくりと巨体を起こし始めた。額の大きなタンコブを押さえるような仕草をし、怒りに瞳を血走らせている。
「起きそうだぞ。俺が近くにいると標的にされるから離れるぞ」
「えっ!? ちょっと待って仁さん、見守っててくれないの!?」
「手を出したら力を示したことにならん。一人でやれ」
俺は素気なく言い捨てると、トントンと軽快な足取りで離れ、近くの大きな木の陰に身を隠した。
「ううう……無理無理、やっぱり怖いよ……」
一人取り残された琥珀は、一気に不安に押しつぶされそうになっていた。聖剣アレスを両手で必死に握りしめ、内股気味になった足がフルフルと小刻みに震えている。
ワイバーンが頭を振り、視界を鮮明にさせた。
そして、目の前に立つ小さな人間の女——琥珀を視認する。
自身を昏倒させた存在が消えたことで、ワイバーンは怒りの矛先を目の前の獲物へと向けたようだ。
グルオォォォッ!!
鼓膜を割るような咆哮とともに、ワイバーンが大きな翼を大きく広げ、地表を蹴り、凄まじい速度で突進してきた。鋭利に研ぎ澄まされた太い鉤爪が、琥珀の華奢な身体を切り裂くべく迫る。
「ひ……ひぃぃぃっ!!」
恐怖で顔を極限まで引きつらせながらも、琥珀は逃げなかった。
彼女はぎゅっと目を瞑り、死に物狂いで、全身の力を込めて聖剣アレスを横一文字に振り抜いた。
「来ないでぇぇぇぇっ!!」
絶叫とともに放たれた一閃。
眩いばかりの銀色の光が谷間を照らし、圧倒的な斬撃がワイバーンの爪と正面から激突した。




