翡翠さんの知るところではない、冥界の男たちの悲惨
ギリシャ神話は固有名詞が多すぎて目がちらつきます。古典文献学者は、それだけで称賛に値します。
「おい、ダ女神!やってくれたな!」
「なんだ、ソラでの活動か?」
「そうだ。おまえ、ご丁寧に日本語版と英語版で、パリスの審判を台無しにしてくれたじゃないか。」
「ああ、あれか。あの黄金のリンゴを食べてみたかったの、テヘペロ♪」
「あのイベントを台無しにしたらトロイヤ戦争は起こらず、その結果オデュッセウスの冒険もなくなってしまうんだぞ。翡翠が現地で頑張っているのに。翡翠に謝れ!」
「いや、あれは別の時間線だから良いんだよ。それに、ちゃんと謝ってリンゴも増やして返したし。」
「その増やし方に問題があるんだよ。まるで食べたものを増やして出しているみたいじゃないか。」
「そうだよ。私のユニークスキル“体内摂取無限増殖”だ。」
「それ、生理的に受け付けないやつだから。体内摂取には消化という不可逆的で密室的なプロセスが必要なのに、おまえはそのブラックボックスを無効化して、摂取したものをそのまま増殖して排出する。いいか、排出だぞ。そこにはすでに穢れが、アブジェクションがある。あってはならない境界線の侵犯だ。」
「私、女神だから消化なんかしないよ。賞味するだけ。」
「人間の認識には境界線の内側に内臓が見えるんだよ。いいか、宴会で酒がなくなって、おまえが壺の中にチョロチョロかジョボジョボが知らんが酒を満たしたら、誰がそれを飲めるんだ?」
「トポロジカル変換で問題解決だよ。壺をテーブルの下に置いて増殖した酒を注いだら、もちろんみんな逃げ出すけど、テーブルの上で手をかざして、私の体内と酒の出現場所の間に不可視の通路を作って、まるで大気中から酒が降り注いでいるように演出すればノー・プロブレム!」
「う、確かに。」
「ちょっとそのワインよこせ。10倍に増やして返したるわ。」
「種明かしされたらもう無理だ!」
「世の中には知らないでいたほうが良かったこともたくさんあるんだね。」
「うむ、オデュッセウスも冥府でそのことを痛感することになる。」
母の亡霊が霧の中に消えたあと、オデュッセウスに供物の血をもらいに来たのは、神に弄ばれた4人の女たちであった。美しい川の神の姿に化けたポセイドンに欺されて手込めにされ、ゼウスの従者となる息子を2人産んだテュロ。そのゼウスに手込めにされて、やはり2人の男児を孕まされたアンティオペ。同じくゼウスに抱かれて勇猛無比のヘラクレスを産んだアルクメネ。そのヘラクレスの妻となったメガラ。神々の気まぐれが勇者たちをこの世に送り出した。奇しくも勇者の母として歴史に刻まれ、死してその栄光を誇っているようだが、オデュッセウスはどこかやりきれない思いを抱いた。
次に出会ったのは、ギリシャ悲劇で最も不幸な女、夫を実の息子オイディプスに殺され、その息子の妻となってしまったエピカステである。その罪に耐えられず、彼女は首を吊ったが、そのとき発した呪いがオイディプスに数々の苦難をもたらすことになった。エピカステと比べて印象が薄いのはクロリスである。美貌と多くの子宝に恵まれただけで、神々との交わりはない。
だがオデュッセウスが次に会ったレダは、白鳥に化けたゼウスに誘惑され、トロイア戦争の火種となったヘレナを産んだ。彼女との出会いはオデュッセウスにとって感慨深いものであった。
オデュッセウススはそのあとも次々と神々と交わった女たちの亡霊と出会った。神々の気まぐれがその腹に英雄や巨人を宿して女たちである。奇しくも彼はここで神話世界の血統のデータを収集することになってしまった。そこには人間の儚さと神々の理不尽な欲望が交差している。とくに理不尽と思えたのはアリアドネであった。彼女はミノス王の娘で、ミノタウロスの生け贄になるテーセウスに恋をした。無事に迷宮を脱出させることに成功したらアテネに連れ帰って妻にしてもらう約束をして、有名なアリアドネの糸で彼を出口に導いた。しかし、彼女はもうデュオニソスの女になる定めであったため、神の聖域を汚した存在としてアルテミスの矢によって射殺されてしまった。
