翡翠さんは正月休み、なので正月特番”試練ちゃんタイムトラベル”2
お正月もお終いですね。なので正月特番も今回で終わりです。
ロードス島にやって来た女神はさっそく古今の文献を集めた図書館にやって来た。羊皮紙の独特な臭いが充満した空間である。それは羊から剥ぎ取られた皮が腐敗という名の熟成を経て発する重厚な香りだった。
「くっさ!人文知はこんな臭い場所に蓄積されたものなのね。だから学者は胡散臭いのか。どれ、胡散臭い奴らを探してみましょう。」
女神がしばらく館内を物色していると学者らしい男が声をかけてきた。
「おや、女性の訪問者とは珍しい。」
「こんにちは。私、シレンと申します。セイレーンではないのでそこのところよろしく。」
「私はポセイドニオス、主に天文学や地理学の研究をしている者です。」
「地理学といえば、レヴァントとアナトリアの宗教分布、とくに教団やセクトについてもお詳しいので?」
「私はどちらかというと自然地理学なので宗教関係にはさほど詳しくありません。このロードス島の統治を任されている関係で、政治的情勢へのコミットには目を光らせてはいますが。」
「あら、この島を統治なさってる偉い方なのね。」
「ただの役職なので偉さとは関係ありませんが。」
「じゃあお願い。この建物の一角に私の研究スペースをわけてください。ちょっと調べたいことがあるの。」
「かまいませんよ。場所は余っているし、訪ねてくる人は少ないですから。」
「よかった。はい、これ。私からの袖の下よ。梅干しという健康食品と梅酒よ。梅というこの地域では知られていない植物の果実が原料なの。」
「おお、このような珍しきものを。」
「ついでと言ったらなんですけれど、誰かこの界隈の宗教に詳しい学者さんを知らないかしら?」
「それならアンドロニコスとテオドロスが適任でしょう。アンドロニコスはアリストテレスの編纂者で写本の管理者です。隠された記録について尋ねるなら彼が適任でしょう。テオドロスは修辞学者ですが、ガリラヤ地方の出自なので、レヴァントからアナトリアにかけての地勢に詳しい。シレンさんの準備が整ったころ、会いに行かせましょう。」
「ありがとうございます。」
「知識を探求する者は男女問わず我々学者の仲間です。助け合うのは当然です。」
ポセイドニオスは右手を挙げて爽やかに立ち去った。
「さて、割り当てられたあの一角に試練ちゃんスペースを作って、犯人捜査をスタートさせないと。このまま迷宮入りにさせてたまるものですか。」
女神はホワイトボードを設置し、そこに貼り付ける粘着メモと水性ペンを用意した。小型カメラとBluetoothで接続した小型プリンターまで持ち込んだ。
「準備は良し。まずは聞き込みからね。」
準備が整った女神の元に2人の学者がやって来た。アンドロニコスとテオドロスである。
「ここへ来てあなたの助力になるようにポセイドニオスから言いつかったのだが。」
「お待ちしてました。まずはお礼の品をお受け取りください。異国の植物を原料とした健康食品とお酒です。梅干しと梅酒といいます。梅干しはパンにつけて食べると唾液がたくさん出て食が進みますよ。」
「珍しい品物をありがとう。で、どんなことをお調べになっているのでしょう?」
「レヴァントからアナトリアにかけての宗教。オリュンポス信仰がまだ根深いのか、一神教のユダヤ教が台頭しているのか、そしてどちらにも属さない宗教にはどのようなものがあるのか。」
「ではまず、私から概略を述べさせていただきましょう。」
アンドロニコスが口を開いた。
