飛行訓練
俺が倒れた琥珀に歩み寄ると、彼女を翼で包み込んでいたワイバーンが察知して頭を上げた。威嚇するように低い唸り声を上げ、牙を剥き出しにして牽制してくる。
だが、俺がそのまま無表情で一歩踏み出し、諭すように見つめ返すと、ワイバーンは喉を鳴らして身をすくめた。
「行け…」
短く告げると、ワイバーンは後ずさりし、大きな翼を広げて空へと跳び立ち、旋回しながら去っていった。
俺は軽く息を吐くと、地面に転がった琥珀の身柄を抱え上げる。
「まったく……世話の焼ける奴だ」
米俵のように肩に担ぎ直し、俺は再び足早にねぐらである洞窟へと戻った。
◇
どれほどの時間が過ぎただろうか。
洞窟の床で横たわっていた琥珀が「ん……」と小さな声を漏らして目を覚ました。意識が戻り、ゆっくりと身を起こして周囲を見回す。
俺は入り口近くで木刀を手入れしながら、淡々と事実だけを伝えることにした。
「目が覚めたか。丸一日ほど眠っていたぞ」
「あ……仁さん……! 私、あのあと……ワイバーンは?」
「逃げた。だが、おそらく心は開いただろう。お前の実力と命懸けの治癒は覚えているはずだ」
琥珀はハッとした顔をして、己の手のひらを見つめる。
「外に出て呼んでみたらどうだ」
「えっ……来てくれるかな?」
「試せば分かる。俺は指笛を使ったが、呼ぶ方法は何でもいい。一度主と認めて従った飛竜は、基本的に主の気配が届くそばに控えているものだ」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、琥珀は弾かれたように立ち上がり、駆け足で洞窟の外へと向かった。俺も木刀を置いて、その後に続く。
崖の淵に立った琥珀は深呼吸をして胸を膨らませると、両手を口の両側に当てて、上空の黒雲に向かって思い切り叫んだ。
「シエルーーーーーッ!!」
透き通った声が、アースホールの谷間に大きく響き渡った。
俺は訝しげに眉をひそめる。
「なんだそれは…」
「名前! あの子に名前を付けたの!」
琥珀は照れくさそうに、しかし誇らしげに振り返った。
「フランス語で『空』って意味なんだよ。昔、実家で飼ってた犬にも付けてた名前なの。あのワイバーン、綺麗なグレーの鱗をしてるでしょ? なんだか空の色みたいだし、これから目指す場所でもあるから」
「そうか」
俺が呆れ交じりに呟いた、その時。
上空を覆う不気味な黒雲を切り裂き、一匹のグレーのワイバーンが一直線に下降してきた。勢いよく地表に着地すると、琥珀に向かって「グルル……」と喉を甘く鳴らし、大きな頭を擦り寄せてきたのだ。
「シエル! 来てくれたんだね! 治ってよかった……本当に来てくれた……!」
琥珀は破顔し、愛おしそうにワイバーンの鼻先に抱きついた。ワイバーンも嫌がる風もなく、彼女の体温を確かめるように静かに翼を寄せる。
俺はその光景を静かに見つめ、腕を組んだ。
「これで準備は整ったな。あとは飛行訓練だけだ」
琥珀はワイバーンの首元を撫でながら、不思議そうにこちらを振り返った。
「飛行訓練って……仁さんはどうやって飛竜の動かし方を覚えたの? 何か決まった操縦ルールとかあるの?」
「そんなものはない。元より頭の良い生物だ。人間のジェスチャーや意思は十分に伝わる」
俺は自分の首元を軽く叩くジェスチャーをしてみせた。
「初めは、乗ったら首を軽く叩いてから行きたい方向を指で指し示せばいい。それだけで意思を汲み取って旋回する。……あとは、振られて落ちないようにだけ気をつけろ。数百メートル上空から落ちたら死ぬんだろ?」
「そりゃそんな上から落ちたら死ぬけど……きっ、気をつける」
琥珀は唾を飲み込み、引き締まった表情でシエルの背へと跨がった。
◇
最初は散々なものだった。
「きゃああああっ!? ちょっとシエル、速い速い! ゆ、揺れるー!?」
飛び立った瞬間の加速と風圧に耐えきれず、琥珀はシエルの首にしがみついて悲鳴を上げていた。旋回しようとしては指示が上手く伝わらず、バランスを崩して危うく振り落とされそうになることもしばしばだった。
「力を抜け。お前が怯えれば竜にも伝わる」
下から冷ややかに声をかけ、俺は地上でその様子を見守った。
だが、さすがはA級ハンターというべきか、あるいは土壇場の生命力か。
琥珀は失敗を重ねながらも、持ち前の運動神経と高度な魔力制御で少しずつシエルとの呼吸を合わせていった。体重移動のコツを掴み、指差しと合図で自在に旋回・加減速を命令できるようになっていく。
一日ほどみっちりと訓練を繰り返すうちに、琥珀の操縦はすっかり様になっていた。
アースホール特有の薄暗がりが差し込む頃には、琥珀はシエルの背の上で優雅に風を切り、洞窟の周囲を自在に飛び回れるようになっていた。
「仁さん! 見て! ちゃんと飛べてるよ!」
上空から嬉しそうに手を振る琥珀。
俺はその姿を静かに見上げ、ふっと小さく鼻で笑った。
「これなら、あの黒雲に挑む資格くらいはあるか」
晩飯と間違えて助けた外界からの訪問者が、いよいよこの地獄を去る時が近づいていた。