オデュッセウスの話はまだまだ尽きることはなかったが、ここで彼は話を言ったん止め、このあとはどうしたものかアルキノオス王に伺いを立てた。早く帰国した気持ちは山々だが、援助のお礼にこれまでの波瀾万丈の冒険譚をお聞かせしたいとも。これは実に彼らしいずる賢い駆け引きで、あと1年滞在を引き延ばして面白い話をしてやるから、そのかわりお土産の財宝をたくさんくれよ、という。まるで、アニメシリーズが5話まで無料視聴できるけれど、それから先は有料会員だけです、というような。
アルキノオス王はサブスクボタンを躊躇うことなく押した。
オデュッセウスの話は、それまでの無料版では味わえない重々しい内容だった。冥界の女神ペルセポネーが女たちの亡霊を追い払ったあとで、そこに現れたのはかつての上官アガメムノンの亡霊であった。かつての尊厳の欠片も見えず、衰えて涙に沈むその姿はオデュッセウスの心を抉った。
「知略に富むオデュッセウスか。見ての通り、わしは奸計によって命を散らした。周りにいる部下たちも含めて一網打尽だった。憎むべき女である妻のクリュタイムネストレが夫の従兄弟で宿敵の息子でもあるアイギストスと密通していたのだ。わしは入浴中に網で絡め取られ斧で頭を割られて絶命した。意識薄れつつあるわしの傍らでカサンドラも刺し殺されて断末魔の声を上げた。」
「何と、アガメムノン様、勝利の将軍として凱旋したあなたを待っていたのがそんな卑劣な死であったとは!これはゼウスに発端を持つ穢れの連鎖の行き着く先だったのか。何と凄惨な血統の末路であることか。」
「クリュタイムネストレの裏切りは、貞淑な妻を含むすべての女の威厳を地に落とす行為だった。男たちはこう決意する。ゆめ女を信じるべからず、と。オデュッセウスおy、まさかあの聡明なペネロペーがおまえを裏切るとはとても思えないが、それでも油断は禁物だ。すべての秘密を明かしてはいけない。真実は半分だけ伝えるのだ。」
アガメムノンの怨念に満ちた影が去ると、冥界の空気はいっそう重苦しく淀んだ。アルキノオス王の宮殿では、焚き火の爆ぜる音だけが、サブスクリプションの「続き」を待つ期待感とともに響いている。
次にオデュッセウスの前に現れたのは、生者の頃の輝きを失い、影となったアキレウスであった。
「アキレウスよ、あなたは生前は神のように崇められ、死してはここで死者の王となった。あなたの栄光に陰りはない。」
オデュッセウスの慰めに、最強の英雄は弱々しく、しかし切実に答えた。
「オデュッセウスよ、死を美化してはならぬ。死んでここで王となるくらいなら、地上で貧しい農夫の雇われ人として、命を繋いでいたいものだ。それよりも、わが息子の戦いぶりを教えてくれ……」
オデュッセウスが息子ネオプトレモスの武勇を語ると、アキレウスの影は命の量を誇るかのように、満足げにアスフォデロスの花咲く野を去っていった。
次にオデュッセウスが見たのは、終わりのない罰に苦しむ「歴史的敗者」たちの姿であった。
タンタロスは、顎まで浸かった水の中にいた。しかし彼が喉の渇きを癒そうと身を屈めると、水は消失し、頭上の果実もまた風に煽られて彼の手を逃れる。そのすぐ側では、シシュポスが巨大な岩を山頂へと押し上げていた。山頂に手が届こうとするその瞬間、岩は物理法則に屈し、無慈悲に麓へと転がり落ちる。彼らにとって、永遠とは「1回」が無限に繰り返される地獄の円環であった。
そして最後、恐ろしい唸り声を上げ、弓を構えたままのヘラクレスの影が近づいてきた。 だが、それは真のヘラクレスではなかった。本物はオリンポスの神々の座にあり、不死の喜びを享受している。ここにいるのは、データだけが分離された「バグの残滓」に過ぎない。 「おまえもまた、私と同じように過酷な運命を引き受けているのだな……」 影はそう言い残すと、冥界の闇へと溶け込んでいった。
あまりの死者の数と、彼らが放つ怖気に、知略の男オデュッセウスもついに恐怖した。ペルセポネーがさらなる怪物を送り出す前に、彼は逃げるように船へと駆け戻った。
こうして、冥界の「プレミアム・コンテンツ」は幕を閉じた。アルキノオス王は深い溜息をつき、オデュッセウスに約束以上の財宝を積み上げるよう命じたのであった。
いやあ、なんか気分が落ち込む話の連続で、よくアルキノオス王も感動して贈り物を積み上げる気になりましたね。古代ギリシャ人の感性、恐るべし。




