出会い
果てしなく続く落下の浮遊感。
耳を鋭く切り裂く風切り音の中で、琥珀は失いかけた意識を必死につなぎとめていた。
顔を上げ、眼下に広がった光景を目にした瞬間、琥珀は言葉を失う。
黒い雲の渦を抜けた先に存在したのは、絶望的なまでに広大な未知の世界だった。
視界を埋め尽くすのは、太陽の光すら届かないほど鬱蒼と茂る巨木の原生林。遥か彼方にはドクドクと赤いマグマを吹き上げる巨大な活火山がそびえ立ち、立ち上る黒煙が空を覆っている。
地表のあちこちにはドロリとした熱気と有害な瘴気を揺らめかせる紫色の毒沼が点在していた。原始の地球、あるいは地獄そのものを思わせる悪夢のような光景。
そして、その空を埋め尽くしていたのは——無数の巨大な影だった。
翼幅が数十メートルを超えるワイバーンや、太古の神話から抜け出してきたかのような真龍たちが群体となって幾重にも渦を巻いて飛翔している。
今、自分を脚爪で掴んでいる飛竜——外の世界では街一つを滅ぼすほどの怪物が、ここではまるで子供ように小さく見えた。
(あぁ……ここは本当に、飛竜の巣なんだ……)
本能が悟った。ここが人類の立ち入りを拒み続けてきた「始まりの地」であり、帰還率ゼロの冥府なのだと。
死の予感が冷たい刃となって身体を突き刺す。
日頃の明るく元気なキャラクターなど、圧倒的な恐怖の前には一瞬で瓦解した。琥珀の瞳から、ボロボロと大きな涙がこぼれ落ちる。
(私……死ぬんだ。かつてここに入っていった、歴史に名を残すレベルのS級の英雄たちみたいに……あの竜たちの餌になって、骨も残さず噛み砕かれて死んじゃうんだ……)
二十歳にも満たない若い生命。
叶えたい夢も、行きたい場所も、まだ山ほどあった。恐ろしさと悔しさに身体を震わせ、琥珀が歯を食いしばったその時だった。
ブチッと嫌な手応えとともに、背負っていた大型バックパックの肩掛けベルトが限界を迎えて引き千切れた。
「うそ…」
身体が宙を彷徨う。
飛竜の爪から離れた琥珀の身体は、重力に引きずられるまま、遥か下方に広がる原生林の樹海に向かって真っ逆さまに落下し始めた。
数千メートルの高度からのフリーフォール。
吹き荒れる暴風が琥珀の髪を激しく乱し、視界がグルグルと回転する。
風の音しか聞こえない極限状態の中、琥珀の脳裏に走馬灯が駆け巡った。
十九年間の短い人生の記憶。
幼い頃、笑顔で自分を抱きしめてくれたごく普通の家族の温もり。
ハンター養成学校で出会った友人たちと、くだらないことで腹を抱えて笑い合った放課後。
初めてA級ハンターに昇格した日、みんなが自分のことのように喜んでくれた誇らしげな顔。
(死ぬって……どんな感じなんだろう……)
地上は刻一刻と迫ってくる。あの巨大な樹木の枝に激突するのか、それとも岩場に叩きつけられるのか。
想像するだけで身体中の毛穴が開くような恐怖が押し寄せる。
(嫌だ……苦しいのは嫌……痛いのも嫌……お願い……神様、もしいるなら……死ぬなら一瞬で意識を断ち切って……苦しまずに、どうか楽に殺してください!)
琥珀は強く固く目を閉じ、全身の力を抜いて祈った。
襲い来るであろう破滅の衝撃に備え、身を縮こまらせる。
永遠とも思えるような浮遊感が続いた。
風の音が最高潮に達し、身体が引き裂かれそうな限界を迎えた——その時。
ズン、と不意に衝撃が和らいだ。
想像していたような骨が砕ける激痛も、肉が引きちぎれる苦痛もない。
全身を包み込んだのは、どこか懐かしく、そして柔らかな——人の体温だった。
「……え?」
死んだのだろうか。ここが天国なのだろうか。
琥珀は恐る恐る、薄目を開けた。
目の前にあったのは、白い空でも、飛竜のゴツゴツとした皮膚でもなかった。
いたのは、一人の男だった。
使い古されてボロボロに汚れた服を身に纏い、肩下まで伸びた黒い髪を後ろで無造作に結んでいる。
年の頃は三十代といったところか。
その瞳は、深く、底知れない暗闇のように淀んだ色を宿している。
男は地上からまだ数百メートルはあろう空中で、落下してきた琥珀を軽々と抱きとめていたのだった。
生きている。
自分は助かったのだ。
アースホールの底、人類未踏の地獄で、まさか自分と同じ「人間」に救われるなんて。驚きと安堵で琥珀が声を漏らそうとした瞬間。
男は抱きかかえた琥珀をまじまじと見つめ、露骨に不機嫌そうな顔で眉をひそめる。
「ち……人間か」
男は冷ややかに吐き捨てる。
それが神楽仁から白木琥珀への第一声であった。




