翡翠さん、椿姫の世界へ
いよいよ2026年、最初のエピソードです。ご堪能ください。
「おい、青水よ。何かネタがひらめいたか?」
「うん。おまえさ、ずいぶん前にマノン・レスコーに介入したことを覚えているか?」
「ああ、翡翠が娼館のプロモーターに...」
「おい!言い方!」
「アメリカのチャールストンという女日照りの町にパリジェンヌではなくてもパリジェンヌという触れ込みの女をたくさん連れてきて。」
「だから、悪意があるな、おまえの言い方。」
「ともかく、原作ではニューオリンズの砂漠で死ぬマノンが翡翠に助けられて、ニューオリンズで紳士のムフフなお店を開いて大成功という結末だった。」
「そう。その“マノン・レスコー”が愛読書だった女の物語があるので、そこに介入したら面白いかなと。」
「あ、わかったぞ。カメリアの女、つまり“椿姫”だな。」
「その通り。まあ、日本では女が主人公の物語をなんでも“ナンタラ姫”と訳してしまう伝統があるので、ちょっともやるけどな。この物語の主人公は、ちょっと日本人にはわかりにくいクルティザンヌという存在だ。」
「カタカナで言えば無罪じゃないんだぞ、青水よ。それ、娼婦じゃないか。」
「まあそう訳されちゃってるけどな。だがそうなると日本の太夫や花魁も娼婦だぞ。」
「ふむ、要するに下々の者には手が出せないとても高級な高嶺の花だと。」
「うん。しかも札束を積み上げれば相手してもらえるという世界でもない。そして花魁とクルティザンヌには大きな違いがある。前者は置屋に属する被雇用者、いやもっとブラックな契約関係だが、クルティザンヌ―― fille entretenue保持された女ともいう――は個人営業、しかも営業と言っても富裕層からの援助を持ちかけられて愛妾になる。娼婦と訳すのはかなり間違っている。」
「相手を選べる強い立場。」
「まあ、そうだ。しかしそこまで単純に強い立場だったのか、そこは少し考えてみないといけない。」
「ということで今回は“カメリア娘”か。」
「だから、三流アイドルみたいな名前で呼ぶな。」
「私も花魁かクルティザンヌをやってみたくなった。」
「やめろ。女神がそんなことをすると世界の軸が歪む。」
「おい、大変だ、青水!」
「どうした、女神、そんなに慌てて。」
「いつもの私のように、おまえの忠告など無視してコスプレしてやろうと参考になる画像を漁っていたら....」
「いたら?」
「花魁のような衣装を着た歌手の“椿姫、咲いた”という謎タイトルのレコードジャケットが見つかった。」
「何と!ここでの会話が過去にもう交わされていて、そのアイディアを元に楽曲まで作られていたとは!さっそく聴いてみよう。………… うわ、歌がめっちゃ上手い。単なるド演歌じゃないよ、これ。カラオケで素人のおばさんがチャレンジして途中でリセットするやつだ。」
「そうなのか。音楽の女神でもある私も聞き捨てならないな。」
「真似すんなよ。」
「ふっふっふ、女神の力を侮るなよ。大気中からコスプレの素材を一瞬にして生成し身にまとうくらい朝飯前だ。」
「この歌、懐メロ演歌じゃないからな。2年前、つまり令和の楽曲だ。俺たちより先に花魁と椿姫の関係にたどり着いたのは、やはりレコード会社だけあってヴェルディのオペラ“トラヴィアータ”に目を付けたということか。」
「おい、スルーするんじゃないよ!このコスプレ、めちゃ重いんだぞ。」
「おまえの力は無限大だろ。ゴジラも投げ飛ばせるんだから、かわいらしく“重い”なんて言うんじゃないよ。」
「そのヴェルディのオペラ、知らんのだが。」
「この小説を元にリブレットを作ってオペラにした作品。たぶん小説よりも有名だ。“トラヴィアータ”とは“道を踏み外した女”という意味らしい。」
「踏み外した道でも踏み固めればそれが本道になる。」
「変な格言を作ってんじゃないよ!」
1847年、二月革命の前年、翡翠はモンマルトルの墓地に現れた。彼女の先にはまだ新しい墓碑に花を手向けるひとりの若い男がいた。
