ダンジョンとゲート
いつの間にか背後で静かになっていた気配が動いた。
「……あ」
かすれた声とともに、女が身を起こしたのが気配で分かった。
冷たい岩肌に身を縮ませ、全身の関節をさするようにして顔を上げている。アースホールの強烈な瘴気と、空から落下した際の疲労が限界に達していたのだろう。
「あの……私は白木琥珀。さっきは取り乱してごめんなさい……助けてくれて、ありがとう」
弱々しくはあるが、一本筋の通った声。俺に怯えながらも、まずは己の素性と礼を口にするあたり、最低限の礼儀はあるらしい。
「そうか。気にするな」
俺はそう言うと、洞窟の入り口近くで足を肩幅に開き、一定のリズムで木刀を振り下ろし続ける。空気を切り裂く音だけが、岩壁に静かに反響する。
「ずっとそれやってるの? なんでそんなに素振りばかりしてるの……修行か何か?」
琥珀の問いに俺は木刀を振る手を止めず、そのまま淡々と答える。
「理由などない」
「理由もないのに、ずっとやってるの?」
「そうだ」
取り付くしまもない俺の返答に、琥珀は大きな溜息をついた。
会話を続ける気力も失せたらしい。それ以上に彼女の身体が発する生存本能の警鐘が、限界を迎えようとしているのが表情や素振りから伝わってくる。
「はぁ……まぁいいや。それより、喉が渇いた……お腹も空いた……」
琥珀は這うようにして立ち上がり、乾ききった唇を舐める。
上空から落ちてきた際、身につけていた荷物をすべて失ったのだろう。身体一つでここにいるのだから当然だ。
「水なら、奥の甕に入っている。好きに飲んでいいぞ」
俺は木刀を振ったまま、顎で洞窟の奥をしゃくる。
「あ、ありがとう!」
琥珀はふらつく足取りで薄暗い奥へ向かい、岩棚の上に置いた素焼きの壺へと向かった。
喉の渇きを潤せる喜びに声を弾ませ、壺の中を覗き込んだ琥珀だったが——次の瞬間、ぴたりと動きを止める。
「……なにこれ」
「水だ」
「これ泥水じゃん! 見るからに飲めるような代物じゃないよ?」
「そうか?」
「こんなもの飲んでるの!? 絶対お腹壊すよ! 下手したら寄生虫とかで死ぬかも——」
「俺は問題ない。そうだな。気になるなら飲むな」
俺は一切動じることなく、淡々と素振りを続ける。
このアースホールの毒沼の上澄みを汲み、沈殿させただけの液体だ。ここに来たばかりの頃は何度か死にかけたことがあったかもしれないが、今の俺にとってはただの水分補給でしかない。
琥珀は引きつった顔で壺からそっと離れた。飲む勇気はないらしい。
「自力でなんとかするしかないか……」
琥珀は諦めたように、着ている服のポケットをごそごそと探し始めた。
やがて取り出したのは、掌に収まるほどの薄く平らな板切れだった。画面に細かなひびが入っているが、表面が淡い光を放ち始める。
だが、画面を凝視していた琥珀の肩が、ガクリと落ちる。
「……圏外」
絶望したような呟き。
「そりゃそうだよね。アースホールだもん。たいていのゲートだったら使えるようになってるのに。分かってはいたけど、はぁ……終わった。協会に救助要請も出せないじゃん……」
薄暗い洞窟の中で、その小さな板切れの発するバックライトが、琥珀の沈んだ顔を青白く照らす。
俺は素振りの手を止めた。
いつもなら上から降ってきたゴミなど見向きもしないが、その光る板切れには、わずかに思うところがあった。
「……それはなんだ? たまに見かけるな」
俺が声をかけると、琥珀は驚いたように跳ね起きて振り返った。
「えっ……これ?」
「たまに、上から落ちてくるゴミの中にそれが混ざっているのを見たことがある。光っているが、何かの通信機器か?」
琥珀は目を丸くし、信じられないものを見るような顔をする。
「嘘でしょ? スマホだよ。スマートフォン。知らないの?」
「すまーとふぉん?」
聞き覚えのない単語だ。俺が怪訝そうに眉をひそめると、琥珀は呆れたように説明を始めた。
「電話をかけたり、インターネットで世界中の情報を検索したり、メールやSNSで誰かとメッセージのやりとりをしたりする機械だよ。今は世界中の人が一人一台持ってる、超必需品なんだけど」
琥珀が指先で画面を滑らせると、光る画面の中の映像がころころと切り替わっていく。
(……なるほど。スマートフォン、略してスマフォか)
俺は無表情のまま、その小さな画面を見つめていた。
空を飛ぶ巨大な飛竜や、身体が破裂しても死なない自分の肉体などを見続けてきた俺だ。今さら大抵の異常事態には驚かない。
だが、俺が生きていた時代——あの裏社会で人を殺していた頃と比べれば、随分と近未来的な技術が存在する世界に来たのだなと、素直に感心した。
「小型のパソコンと携帯電話が合体したようなものだな」
俺が口にすると、琥珀はまたも素頓狂な声をあげる。
「え、パソコンと携帯電話は知ってるんだ?」
「知ってるぞ。携帯なら使っていた。こう、ガパガパと折りたたむタイプのやつだ」
俺が片手で折りたたみ式携帯を開く動作をしてみせると、琥珀はなぜか少し笑みを浮かべる。
「ふふっ……それ、ガラケーだよ。今でもお年寄りの人とかで使ってる人はいるけど、最近は使う人だいぶ減ったかなぁ。あなた、一体いつからここにいるの?」
「……いつからだろうな」
俺は洞窟の外、黒い雲が不気味に旋回する空を見上げた。
ここへ来てから、まともに会話をした人間など一人もいない。三十年の罰も、あとどれくらい残っているのか数えるのをやめて久しい。
「お前たちの世界が今どうなっているのか、話してくれないか?」
俺の言葉に琥珀は少し驚いたようだったが、スマフォをポケットにしまうと、正座するように膝を揃えた。
「えっとね……まず、二十年前に世界が一変したの。世界各地に『ゲート』っていう異界への入り口——ダンジョンが出現したのよ。そこからモンスターが溢れ出して、世界中が大パニックになったの」
「ダンジョン……ゲート……」
「そう。でも、ゲートに入れるのは特定の適性を持った人間だけだった。彼らは中で特殊能力に目覚めて、モンスターと戦う力を得たの。それが『ハンター』。今では強さに応じてSからFランクまで格付けされてて、私は一応、A級ハンターなんだから!」
小ぶりな胸を張る琥珀だったが、俺にとっては正直どうでもいい情報だった。
「……二十年前、か」
「うん。……それも知らない?」
「俺がここに来たのも、おそらくその頃だからな」
「え?」
琥珀の言葉が止まった。
「二十年も…こんな場所に…」
淡々と告げた俺の言葉に、琥珀は完全に絶句していた。
生還率ゼロのアースホールの底で二十年。
琥珀の瞳に宿ったのは、俺という存在に対する困惑と畏怖だったのかもしれない。
俺はそれに頓着することなく、再び木刀を静かに構え直した。




