第5話:『王国の買収(TOB)を開始します ――元婚約者はただの不良債権です』
「……久しぶりだね、クロエ。君が来てくれて、本当に救われた思いだよ」
国境沿いの、かつては豪華だったはずの迎賓館。
そこに現れた王太子ジュリアンは、ひどく窶れていた。自慢だった金髪は艶を失い、目の下には深い隈がある。
彼は私を見て、かつての「婚約者」に向ける甘い、しかしどこか卑屈な笑みを浮かべた。
対する私は、椅子に座ったまま、懐中時計の蓋を開く。
「三分です、殿下。挨拶に三分もかける余裕が、今の貴方の国にあるのですか?」
「なっ……。相変わらずだな。……いや、今はそんなことはいい。手紙にも書いた通り、我が国は今、深刻な『魔力不足』と資金難に直面している。君なら……君なら何とかできると思って」
ジュリアンが私の手を取ろうと身を乗り出す。
私はその手を、汚物でも避けるように書類鞄で遮った。
「勘違いしないでいただきたい。私は貴方を『救い』に来たのではありません。帝国財務官として、債権の最終的な『回収』に来たのです」
「債権……? 何を言っている。私たちは、その……かつては愛し合った仲じゃないか」
愛。
その単語を聞いた瞬間、私の脳内の計算回路が、強烈な「拒絶」を弾き出した。
「【愛】という非定形アセットについて、私の帳簿には計上されていません。もし存在したとしても、貴方が私を追放した瞬間に全額『特別損失』として処理済みです。……さて、殿下。思い出話はコストの無駄ですので、本題に入りましょう」
私は、鞄から真っ赤なインクで『最終通告』とスタンプされた書類を突きつけた。
「王国が帝国から借り入れている緊急支援金の返済期限、昨日で切れていますね。さらに、私が引き揚げた個人資産の穴を埋めるために貴方が発行した『王室債券』。市場での価値は現在、紙屑以下です。……端的に申し上げましょう。貴方の国は、現在『デフォルト(債務不履行)』の状態にあります」
「そ、そんなはずはない! 教会が……聖女セラフィナが祈れば、魔力は戻り、経済も――」
「祈りでパンが焼けるなら、この世に飢えは存在しません。セラフィナ様の『祈り』にかかるコスト――魔石の消費、儀式の設営費――それらはすべて、今や王国の死を早めるだけの『不要な贅沢品』です」
ジュリアンが絶句する。
その時、迎賓館の重厚な扉が開き、アラリックが静かに入ってきた。
彼は私の隣に立ち、ジュリアンを「査定」するように一瞥する。
「……それが、かつてこの女を捨てた男か。評価に値しない。市場価値はゼロ、いや……負債そのものだな」
「バ、バレンシア皇帝……! なぜ君がここに!」
「俺は、俺の『資産』の仕事ぶりを見に来ただけだ」
アラリックは私の肩に手を置き、不敵に笑った。
「クロエ。こいつに『契約書』を提示してやれ。帝国がこのゴミ山を買い取ってやる条件をな」
私は頷き、最後の一枚を提示した。
「王国を救済する条件は三つです。
一、王室の全権力を永久に放棄し、帝国の『特別管理領』となること。
二、国内の全魔力インフラ、および『聖域』の管理権を帝国に譲渡すること。
三、そして……」
私はジュリアンの目を真っ直ぐに見据えた。
「――殿下。貴方自身が、かつての私の執務室に籠もり、今後二十年間、不眠不休で私の指示に従い『事務作業』に従事すること。……貴方が『無能な令嬢』と蔑んだあの仕事が、どれほど重いものだったか。その身をもって償っていただきます」
「そ……そんな……! 私は王太子だぞ! 事務など、卑しい者のすることだろう!」
「その『卑しい仕事』がなければ、貴方は王冠を被ることも、食事を摂ることもできないのです。……殿下。これは交渉ではありません。一方的な『買収(TOB)』の宣言です」
私は立ち上がり、母の形見である『錆びた印章』を机に叩きつけた。
剥がれた金色の輝きが、ジュリアンの顔を青白く照らす。
彼の瞳には、ようやく「絶望」という名の正確な数字が刻まれ始めた。
「……さて。契約を締結しますか? それとも、明日、国民が飢えて暴徒化するのを待ちますか? どちらを選ばれても、私の帳簿は『利益』を計上するだけですが」
復讐ではない。
これはただの、正当な権利行使だ。
私は凍りつくような沈黙の中で、ペンを差し出した。
クロエ、元婚約者を「不良債権」として完全解体!
「愛」を「特別損失」として処理する潔さは、まさに実務系令嬢の鑑ですね。
かつて自分を追放した男に、今度は「事務作業の地獄」を突きつけるという、最高に皮肉な「ざまぁ」が幕を開けました。
しかし、王国の裏で「魔力枯渇」を引き起こしている本当の黒幕は、まだ姿を見せていません。
クロエの印章が示す「世界の負債」の正体とは?
次回、第6話。
『聖域の帳簿は血で汚れている ――魔力枯渇の真犯人を監査せよ』
クロエの監査が、世界の理そのものに食い込みます!
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