アースホール
二十年前、世界は一変した。
地球上のあらゆる場所に、突如として『ゲート』と呼ばれる未知の空間への裂け目が出現したのだ。
のちにダンジョンと総称されるようになったその異界は、物理法則すら歪んだ危険地帯であり、内部には現代兵器すら満足に通じない怪物——モンスターが蠢いていた。
ゲートへ立ち入ることが許されたのは、世界人口のほんの一握り、異界の毒気に適応し覚醒を果たした者たちだけだった。
彼らは体内に宿る特殊能力を駆使してモンスターを討伐し、強さに応じて『S・A・B・C・D・E・F』の七段階のランクで管理されるようになった。
そんな彼らを人々は敬意と畏怖を込めて『ハンター』と呼ぶ。
◇
太平洋の真ん中、青澄む大海原のただ中に突如として口を開けた巨大な穴の周縁部に、一機の自衛隊軍用輸送機がローター音を激しく響かせて着陸した。
『アースホール』
周囲数十キロに及ぶ広大な領域は、数千メートルもの断崖絶壁に囲まれた、さながら地球に穿たれた巨大なクレーターの様相を呈している。上空からの撮影であれ肉眼であれ、穴の内部は常に渦巻く不気味な黒雲に覆われ、一寸先すら覗くことはできない。
ゲート出現当初の二十年前から存在が確認されていて、ある者は『始まりの地』と呼び、ある者は『飛竜の巣』と呼んだ前人未到の聖域。
かつて各国のS級ハンターたちが功名心や好奇心から幾度となく潜入を試みたが、誰一人として生還した者はいない。今や世界中のハンター協会において、内部調査は事実上完全に凍結されている。
「うわぁ、近くで見るとマジでヤバい迫力ですね! 雲がドロドロ溶けてるみたい!」
切り立った断崖の縁、防護マスク越しに声を弾ませたのは、A級ハンターの白木琥珀だった。
明るい栗色の髪をポニーテールにし、若々しいエネルギーを全身から放つ彼女は、巨大な探査用バックパックを背負いながら穴の底を見下ろしている。
「おい琥珀、あんまり縁に近寄るな。落ちたらS級だろうが命はないんだぞ」
後ろから呆れたように声をかけたのは、重厚な大剣を背負った男——S級ハンターの本藤だ。汗臭い情熱と圧倒的な腕前で知られる熱血漢で、その厳つい面構えには似合わないほど慎重に周囲を警戒している。
「大丈夫ですよ本藤さん! それに、今日のメインは土壌採取と飛竜の生態観測ですからね。無茶はしませんって!」
琥珀が屈託なく笑う。
今回の『アースホール調査ミッション』に投入されたのは、本藤を含めた精鋭五名。
本藤の隣で気怠そうに手帳を広げているのは、どこにでもいそうな地味な佇まいの女性——しかし国内最強の一角と謳われるS級ハンター、鹿沼だ。そして琥珀の同期である男性二人を加えた、A級三人・S級二人という豪華な編成である。
「生態観測ねぇ……。上空を気ままに飛び回ってる連中は攻撃してくる気配すらないからいいけど、こんな任務引き受けた過去の自分を殴りたいわ」
鹿沼が視線を上げると、雲一つない上空を悠々と旋回する数頭の巨大な影があった。
全身を硬質な鱗で覆い、太い翼膜を広げた怪物——飛竜だ。
本来であれば一体で街一つを壊滅させるほどのモンスターだが、このアースホール周囲に棲息する飛竜たちは、なぜか人間に一切の関心を示さない。
まるでここが自らの絶対領域であり、外から来た羽虫など意にも介していないかのように。
「とにかく、サクッとサンプルを拾って撤収しましょう。こんな危なっかしい場所、長く居るもんじゃない」
鹿沼の呟きに同意するように、五人は作業を開始した。
断崖の縁から少し離れた地表で土壌を掘り返し、専用の密閉容器に保管していく。続いて、飛竜が残したと思われる痕跡の捜索に移った。
「見てください! これ、飛竜の羽じゃないですか!?」
琥珀が岩陰で見つけたのは、人間の腕ほどもある漆黒の硬質な羽だった。太陽の光を弾き、まるで磨き抜かれた金属のような質感を放っている。さらにその近くからは、乾燥して化石のようになった飛竜の糞らしき物体も発見され、調査は順調に進んだ。
「よし、土壌サンプルと飛竜の痕跡、回収完了です! いやー、思いのほかすんなり行きましたね!」
背中の大型バックパックに厳重に採取物を詰め込み、琥珀は汗を拭いながら満面の笑みを浮かべた。
ミッション成功。
あとは予備燃料を補充した輸送機に乗り込み、本部に持ち帰るだけで済むはずだった。
誰もが胸を撫で下ろし、警戒を緩めた——まさにその時だった。
ゴオオオオオオオオオッ!!
