翡翠さんは出てこないけど、豚が...豚が...
オデュッセウスたちは魔女の島に、魔女だけど神格を持つ魔女キルケの島へ
「青水よ、今回の翡翠、なんだか怖くね?」
「うむ、パルテノン神殿で霊力が変な風に増幅してしまったのかも知れん。」
「私もパルテノン神殿に行ってアテナと知恵比べしようかな。クイズ、いや謎かけ十本勝負。」
「やめい!どうせKで始まる某女芸人の真似をして攪乱するつもりだろうが。女神が女神を冒涜してどうする!」
「しかしキルケも味な真似をやりおるな。」
「豚か?」
「ああ、豚は実有益な家畜だ。ゴミのような餌を与えて太らせたっぷり上質な肉を収穫できる。」
「いやな言い方をする。」
「太った豚になるより痩せたソクラテスになれ、さすれば屠殺されることもなかろう。」
「おい、その格言、そもそも間違ってるからな。そしてその間違った格言の使い方も間違っている。」
「なんだ、間違いx間違いで無罪だ。良かったな。」
「くっそ、何だか納得してしまう自分が腹立たしい。良いか、女神よ。日本中で流布しているその格言、そもそもはジョン・スチュワート・ミルの言葉だとされている。実際は違うのだが。いや、違わない。されている。」
「おい、こんがらがってるぞ、大丈夫か?」
「んとだな、ミルはそんな単純なことは言っておらず、ここは正確を期すために原文を引用しよう。” It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied. And if the fool, or the pig, is of a different opinion, it is only because they only know their own side of the question.” 豚とソクラテスは比較されてないんだよ。ソクラテスと比較されているのは愚者、豚と比較されているのは人間。そして満足か不満かという属性が付いて、どっちが良いかという話に落とし込まれている。」
「豚とバカはどっちが良いんだ?」
「あー、くそ、面倒くさいな。どっちでも良い。好きなほうを取れ。」
「ソクラテスっていうのは、要するに賢者ってことか?」
「たぶんな。で、ベターじゃないほうの豚と愚者が、俺たちこっちで満足だから良いもんね、と言ったら、その結論部だ。おまえらベターなほうを知らないからだろ、と。」
「はあ...何だかなあ。これって無茶なセールストークみたいだぞ。お客様、こちらは効果ですけど高性能で、こちらは安価ですけど性能はいまいちですが、どうされます?みたいな。」
「なんか話がずれてきている。ともかくだ、痩せたソクラテスを持ち出して、それを選ばないとおまえら太った豚だぞ、それでいいのかという、本来の話と全然違うことになっているのが問題なのさ、日本の嘘格言。そもそも太っただの痩せただの言ってないし。」
「なるほどな。それは汚い脅しだ。だんだんわかってきたぞ。これは社畜製造装置の格言だ。おまえたちの成長を期待しているので薄給に甘んじて、つまり痩せたままで、ソクラテス、すなわち賢者を目指せ、さすれば太った豚として蔑まされることもあるまい、という。」
「ああ、そもそもソクラテスは痩せてなかったしな。宴会好きの酒豪だった。」
「嘘格言のために強制ダイエットを命じられた哲学の祖。かわいそー。私は良いとこ取りを要求する。満足している賢者、これ最強。」
「満足したらそこで哲学は終わりですよ。」
「出た、ナントカ先生!」
「で、豚に戻るが、おまえの言ってた豚は飼育すると大きな富を生む、これは確か。なので文化によっては幸福のシンボルにもなっている。」
「貯金箱も豚がデフォだしな。一杯になったらパカーンと割って幸せ♩」
「豚の貯金箱の材料は陶磁器、イタリア語でポルチェラーナ、これは子豚の意味。」
「豚でできた豚か、御利益が倍増、いや累乗。」
「なんか話がとっ散らかってきたな。」
「で、キルケに豚にされた仲間たちは?」
「それは物語を読んでもらおう。」
黒い大鹿を屠って催した宴会の翌日、オデュッセウスは部隊を2つに分けた。ひとつは自分が指揮する23人、もうひとつはエウリュロコスを隊長とする23人。この2つの部隊でくじ引きをして、この島の探索チームを決めた。負けたのはエウリュロコスのチームだった。とオデュッセウスはアルキノオス王に語っているが、自分に都合の良いように事実をねじ曲げている可能性もある。いや、これまでもずっとその可能性はあった。それが「信用できない語り手」の祖であるオデュッセウスの本質だ。
エウリュロコスの部隊は魔女キルケの屋敷を目指した。中から歌声が聞こえる。機織りをしながら歌を歌っているようだ。立ち止まっていても仕方がないので戸を叩いてみると、中から女が出てきた。
「いらっしゃい。海で迷子になったのかしら?どうぞお入りになって。ささやかな食事でもてなして差し上げましょう。」