「アレクサンドル・デュマさんですね?」
「そうだが、君は?」
「初めまして。私はジャディ・ミカナンジュと申します。隠しても意味がないので白状しますが、時空を超えて歴史と物語を調律する者です。」
「調律するだと?」
「はい。例えばマノン・レスコーさん。あなたが知る物語で彼女はルイジアナの砂漠で非業の死を遂げますが、私は彼女を救い出しました。ルイジアナに送られる前に接触して、東海岸のチャールストンまで同行し、そこにお店を開きました。事業は大成功し、彼女は幸福な人生を送りました。」
「歴史を改変したのか?」
「別の時間線を作っただけです。あなたの知るマノン・レスコーの物語が消えたわけではありません。」
「そんな力を持つ君がぼくに声をかけたのは...」
「はい、あなたが書こうとしている物語にお邪魔することを告げるためです。」
「ぼくが書こうとしているマリの物語に?」
「そうです。」
「まだ書いていない物語を書き換えるというのか?」
「私が介入したからといって、あなたの物語には何の変更も加わりません。私たちの世界の物語が変わるだけですから、どうかご心配なきよう。」
「なるほど、了解した。しかし、なぜ私の物語を調律しようと思ったのだ?」
「それを言ってしまうとあなたの物語が歪んでしまう可能性があるので、言うのは控えましょう。ただ....」
「ただ?」
「いえ、何も言わずにここでおいとまします。アデュー、ムッシュ!」
翡翠はその場から霧のように消えた。
その場を離れた翡翠は、異なった時間線のほぼ同時刻のパリに来ていた。アンタン通り9番地。豪華なアパルトマンの前にはたくさんの人々が集まっている。ここで、亡くなった住人の持ち物が競売にかけられるのである。さっき会ったばかりのデュマの姿もあった。だが彼は翡翠を知らない。
競売が始まった。貴族の夫人、貴族の愛妾たち、本来ならば一堂に会すはずはないのであるが、贅沢な遺品という共通の欲望の対象に導かれて集まっている。中には夫とパトロンという形で同じ男を共有している女もいるかも知れない。
「次の一点は書籍です。天金に傷はありません。装丁は美麗。12フランから開始します。」
「15!」
「20!」
「30!」
「50!」
「70!」
少し間が開いた。オークショニアがハンマーに手をかけた瞬間、「100!」という声が上がった。さっき会ったばかりのデュマだった。デュマが落札したのは故人が所有していた『マノン・レスコー』の豪華本だった。なるほど、この小説は、これからの物語にとって呪いとなるのかもしれない。
翡翠は少し前の1844年に転移した。パリの劇場ヴァリエテ座である。劇場に入って桟敷席を見ると、さっき見たデュマの姿が半透明になり、そこに別の人物が描き出された。これが三人称小説のように描かれる物語の語り手アルマンである。アルマンは友人の紹介で、美しいマリグリットとはじめて言葉を交わしているようだ。
クルティザンヌ、あるいは愛妾。翡翠は知識としてその存在は知ってはいたが、実物をいるのははじめてだった。見た目は一点の非もない貴族の令嬢。そしてそのたたずまいを支えているのは、カネを持っている男たちの欲望。その欲望は、彼女を自分のものにしたいという単純なものではないのだろう。いや、彼らはそのような単純な欲望として理解しているだろうが、競争相手を出し抜いて自分が手に入れる、つまり他者の欲望を欲望する、それが彼らを動かす原動力だ。そして、その欲望を受け止める女は、それに気付かないわけがない。高く売りつけるためには高級品で飾り立てて売値を上げなければならない。蕩尽の無駄な積み重ね。ぐらついて倒れるまで積み上げる虚栄の石。翡翠は一瞬にしてその病理を看取した。
数日後にデュマの家をアルモンという男が訪問した。今にも死にそうなほど消耗し、それでもデュマにあの競売で買い取った書物のことを聞き出そうとしている。
「その本を見せてください。」
