ダモン
ブゥン、ブゥン、と響いていた木刀の風切り音がやむ。
洞窟の地面に仰向けになり、「もう無理、死ぬ……喉カラカラ……お腹空いて動けない……死ぬ死ぬ……」と手足をバタつかせている女——琥珀を見かねて、俺は溜息をついた。
「ジタバタするな。鬱陶しい」
「だって本当に死にそうなの! 泥水なんて飲めないし、食べ物もないし、このままだと干からびて死んじゃう!」
「分かった分かった。ちょうどいい。今から食料の調達に行くところだ。お前も着いてこい」
俺は木刀を岩棚に立てかけ、入り口へと歩みを進める。
「ここから少し行った場所に、お前でも飲める水があるかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、琥珀は死に体だったのが嘘のようにムクッと起き上がり瞳に光が戻る。
「本当!? 行く! すぐ行こう!!」
俺は呆れながら洞窟の外へと踏み出した。
アースホールの最深部は、相変わらず生ぬるい風と魔物の遠吠えが蠢く混沌の渦だった。俺にとっては見慣れた光景だが、後ろをついてくる琥珀にとっては一歩踏み外せば即死するかもしれない恐怖の渦中だろう。
だが、二時間ほど歩いた頃、恐怖よりも疲労が勝ったらしい琥珀の泣き言が再び始まった。
「ねえ……まだー? 本当に死ぬんですけど……もう足動かないし……」
完全に腰が引けた足取りで、俺の背中を追ってくる琥珀。
「もっとゆっくり歩いてほしー。A級ハンターの私ですらこの地形はキツいのに、なんでそんな平然と歩けるの?」
「これ以上遅く歩いていたら、日が暮れるからな」
俺が淡々と答えると、琥珀はすかさず空を指差して突っ込んできた。
「日なんて出てないじゃん! ここ、黒雲だけで空なんて見えないでしょうが!」
「……っち」
思わず舌打ちする。学のない俺にとって理屈の通った反論は少々イラつく。俺は歩調を緩めることなく、さらに奥へと進んだ。
やがて、巨木が立ち並ぶエリアを抜け、地面から大人の背丈ほどもある巨大な葉がびっしりと生い茂る草原地帯に差し掛かった。
紫色の毒沼とは異なり、このあたりの草木には瑞々しい生命力が宿っている。
「……ここだ。この時間は、ここらへんの葉に夜露が貯まりやすい」
俺は立ち止まり、チラリと琥珀を見やった。
「まあ、今が夜かどうかは知らんがな」
また面倒くさい突っ込みが入る前に釘を刺しておく。
しかし、これで揚げ足取りもできないだろうと琥珀の顔を見ると、彼女は俺の言葉など一切聞いていなかった。
「水……! お水だぁ……!」
琥珀はすでに巨大な葉の先端に駆け寄り、そこに溜まったピンポン玉ほどの大きさの水滴をがっつくように飲み干していた。
「んぐっ……ぷはぁぁぁっ! 生き返る……! これなら飲める! すっごく冷たくて美味しい!!」
上機嫌な声を上げながら、次々と隣の葉についた水滴を飲み干していく。先ほどまでの死にそうな顔が嘘のように頬に朱が差し始めた。
ひとしきり喉を潤すと、彼女は腰のポーチから拳ほどの大きさの金属製水筒を取り出し、慎重に水滴を集めて満たし始めた。
「これで水筒も満タン! 助かったぁ……」
安堵の溜息をつく琥珀に、俺は冷ややかに告げた。
「水は確保したな。じゃあ、次は食料だ」
「食料って言っても何を? この草って食べれるの?」
「心配いらん。いいところに美味そうな肉が歩いている」
俺が視線を向けた先を琥珀も追う。
うっそうと茂る葉の隙間から、その「肉」がゆっくりと姿を現す。
身の丈は五メートルを超え十メートル近い。漆黒の毛並みに鋭い血赤色の縞模様が走る、巨大な虎の魔物だった。地面を踏みしめるたびに、ズシ、ズシと振動を感じるほどだ。
「ひっ……!?」
琥珀の顔から、一瞬で血の気が引いた。
カチカチと歯の根が合わない音が聞こえてくる。ガクガクと膝を震わせながら、彼女は絶望的な擦れ声で呟いた。
「な、なんで……なんであれがここにいるの……!?」
「知ってるのか?」
「知ってるもなにも……! あれは海外のS級ダンジョンで発見された『ダモン』じゃないの!?」
虎の眼光がこちらを捉え、グオオオオオッ、と鼓膜を揺らす咆哮が轟いた。周囲の巨木が震え、葉がバラバラと落ちてくる。
「知っているなら話が早い。お前が殺るか?」
俺が至極当然のように勧めると、琥珀は狂気を見るような目で俺を振り返り、金切り声を上げた。
「できるわけないでしょ! あんなの、S級ハンターがチームを組んで倒せるかどうかレベルの化物だよ!? 気づいてない間に逃げなきゃ! 追いつかれたら一瞬で噛み砕かれて——」
頭を抱え「せっかく助かったのにもう死ぬの!?」と嘆き始める琥珀。
俺は軽くため息を吐くと、軽く息を吸い込んだ。
「……うるさい奴だ」
トン、と地面を蹴る。
琥珀が「え?」と顔を上げた時には、俺の姿は彼女の視界から消えていた。
次の瞬間——地響きのような破砕音が響き渡り、続いてドサッと巨大な物体が地表を揺らして倒れ込む音がする。
「……ヒッ!?」
琥珀が恐怖に目を見張り、前方に目を凝らす。
そこには、さきほどまで世界を滅ぼす勢いで咆哮していたダモンが、首を妙な方向に曲げ、ピクピクと痙攣しながら絶命していた。
そして、その十メートルはある巨体の真下にいた俺は、無造作にその太い脚を掴むと、ひょいっと肩の上に担ぎ上げる。
肉の重みで足元が少し沈むが、いつものこと。
「よし。これで二日は持つな」
血を流す巨大な虎を肩に担いだまま、俺は何事もなかったかのように琥珀の元へと歩み寄った。
琥珀は開いた口が塞がらない様子で、俺と、肩に乗っている巨大な肉塊を交互に見つめている。
「……た、たった二日……? というか……え? いつ倒したの……? 一瞬目を離しただけなのに……」
目頭を抑えて首を振る琥珀を無視し、俺は引き返すために足を向けた。
「帰るぞ。放っておくと他の連中が群がってくる」
「あ、待って! 置いて行かないでー!」
肩に十メートルの虎を担いで淡々と歩く俺と、その後ろをパニックになりながら必死についてくる琥珀。
ちょうどいいところに獲物が歩いていた。
今日は運がいい。




