07 : FAIRWAY
7.
翌日の学校に、夕莉はまた別の本を持っていった。
クラス朝会の前になって、いつもと同じように誰とも話さず自分の席に座って、そこで持ってきた単行本を広げる。その日、持ってきたのは『不思議の国のアリス』だった。
やはり、特に理由があったわけではない――ただ何となく読みたくなったから持ってきただけのことだった。この本は、夕莉も小さいころから比較的読み返している本だったが、ここ数年はめっきり読まなくなっていた。この本を見ると、色々と関連付けて辛いことを思い出してしまうからだ。
なのに、今日この本を読みたいと思ったのは――なぜなのだろう?
その心境の変化については、夕莉にもよく分からなかった。
「や、坂下さん、おはよう」
昨日と同じように単行本に目を落としていると、ちょっとして隣の席の春日部薫子も登校してきた。
夕莉も今日は聞き逃すことなく「おはよう」と返事をする。
「あっ、今日も読書してるんだ……って、今日は違う本を読んでるんだね?」
「ああ、うん。『ライ麦畑でつかまえて』は読み終わっちゃって」
「どうだった?」
薫子は自身のスクールバッグを、机の横にかけながらそう聞いてくる。夕莉は少し考え込むような仕草を取ってから、こうコメントを返した。
「面白かったよ。なんていうのかな――ちょっと考え込んじゃった。あの作品読んで」
「やっぱりホールデンについてのこと?」
「そう。なんていうか、彼はちょっと子供だなあって思った。けどさ、ああいう感情って意外とみんなあるんじゃないかな……わたしは結構共感できたよ」
「へえ、結構意外。坂下さんは割とホールデンに共感できたんだ?」
「うん、まあ……もちろん全部じゃないけどね」
夕莉はそう言って、薄く愛想笑いを浮かべてみせる。それと同時に、薫子が「意外」と言った部分が少しだけ気になった。自分はどういう人物だと思われていたのだろうか?
「坂下さん、今日は何読んでるの?」
「『不思議の国のアリス』……」
「へえ、これまた意外! 坂下さんってそういうのも読むんだねえ。なんか、さっきのホールデン云々よりもびっくりしちゃったよ」
「そんな意外かなあ……」
「うん、意外だよ」
薫子は一人で納得するように、威厳に満ちた顔でうんうんと頷いていた。
「坂下さんって、ちょっと現実主義者的に見えるというか――なんか結構クールな感じがするもん。だから、そういう童話とかはあんまり読まなそうだと思って」
「現実主義者だって童話は読むんじゃないかな?」
そう言いつつも、夕莉は自分が現実主義者じゃないという否定はしなかった。
確かに自分にはそのような傾向はあるような気はした。もちろん、理想的な平和だとかそういうものを望む気持ちもあるのだけど――どこかそこに現実性を探してしまうというか、実際はそんな上手くいかないだとか、そういうことばかり考えてしまうからだ。
だが、どちらかと言うと、スタンス的には悲観主義者の方が近いのかもしれない。
「確かにそうだ。変なこと言ったね、ごめん」
「いやいいよ……ところで、わたしもちょっと気になったから聞くけど、春日部さんは自分が現実主義者だと思ってる?」
「あたし? あたしは――結構、理想主義だと思ってる」
そう言って、薫子はちょっとだけ照れ隠しのように笑った。
「だって素敵じゃない、夢を見ている方が」
「……まあ、確かに」
「あれ、坂下さんはあんまりそうは思わない? やっぱりちょっと違うのかな」
「ううん、わたしもそう思うよ。夢を見てた方が素敵で幸せ――それはわたしも思う」
「なんか引っかかるなあ……」
「気のせいだよ」
夕莉は軽くあしらって、それから適当に話題を変えることにした。
「そういえば、昨日のあの事件のことなんだけどさ……進展したのかな? わたし、今日はニュース見るの忘れちゃって。あの猟奇殺人事件ってどうなったの?」
「ああ……あの事件のことね」
薫子は気の毒そうな顔をして、ちらりと辺りを流し見た。口元に手を当てて顔を近づけてくる。少し声を潜めて、夕莉に耳打ちするように言った。
「犯人、まだ見つかってないんだって。……なんか怖いよね、四肢切断だもん」
「物騒な事件だよね……」
「ちょっと普通の殺人事件って感じじゃないしね。坂下さんも気をつけた方がいいよ?」
「うん、そうする……」
もっとも、夕莉はそんなことを言ったけども、その忠告をまともに聞き入れようなどとは露ほども思っていなかった。犯人である自分がそんなことを気にするのは馬鹿馬鹿しい。
「ああ、そうそう。今日、恭二くんのお通夜があるんだって」
「お通夜……今日なんだ」
「坂下さんも行く?」
そう聞いてくるということは、薫子は出席するつもりなのだろう。
夕莉は少し考え込んでから、首を横へと振った。
「ごめん、たぶん行かないと思う。同じ学年の生徒が亡くなったんだから行くべきなのかもしれないけど……ちょっとね。申し訳ないとは思うけども」
「そっか。まあ色々と都合がある人もいるだろうしね」
薫子が空気を読んでか曖昧に微笑んだとき、ちょうどクラス朝会が始まる前のちょっとした喧騒も鳴り止んだ。クラスのドアを開けて初老の担任教師が入ってきたからだった。
「さあみんな席に着け、今日はいつも通りの日程なんだからな」
宮地和雅が、いつもと変わらない調子でそんなことを言っていた。もっとも、変わらないのは調子だけで、身にまとっている雰囲気は昨日のそれを引きずっている。
夕莉は薫子と顔を見合わせて、それから軽く肩をすくめると教卓の方へと向き直った。
「まずは出席を取るぞ、相澤――」
その担任の呼びかけに、クラスメイトたちが順々に応答していく。
また、これから何も変わらぬ日常が始まっていく――。
所詮は、みんな自分たちが属している学校の生徒が亡くなったって、それくらいの安い同情しか持ち得ないものだ。誰だって本質的には興味などないのだから。そこに何らかの感情を持っている者は、利害や共通するものがあった者たちだけだ。
飾磨恭二という生徒も、こうしてみんなの記憶から緩やかに忘れ去られていくのだろう。
「坂下」
「はい」
自分の番になって、夕莉はそう返事をした。
そして、何事もなかったかのように自分の番は過ぎ去っていった。
その日の授業は、まるで事故を起こしてしまった車が恐るおそるエンジンをかけて慎重に動き出していくような、妙にスローで気の抜けたものだった。
その刺激に欠けた一日を、夕莉は事もなげに何も考えず――やり過ごした。




