二十年前の記憶
いよいよ、琥珀がアースホールからの脱出を試みる時がやってきた。
黒雲の境目までは、俺が帯同することにした。上空へ向かうにつれて強大で狂暴なドラゴンたちが蠢くエリアに入る。いくらシエルと心を通わせたとはいえ、琥珀一人では雲に辿り着く前に空中分解させられるのが目に見えていたからだ。
「出発の前に……洞窟に転がっていた道具で、持っていきたいものがあれば持っていけ」
俺がそう告げると、琥珀は少し目を見開いた。
「えっ……あの国宝級の神器とかも……?」
「あの二本は解体道具だからダメだ。あれがないと肉が捌けん」
「やっぱり包丁扱いだった…」
琥珀は呆れたようにツッコミを入れたが、やがて視線を落とし、真剣な顔で洞窟の奥を見つめた。数分ほど悩んだ末、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「……ううん、やっぱり何も持っていかない」
「いいのか?」
「あそこに置いてあるもの、どれも凄すぎる宝物ばかりだけど……今の私が持っていったら、アイテムの力に頼るだけのハンターになっちゃう気がするの。私は、いつか自分の力であれだけの装備に見合うS級ハンターになってみせる。だから……今はいいや」
照れくさそうに笑う琥珀を見て、俺は密かに見直した。
ただうるさく騒ぐだけの女かと思っていたが、意外と芯のある奴だ。
「そうか。好きにしろ」
俺たちは外へ出ると、琥珀はシエルを、俺は指笛で黒龍を呼び寄せた。
巨躯に跨がり、二頭の飛竜は同時に地表を蹴った。一気に風を切って上空へと駆け上がっていく。
高度が上がるにつれて瘴気は濃くなり、周囲には大型のドラゴンたちが不気味に旋回し始めていた。数頭の狂暴な飛竜が、新参者の琥珀とシエルを獲物と定めて襲いかかろうと接近してくる。
「ひっ……!」
琥珀が身をすくませた瞬間、俺の跨がる黒龍が爆音のような咆哮を放った。
グオォォォォォ!!
空気を震わせる絶対的な上位者の威圧に、襲いかかろうとしていたドラゴンたちは悲鳴のような音を上げて散り散りに逃げ去っていく。
「ふぅ、すごい! 仁さん、ありがとう」
青ざめた顔で胸を撫で下ろしながら、琥珀が感謝を口にする。俺は返事もせず、ただただ上空を見つめていた。
やがて、黒く渦巻く不気味な雲の層が目の前に迫ってきた。
その時だ。俺の乗る黒龍の速度が、徐々に落ち始めた。
翼を力強く羽ばたかせているにもかかわらず、まるで目に見えない巨大な壁にぶち当たったかのように、不自然に一定の高度でピタリと動きが止まる。何度試しても、これ以上一インチたりとも上へ進むことができない。
一方、琥珀とシエルは何の抵抗もなく、そのまま上昇を続けていた。
「え? 仁さん!?」
異変に気づいた琥珀が振り向く。俺たちの距離が、少しずつ、だが確実に開いていく。
「……やはり、俺はここまでだ」
見えない力に押し戻されながら、俺は淡々と告げた。
琥珀の瞳に、一瞬で大粒の涙が溢れ出した。彼女は泣き出しそうな、今にも崩れ落ちそうな表情で、離れていく俺に向かって必死に叫んだ。
「仁さん! 私を助けてくれて……ここまで連れてきてくれて、本当に……本当にありがとうございました! 私、絶対忘れませんから!!」
何度も、何度も感謝の言葉を叫ぶ声が、風の音に混ざって遠ざかっていく。
俺は無言のまま、ただ右手を静かに高く掲げた。
それを見た琥珀は最後に見せた眩しいほどの笑顔とともに、黒雲の奥へと姿を消していった。
「……帰るぞ」
黒龍の首を軽く叩き、旋回させて地上へと戻ろうとした——その時。
突如として、頭を割られるような猛烈な痛みが脳内を走った。
「ぐっ」
俺は思わず黒龍の上で頭を押さえ、深く身をかがめる。今となっては痛みなど感じないはずのこの俺が、恐怖すら覚えるほどの激痛。
その脳裏に、二十年ぶりに『あの声』が直接響き渡る。
脳の奥底に封印されていた、過去の記憶が一気に溢れ出す。
ここへ落ちてきた時のこと。あいつが俺に言い渡した言葉。すべてが鮮明に蘇っていく。
『二十年後に機会を与える。このまま、この底で罰を受け続けるか。それとも、外界へ出て、己の罪に対する贖罪に励むか……選択は自由だ。』
あいつの淡々とした、だが絶対的な声が響く。
『お前のこれからの行動いかんによって、その身を縛る枷は、良くも悪くも変化するであろう——』
痛みが引き、俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。
手のひらを見つめる。何の変化もない、傷一つない手。
だが、琥珀が去り、過去の記憶と選択肢が提示された今、俺の周囲の空気は確実に変わり始めていた。
「贖罪、か……」
俺は黒雲を見上げることもなく、静かに目を細め、漆黒の闇が広がるアースホールの底へと黒龍を降らせていった。