「かまいませんよ。これです。」
「ああ、これは...いくらで落札なさったのです?」
「100フランです。」
「ならばその金額で買い取らせてください。いや、もっと上乗せしても良い。」
「お待ちください。すでに100フランでも酔狂が過ぎたと思っているのです。ただの本ですよ。」
「これは....これは私が彼女に贈ったものなのです。」
「マルグリットさんと並々ならない関係をお持ちのようだ。良いでしょう。どうかその本をお持ちください。差し上げます。」
「え、それは申し訳ない。」
「ならこういたしましょう。マルグリットさんとの経緯、聴かせてはいただけませんか。私はこう見えても物書きなので、話を聴くのは大好きなのです。」
「わかりました。上手な言葉が見つかるかどうかわかりませんがお話ししましょう。まずこの手紙を読んでください。」
デュマは渡された手紙を読んだ。それはマルグリットが死の床で彼に宛てて書いた手紙だった。自分がもうすぐ死ぬこと。家には債権者の見張りが常駐していること。死ぬ前に会えたらどんなにうれしいか、でもそれはもう許されないだろう。友人のジュリーに、アルマンと別れてからの日々の思いを綴った日記を手渡したこと。手紙の文字に力はなく、最後のほうは乱れていた。
デュマは手紙を返し、アルマンの物語を書き留めるために紙を用意した。
「備忘録のようなものです。お気になさらず。」
「はい...私がマルグリットを初めて見たのは1842年の秋でした。サン・マルタン座の桟敷席に彼女が座っていたのです。あまりにも美しく、そして自分には縁のない社交界の真ん中で君臨する女性。どこかのご令嬢?いや、それにしては彼女を取り囲む紳士たちに何の気後れもなく接している。彼女が何者なのかも知らぬまま、ぼくはその日から彼女の動向を追い続ける人間になってしまいました。劇場のスケジュールを把握し、彼女に群がる紳士たちの素性を調べ....、ぼくはそれによって彼女がクルティザンヌであることを知ったのです。自分には手の届かない世界の住人であることを。」
式神を放ってこの様子を見ていた翡翠は、1842年に転移した。オペラ座の入り口にアルマンがいる。マルグリットへの遠隔つきまといを開始するようだ。少し邪魔してやろう。
「パルドン、ムッシュー。私、このお芝居を観たいのですが、女がひとりで入れる雰囲気ではありません。そこで同伴してくださる殿方を探していっしょに入ろうと思い、天井桟敷のチケットを2枚買いました。一緒に入っていただけませんか?」
「はあ、かまいませんが...あなたも物好きな方ですね。今日の出し物は少し物騒ですよ。ユーゴーの“エルナニ”です。平土間ではきっと喧嘩が始まるでしょう。」
「それを含めての楽しみなんですよ、ふふふ。」
芝居が始まった。アルマンも翡翠もオペラグラスを取り出して舞台を凝視する。台詞はかろうじてきこえる程度だ。しばらくしてオペラグラスから目を離し、アルマンの様子を見た。オペラグラスは明らかに桟敷席に向けられており、上演中の舞台がその射程に捉えられているのではなかった。翡翠はオペラグラスを目に当てて、アルマンが凝視するものを確認した。マルグリットは大柄な老人と並んで座って何やら語り合っている。
「ムッシュー、あなたのオペラグラスは舞台へではなく桟敷席に向けられていますね?どなたか気になる人でも?あなた、探偵か何かですか?」
「いえ、たまたまです。富裕層はぼくら貧乏学生と違ってどんな生活をしているのだろうとふと気になって。」
「そうですか。美しいお嬢さんがいたので、彼女が目当てだと思ってしまいました。」
翡翠は曖昧な笑顔を浮かべ、その深い琥珀色の瞳でアルマンの内面を見通すように彼の目を見た。術を使うまでもなく、彼の本心は明らかだった。並々ならぬ執着。これをどうするか。
19世紀半ばのパリ。金持ちと金持ちに養われる女たちの生活がエグいほど豪華です。王政復古バブルなんですかね。