「レヴァントには数多くのユダヤ教徒がおります。彼らは唯一神を信仰する珍しい信者で、そのためその教義も複雑でわかりにくいのですが、厳格な律法に縛られた暮らしをしているといいます。ただし、その存在は一枚岩ではなく、たくさんの分派によって教義も混乱しているようです。かたやアナトリアは、エーゲ海に通じているのでギリシャの神々が君臨しています。ただし、ローマ帝国が版図を拡大して支配力を強めているので、内容がローマ化しています。ローマ軍の兵士たちは、太陽神を信仰する密儀に参加する者も多いと聞いております。」
「では、私からも。私はしがない修辞学者なので、宗教の細かな教義にまで立ち入って説明することはできません。私がお話しできるのは、出身地のレヴァントの状況です。レヴァントには確かにユダヤ教が台頭しては来ていますが、多くの民草は生活に直結した自然現象に語りかけるべき神性を求めるようです。そういう意味で、絶対神の存在を薄々感じながらもその下に展開する神々の組織という折衷案を受け入れております。これを我々はシンクレティズム(習合主義)と呼称しています。人々が最も関心があるのは、収穫の出来不出来です。命にかかわりますから。そしてもうひとつは、死後の幸福。死後の世界は誰もわからないので、宗教にとって最も大きな吸引力となります。このふたつと密接に結びついているのがエレウシスの秘儀です。」
「ほう、それはどのようなものなの?」
「エレウシスはアテナの近くにある小都市です。そこにある神殿の遺跡が彼らの聖地で、デメテルとペルセポネーを主たる神として祀る密儀宗教です。祭儀は毎年秋に催され、許された者だけが参加できます。」
「なるほど、農耕と死と再生か。ちょっと匂いますね。デメテルとペルセポネー以外にはどのような神もしくは神に近い存在がその密儀に携わっているの?」
「イアッコス、これはなんとも情けない半神で、エレウシスの行列で叫ばれる“イアッコス!”という歓声が神格化したものです。トリプトレモス、これは少しかっこいい。竜の戦車に乗って農耕の技術を広める英雄です。そして、娘を冥界に奪われたデメテルを卑猥な冗談で慰めた老婆バウボ。密儀の参加者たちの楽しみのひとつだったと言われています。」
「ふむ、参考になったわ。ありがとう。また何か質問があったらよろしくね。」
「なんとなくあぶり出されてきた感じね。イエスが後世に伝えた奇跡の数々が謎の“パパ”由来だとすると、パンを無限に出して飢えた人々に渡したのは、農業神由来のものと考えられる。エレウシスの密儀、これは重要情報としてチェックしておきましょう。」
女神はホワイトボードに次々にメモを貼り付けた。
「この一派の誰がマリアを孕ませたのか?その動機は何か?ここを詰めて行きましょう。考えていても仕方がないわね。捜査は現場に赴かなければ始まらないわ。エレウシスへ行ってみよう。」
「ちょっと良いかしら?」
女神は竜の戦車に乗ったトリプトレモスを見つけて声をかけた。
「何でしょうか?」
「つかぬことを訊くけれど、あなた、人間の女に手を出したことはある?」
「私は英雄ですから人間です。童貞ではないのでもちろん経験はありますよ。」
「レヴァントのガリラヤの女は?」
「そんなへき地の女に手を出すほど落ちぶれてはいません。私は豊穣の技術を世界に伝える者。女に不自由はしていませんよ。この竜の戦車に乗ってウィンクするだけでファンが押し寄せてきますからね。なにせ、私に抱かれれば一生の豊作が約束されるのですから。」
「ああ、そうですか。そりゃ集まってくるでしょうよ。じゃあ、そんなモテモテくんから見て、同じ教団のなかでいまいち報われてない人、誰か知らない?」
「そりゃ、イアッコスでしょう。なにせかけ声から作られた存在だし。本人はディオニュソスの息子だとか喧伝してるけれど、みんなあまり信じてない。行進の中でかけ声をかけるだけの地味な、いや地味ではないか、派手だけど重要ではない役目を1年に1度だけ果たす、有名になれそうもない存在だよ。」
