神楽仁の過去
血の匂いは嫌いじゃなかった。
むしろ、心を静めてくれるものだった。
俺——神楽仁は、かつて別の世界で生きていた。
暗い路地裏に湿ったコンクリート。煙草の苦い煙と安酒の匂い、そこが俺のすべてだった。
人を始末する代償に報酬を得る。それが仕事で、それが日常。罪だと思ったことは一度もない。社会の闇に蔓延る悪を始末する。俺にとってはそれだけの話であり、そこに個人的な感情など欠片もなかった。
「終わりだな」
その日は妙に静かだった。人気のない廃倉庫に呼び出された時点で、何となく想像はついていた。
これは仕事ではない。
自分という存在の処分なのだと。
背後からの気配に振り返るより早く、背中に激しい衝撃が走る。鋭利な刃が身体を貫き、灼熱の痛みが遅れてやってきた。
「悪いな。これも仕事だ」
聞き慣れた声だ。長年背中を預けてきた仲間の声。男は微かに笑っていた。
「……そうか」
それがかつて、もう一人の人間であった俺の最期の言葉だ。
怒りも、悲しみもない。裏切りなんて、この世界じゃ珍しいことでもない。ただ少しだけ、幕が下りるのが早かったなと。
そう思っただけだった。
視界が黒く塗りつぶされ、意識が底なしの暗闇へと沈んでいく。
そして気づけば、俺はどこでもない場所に立っていた。
上下も左右も、奥行きすらない純白の空間。そこに自分が存在しているという曖昧な感覚だけがあった。
「……俺は死んだはずだが」
自分の声はやけに鮮明に響いた。返答はすぐに来た。
『その通りだ』
どこからともなく重なり合う声。男か女かすら判別できない中性的な響き。感情のないその声に、俺は眉をひそめる。
「誰だ?」
『名乗る必要はない』
その返答を聞くと、俺はすぐに興味を失いかけた。だが、次の言葉で意識が戻る。
『お前は多くの命を奪った』
「だからどうした? 依頼を受けるかは内容次第だ。罪のない奴に手は出さない。誰かの私利私欲だけのために人を殺めたりはしない。それが俺のポリシーでな」
『理由にはならない』
淡々と断じられた言葉に俺は肩をすくめる。
「で? 地獄行きか?」
『似たようなものだ』
その言葉に、わずかに口元が歪む。どうでもよかった。今さら何を言われようと、己が歩んできた生き様が変わるわけでもない。
『お前には罰を与える』
その響きだけが、妙に胸に引っかかった。
「……罰?」
『三十年の不死』
一瞬、思考が停止する。
言葉の意味がすぐには咀嚼できない。
「……どういうことだ?」
『死ぬことはできない』
短く、逃れようのない宣告。
『そして——』
空間が不気味に歪み、何かに引きずり込まれるような絶対的な力が身体を支配する。
『最も過酷な地へ送る』
視界が爆破されたように崩れ、すべての音が消える。身体中の細胞が引き裂かれるような凄まじい感覚。
次に目を覚ました時、俺の眼前に広がっていたのは、太陽の光すら遮る巨木の原生林と、熱気を孕んだ紫色の毒沼、そして遥か彼方でマグマを噴き上げる巨大な活火山だった。鼻をつく強烈な腐臭と硫黄の匂い。
あの女が『アースホール』と呼んでいた、この場所だった。
最初の感想は単純だ。
「……ここは地獄か」
次の瞬間、頭上から巨大な影が襲いかかってきた。
人間としての反応速度では到底追いつかない速さ。凶暴な飛竜のカギ爪と牙が俺の身体に食い込む。
骨が砕け、肉が引きちぎられ、内臓が撒き散らされる。
そしてあっけなく俺は死んだ。
しかし。
「……なんだ?」
目を開けると、身体は元通りになっていた。肉体が破裂した凄絶な痛みだけが、鈍く記憶に残っている。
そして間髪入れずに、再び別の魔物が襲いかかってくる。逃げ場はない。抵抗する武器もない。生きながら肉を喰われ、頭から噛み砕かれる。何度も、何度も、何千回も、何万回も。
俺は死んだ。
死ぬたびに身体は元の場所で再生する。地獄のような激痛だけを残して。それをしばらく繰り返した頃、俺は理解した。
「……罰か」
死体と血の海の中で、俺は思わず嘲笑した。なるほど、よくできている。死ねないというのは、こういうことか。神か悪魔か知らんが、真綿で首を絞めるような悪趣味な拷問を考えたものだ。
そこからの俺の行動はシンプルだった。生き延びるしかない。どうせ死ねないのなら、何度も食い殺されるより、死なない方が確実に楽だからだ。
素手で殴り、喰われ、毒に焼かれ、首を刎ねられる。
死ぬたびに俺は魔物の動きを学習した。死ぬたびに効率的な体の動かし方を身につけていった。痛みで発狂しそうな意識を肉体の制御だけに集中させ、無駄な感情を一切削ぎ落としていった。
一年、五年、十年——。
耐えがたい激痛は徐々に薄れ、死ぬ回数が目に見えて減っていった。
そしてある日、ついに一線を超えた。
気づけば、俺は死ななくなっていた。
傷つかなくなっていた。
どんな魔物の鋭利な爪も俺の皮膚を傷つけられず、痛みすら感じなくなっていた。
かつて自分を何度も食い殺してきた魔獣たちが、今では俺の餌となり果てている。
そして今、俺は崖をくり抜いた静寂な洞窟の中で、ただ木刀を振っている。巨木を削って作った不恰好な一本の木刀。それを何百万回、何千万回と振り下ろす。
理由はない。意味があるかも分からない。
今できることが、それしかなくなったからだ。
思考を極限まで削ぎ落とし、ただ素振りという単純作業に没入する。そうしていなければ、静寂と狂気に飲まれてしまうからか。それとも、以前の自分に戻ることへの恐怖か。
「……あと何年だ」
何万回と唱えた台詞。もちろん返事などない。
だが、それさえどうでもよくなった。
終わりは来る。三十年経てば終わる。
ようやく本当に死ぬことができる。
やっと自由になれる。
それでいい。そのときまでここでひたすら木刀を振る。
(俺ができることは、そのくらいだ)
ブンと木刀が空を切り、静かな洞窟内に風切り音がひとつ響いた。
背後では拾ってきた栗色のポニーテールが小さく震えながらこちらを見つめている。
終わりまで、あとどれくらいなのか分からない。
だが、この静寂に満ちた俺の日常に場違いなノイズが一つ紛れ込んだ。この時は些細な変化だと、まだそう思っていた。




