残念な落下物
はるか上空、黒雲渦巻く空から降ってくる何かの気配に気づき、俺は地表の腐葉土を強く蹴った。
どかんと身体が弾けるような感覚。
爆風を突き抜け一気に垂直上昇し、高度数百メートルの上空で、重力に従って真っ逆さまに落ちてくる物体を腕の中にすぽりと収める。
「……」
美味そうな食い物か、あるいは使えそうな材料でも降ってきたのかと思ったが、腕の中に納まったのは痩せこけた人間——それも栗色のポニーテールをした若い女だった。
期待外れにもほどがある。
俺はそのまま落下速度を殺すことなく風を切り、地表へと着地した。
「ぐえぇぇ! ゲホゲホっ! な、なに? だれ? どこへ連れて行くつもり!? 何する気なの!?」
着地の衝撃のせいか変な声を出す生き物を肩の上へと雑に担ぎ直すと、そいつはパニックのあまり金切り声を上げて暴れ出した。栗色のポニーテールが俺の視界の端で激しく揺れる。
俺は間断なく自分の住処へと移動を開始した。
「暴れると落ちるぞ」
抑揚のない声。脅しでも誇張でもなく、ただの事実として放った俺の一言に女の動きが止まる。
「降ろして! 離して!」
反論というよりは必死の叫びだった。
その言葉を聞いて俺は足を止め、腕を解いて女の身体を躊躇なく地面へと放り投げた。
「いたいっ!」
ゴツゴツとした岩と湿った腐葉土の上に尻もちをつき、女は痛みに顔をしかめた。衝撃で膝と手のひらを擦りむき、涙目になりながら俺を見上げる。
だが、俺は彼女に視線すら向けなかった。
「あとは好きにしろ。一応忠告しておくが、ここは魔物の巣窟だ。行動には気をつけたほうがいいぞ」
そう短く吐き捨て、俺は迷いなく背を向けた。
「え? ちょ、ちょっと待って」
今日の晩飯を探すため立ち去ろうとする俺に、女は啞然としながら慌てて声をかける。
その時、ジュルリと粘液を啜るような不気味な音が、すぐ近くの暗がりから響いた。
樹木の陰から滑り出てきたのは、全長十メートルを超える巨大な毒蛇の魔物だった。紫色の鱗を光らせ、鎌首をもちあげて女を捕食対象として見下ろしている。
「ひっ……!」
女の背筋を恐怖が駆け抜ける。身体がすくんで動かないようだ。
(そういえば、生きた人間と会うのは初めてだ。たいていはすでに原形を留めていないからな)
俺は一抹の興味を抱き足を止め、対峙する両者に視線を向けた。
「待って! 待ってください!!」
腕を組みながら見つめる俺に女がすがりつく。
「なんだ?」
「なんだって……助けてくれたんじゃないの!?」
「助けたわけじゃない。上から落ちてきたモノを拾っただけだ」
「も、モノ……」
「食いもんか、何かに使える素材かもしれんと思ったからな。人間は食わん主義だ。解体する気も起きん」
毒蛇が威嚇の威圧感を高め、女に向かって顎を開く。
「お願い……やっぱり連れて行って!」
泣き出しそうな声で、女は叫んだ。
「お願い……ここに一人にしないで! 連れて行ってください!!」
俺は面倒くさそうに溜息を吐く。
「戦わんのか…」
俺は踏み込むと同時に、目の前に立っていた毒蛇の巨大な胴体を手刀で二つに切断した。
もう斬撃の手応えすら感じない。血が噴き出すよりも早く、俺は女を再び無造作に肩へと担ぎ上げる。
「きゃっ!?」
「大人しくしてろ。舌を噛むぞ」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、俺は地面を蹴った。
踏み込みによって爆発する地面を残し、垂直にそびえ立つ数千メートルの断崖絶壁を重力を無視して駆け上がる。
暴風が栗色の髪を激しく乱し、目をギュッと閉じたまま女は俺に必死にしがみついていた。
やがて降りたったのは、切り立った岩壁の中腹をくり抜いて作った小さな洞窟。
俺のねぐらだ。
洞窟内は静まり返っており、外の魔物たちの咆哮すら遠く聞こえる。
俺は女をぽんと床に降ろした。
「あとは勝手にしろ」
そう言い捨てると、俺は女の反応を気にせず、洞窟の隅に立てかけてあった一本の木刀を手にとった。長年の使用によって手垢が馴染み、滑らかに光る古びた木刀。
俺は足を肩幅に開き、深い息を吐き出すと、静かに構えた。
そして、素振りを始める。
備蓄用の食料はまだある。今日は狩りに行く気が失せた。
ブウン、ブウン、と静寂な空間に、規則正しく空気を断ち切る鋭い風切り音が響き渡る。
「あ、あの、まずは助けてくれて有難うございました」
「ん? 何か言ったか?」
素振りの音にかき消され良く聞き取れなかった俺が聞き返すと、放心状態だった女の表情に少し精気が戻った。
「とりあえずその素振りやめてよお! それよりあなた、一体何者なの!? なんでこんな『アースホール』の底にいるの!? なんでこんなところで平然と生きていられるの!?」
マシンガンのように質問を浴びせかけてくる女に対し、俺は素振りのリズムを一切乱すことなく、冷ややかな横顔のまま淡々と問い返した。
「あーすほーる?」
「そうよ! まさかここがどこか知らないの?」
「知らん名だ。ここはただの森だろう?」
「はぁぁ!? ただの森なわけないでしょ!!」
女はなぜか頭を抱える。
「ここは二十年前に出現した、世界で一番危険な魔境なの! 空にはドラゴンが飛んでて、地上には怪物だらけで、S級ハンターだって帰れない。あなた、どうやってここに来たの?」
「……かぐらじん、だったな」
「は?」
質問の答えになっていない単語に、女が素頓狂な声をあげる。
「俺の名だ。たしか、神楽仁だったはずだ。思い出せるのはそのくらい……なぜここにいるかは分からん。気づけばここにいた。もう随分と前の話だ」
「気づけばって……そんな理由でここにいられるわけないでしょう!」
俺はふと木刀を止め、一度だけ女の方へと視線を向けた。
「さあな。それと俺は死ねない。知っているのはそれくらいだ」
「死ねない? それだけって……」
「静かにしろ。集中が乱れる」
俺は女の追及をあっさりと打ち切り、再び木刀を構え直した。
ブウン、ブウン、と再び規則正しく風を切る音が洞窟内に満ちていく。
女は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。
冷たい洞窟の中、素振りを続ける俺と、再び放心している女。
ふと、木刀を振り下ろしながら、俺の頭の片隅に遠い過去の記憶がよみがえっていた。
なぜ俺が死ねないのか。
なぜここにいるのか。
女に語る気など毛頭ないが——俺自身は、覚えている。
俺が、かつて普通の人間だった頃の記憶を。