「ほう、それはまた良い話をありがとう。で、どこにいるの、そのヤッホー男は?」
「この遺跡のどこかにいるはずだよ。やつの唯一のアイデンティティのかけ声“イアッケー!”を叫び続ければ出てくるはず。」
「わかった。ありがとう。」
女神は遺跡の中を歩きながら“イアッケー!”と叫び続けた。
「おい、その叫びはおいらの専売特許だぞ。」
少年の姿をしたイアッコスが現れた。
「あら、あなたがイアッコスなの?」
「そうだけど、何か用か?」
「えーと、あなた女の子に何かオイタしたんじゃない?」
「えー?おいらまだ子どもだからそんなことするわけないよ。」
「嘘おっしゃい。子どもと言っても未成年というだけで、やることはしっかりやってるんでしょ?私は試練の女神だからわかるのよ。あくまでもしらを切るというなら...」
「言うなら?」
「オネショタのドM変態エロマンガの世界に転移させてあげるわ。」
「ちょっと何言ってるかわからないのだが。」
「だーかーらー、いつまでもガキのふりしてとぼけまくってると、性的にとんでもない目に遭わせるって言ってるの。私は人間じゃないからなんのためらいもないよ。」
「ヒッ!」
「とっとと白状しろ!」
「はい、数ヶ月前にガリラヤのマリアという女が寝ている間に種を仕込みました。その後、天使に擬態して本人と婚約者に受胎を告げました。」
「なぜそんなことをした?」
「ギリシャ起源の宗教に限界を感じたからです。レヴァントの一神教はこれから力を得てローマ帝国をも取り込むかも知れません。私は見ての通り、かけ声だけの惨めな神です。このまま歴史に埋もれて忘れ去られる。思い出されたとしても半笑いの道化役だ。私はこれでも神の一族に連なる者。自分ではディオニュソスの子だと思っています。その種をレヴァントの一神教に植え付ければ、世界宗教の礎を作れるのではないかと。」
「あ、そう。ごたくはもういらないわ。天使に擬態したということは、ギリシャの神々を裏切ってユダヤ教に付いたってこと?」
「いえ、単にその権威を借りただけです。だって唯一神だし。」
「唯一神ねえ。女神である身からすればそこも認めがたいんだけど。だったら私は何って話になるでしょ。だいたい名前がないじゃないの。ヤハウェ?それって“我は我なり”で、聞いたほうは“はあ、それで?”となるやつよね。まあいいわ。神学論争しに来たんじゃないの。私はね、探偵なの。犯人を見つけるのが仕事。で、あんたが犯人。罪を償ってもらうわよ。」
「どうすれば?」
「孕ませたんだから、ちゃんと認知して慰謝料と養育費を払いなさいよ。」
「認知って、どこに届け出れば良いんですか?」
「ああ、それもそうか。そもそもそんなことを明るみに出したらかえって面倒ね。じゃあ、それは良いから、払うものを払いなさい。曲がりなりにも農耕神の一派なんだから、わずかな耕作で有り余る収穫、これを実現すること。そうね、イエスが老人になるまで70年間。慰謝料はヨセフに、立派な大工道具と仕事場を作ってやること。いいわね。」
「はい。了解しました。」
「あと、できたらで良いんだけど、イエスを陰ながら見守ってあげて。もし磔になりそうになったら、はいこれ。」
「なんですか、これは?」
「ダミーバルーンよ。これを使ってイエスの身体と入れ替えて救出するのよ。父親なんだからそれくらいしてあげなさい。」
「わかりました。ダミーバルーンで必ずや救出し、安全な場所に匿うことを約束します。」
「よしよし、これで試練ちゃんのタイムトラベル正月スペシャルは大成功。みんなも良いお年を!」
イアッコスくん、最後は素直だったね。神学的に複雑なことについては責任を負えません。ラノベ・ライセンスというやつですよ、はっはっは。