唐突に、腹の底を揺さぶる暴風が吹き荒れる。
アースホールの中心部、あの黒い雲の渦が猛烈な勢いで逆巻いてゆく。
「な、なんだ!?」
本藤が大剣の柄に手を伸ばす。
次の瞬間、黒雲を割り、一頭の飛竜が音速を超える速度で噴出するように飛び出してきた。
従来の観測データを完全に無視した異常行動。人間とは比べものにならない巨大さ、そして凶暴な眼光。
「全員退避——ッ!!」
鹿沼の叫びが響くよりも早く、飛竜は超低空飛行で地表を掠める。狙われたのは、採取物を背負っていた琥珀だった。
「え——?」
琥珀が振り向く間すら与えられない。
飛竜の巨大な前脚のカギ爪が、琥珀の背負っていた大型バックパックを正確に捉えた。
メリメリという嫌な音が響き、バックパックのベルトが琥珀の体に食い込む。そのまま圧倒的な質量と推進力によって、琥珀の体は軽々と宙へと持ち上げられた。
「キャッ!? いやっ、離して!」
「琥珀ッ!!」
本藤が叫び、地面を蹴った。
S級の魔力を爆発させ、弾丸のような速度で飛竜の影を追う。大剣を一閃し、爪を切り落とそうと跳躍する。
しかし、飛竜の目的は攻撃ではなかった。
バックパックごと琥珀を掴んだまま、飛竜は一切の躊躇なく、滑空の勢いのままアースホールの絶壁の彼方——黒い雲が渦巻く底なしの暗黒へと急降下を開始したのだ。
「しまっ——!」
空中で足場を失った本藤の剣先は、空を斬った。
目の前で、琥珀のポニーテールが浮遊感に揺れ、彼女の悲痛な悲鳴がどんどん遠ざかっていく。
『助けてぇ! 本藤さ——』
黒い雲の渦が、一瞬で琥珀の姿と声を呑み込んだ。
「クソがぁぁぁぁぁっ!!」
着地した本藤は、そのままアースホールの断崖絶壁に向かって走り出した。自らも穴の中へ飛び込み、彼女を追うつもりだった。どれほど絶望的な深度であろうと、S級の意地と身体能力で琥珀を引っ張り上げる——その一心で。
「やめて、本藤さん!!」
がっしりと本藤の身体を抑え込んだのは鹿沼だった。S級同士の力が衝突し、足元の岩盤が裂ける。もう一人のA級ハンターも必死で本藤の腰に抱きついた。
「放せ鹿沼! 琥珀が落ちたんだぞ! 今追わなきゃ死んじまう!」
顔を真っ赤にし、怒号を上げる本藤。
だが、彼を制圧する鹿沼の瞳は恐ろしいほどに冷たく、そして激しく揺れていた。
「正気を保ちなさい! あそこはアースホールよ!? 歴代のS級たちが誰一人として生きて戻れなかった『冥府の穴』なの! 今飛び込んだら、あなたまで無駄死にするだけ!」
「仲間を見捨てろって言うのか!? 俺はS級だぞ!!」
「S級だろうが何だろうが、人間なの! 飛び降りたら二度と戻れない! それは救出じゃない、ただの自殺よ!!」
鹿沼の叫びに、本藤の身体からふっと力が抜けた。
黒い雲の渦は、何事もなかったかのように静かに旋回を続けている。音もなく、光もなく、ただ底知れぬ圧倒的な『無』がそこにあった。
人間の力など世界の法則の前にはあまりにも無力だった。
「……くそ……くそおぉぉぉぁぁぁッ!!」
崖の縁に膝をつき、本藤は激しい悔恨とともに咆哮した。爪が割れ、血が滲むほど固く拳を握りしめるが、吹きすさぶ風はその声を虚しく掻き消すだけだった。
飛竜の生態調査という安易なミッションは最悪の形で潰えた。
明るく将来を望まれていた一人の若いA級ハンターが、人類未踏の絶対死域へと呑み込まれたのだ。
生還率ゼロ。
世界で最も危険な『ゲート』の底へと消えた彼女の生存を信じる者は、この場に誰一人としていなかった。
太平洋の絶海にぽっかりと開いた漆黒の穴は、ただ静かに次の犠牲者を待つかのように蠢いていた。