エウリュロコスは胸騒ぎがしたので家には入らずその場に留まった。他の22人は誘われるままに家に通され、様々なご馳走でもてなされた。魔法の薬が仕込まれた食事で。舌鼓を打っていた彼らは瞬く間に豚に姿を変えられ、地下の豚小屋に放り込まれた。姿だけが豚で心は人間のままという耐えがたい状態で。ミルの言う「満足した豚」ではなくて「満足できない豚」という最悪の状態になってしまったのである。エウリュロコスはこのありさまを見ていて心から恐怖し、一目散に船へ戻ってオデュッセウスに報告した。
「よし、それでは助けに行こう。案内しろ。」
「とんでもない。あんな恐ろしいところ、無理です。勘弁してください。」
「そうか、ならばここに残れ。私ひとりで行く。」
オデュッセウスは武装を整えきる家の屋敷を目指した。途中で髭もまだ生えぬ若者の姿でヘルメスがオデュッセウスを呼び止めた。
「オデュッセウスよ、そのままキルケに会うのは危険だ。このモウリュという薬を飲んでから行け。さすればキルケの魔法にかかることもあるまい。」
「わかった。すまない、恩に着る。」
「魔法が効かないと知ればキルケは杖でおまえを打ち据えようとするだろう。そのとき剣を抜いて猛然と応戦しろ。魔女はすぐに屈して助命を嘆願し、今度は色気で籠絡しようとするだろう。だがすぐに応じてはダメだ。今後一切自分に悪さをしないと神々に誓わせるのだ。それから抱いてやれば魔女はおまえの言いなりになる。」
オデュッセウスはそれを聞き、そういえばしばらくご無沙汰だったなと苦笑いした。キルケの家に到着すると、キルケは笑顔で応対し飲み物を用意してくれた。オデュッセウスはそれを平然と飲み干す。魔法で様子が変化しないのを不審に思ったキルケは杖でオデュッセウスに打ちかかるが、オデュッセウスは剣を抜いてこれを捌いた。形勢が逆転したと悟ったキルケは、ヘルメスの預言通り、妖艶な笑みで閨へ誘い始めた。
「魔女よ、私はここですぐ色香に屈する安い男ではないぞ。私に一切の悪さをしないと神々に誓わぬ限り、抱いてはもらえぬと知れ。」
「わかりました。誓いましょう、美しいおかた。誓いの後で契りを交わしましょう。」
魔女の誓いが済み、女中たちの半分が食事の支度を始め、残りの半分はオデュッセウスの湯浴みを手伝った。身体を洗い、香油をつけ、男前になったオデュッセウスはダイニングルームに通された。テーブルには珍しいご馳走の数々。だがオデュッセウスは悲しそうな顔のまま食べ物にも飲み物にも手をつけようとしない。
「オデュッセウスよ、なぜ手をつけぬ。私は神々に誓ったのだからおまえに危害は加えない。信用してくれてかまわないのだぞ。」
「仲間たちが豚の姿で閉じ込められているのに食事をする気にはなれない。」
「そうか、そうだな。付いて来い。」
オデュッセウスはキルケに連れられて地下牢へ赴いた。そこには豚の姿になった仲間たちが閉じ込められて悲しい鳴き声を上げていた。キルケは彼らを小屋の外に出し、呪文とともに薬を振りかけていった。男たちは以前より若く美しい姿の人間に戻り、歓喜してオデュッセウスの周りを囲んだ。キルケはオデュッセウスに歩み寄り、笑顔でこう告げた。
「さあ、一度戻って船を引き上げ、財宝などがあれば洞窟に隠しなさい。それから仲間たちを連れてここへ戻ってくるのです。まだお約束を果たしてもらっていませんからね。」
そう言うとキルケはオデュッセウスの太股を撫でてから彼を送り出した。
それから1年間、オデュッセウスと仲間たちは怠惰な快楽の日々を過ごした。豊富な肉、甘いワイン、ニンフたちとの――オデュッセウスはキルケとの――交わり。ミルの選択肢に従えば、満足できない豚という最下層から満足した人間という最高位へ上り詰めて、みんな幸せだった。しかし、その最高の幸せを手に入れたからこそ、自分達の本当の存在意義が、本当の目的が彼らにはわかってしまった。思考を停止した快楽の微睡みに浸っていてはならない。部下たちはオデュッセウスに迫った。故郷に、イタカに帰りましょう、と。
オデュッセウスもこの言葉に異論はなかった。本来の目的を忘れてはならない。帰るべき場所に帰る、それが旅の目的だった。彼はそのことをキルケに伝えた。
「そうですか、やはり帰られますか。わかりました。きれいに送り出して差し上げましょう.ただその前に、やってもらわなければならないことがあります。冥府へ行って予言者テイレシアスに会うのです。冥界で唯一知性を保っている亡者。彼にこれからの航海の方針を尋ねれば、その預言があなたを故郷へと導くことになるでしょう。」
「冥界へ....行かなければならないのですか...」
「厳しい旅路になるでしょうが頑張ってください。ここから北風に乗って切りと雲に包まれた土地を目指してください。そこに冥府の入り口があります。そこに到着したら、この雄と雌の逸事を生け贄として捧げるのです。その臭いに誘われて亡者たちがわらわらと湧き出てくるでしょう。そこで羊の皮を剥いて火をつけ、ハデスとペルセポネーに祈りを捧げなさい。よろしいですね?」
オデュッセウスと仲間たちは頭をうなだれて出港した。帰ってこれるかどうかわからない冥府への旅へと。
オデュッセウスたちの旅路はジェットコースター、登ったり急降下したり、タフじゃないと耐えられません。タフで賢いイケオジ。来年公開の映画『オデュッセイア』の主演はしっかりこなせるのかな?




