08 : TIME IS RUNNING OUT
8.
終わりが近づいている――。
なぜかは分からないが、そんな予感がした。
あれから学校での一日を終えた夕莉は、自宅に帰ってきていた。
家族の誰とも会話せずに自室へと入っていく。誰も入れないように部屋に鍵をかけてから、夕莉は軽い溜息とともにスクールバッグをベッドの方へと放り投げた。自室にある全身鏡の前に立って、制服姿の自分のことを見返す。
「……嫌なやつ」
自分の顔を見返しながら、そんな風に独りごちる。
鏡に立っていた自分の顔は、この世に存在するどれよりも醜悪に見えた。別に不細工という意味ではない――ただその瞳に映っている生気のない瞳が、それなのに不気味に笑ってみせている口元が、まるで嫉妬と執念にまみれた汚らわしい自分を映しているかのように見えた。
しばし自分の顔をまじまじと見つめてから、夕莉はふいに鼻で嗤った。
身につけていた上着を脱ぎ、スカートを外し、いつもの部屋着へと着替える。あまりおしゃれには興味がなかったから、彼女はいつも部屋では飾り気のないシンプルな格好をしていた。
部屋着に着替えてから、窓の方へと近寄ってカーテンを閉める。
一切の光が消えた暗闇の自室で、夕莉は勉強机の横にあるライトスタンドの紐を引いた。
かちり、と音がして辺りが照らされる。
「…………」
夕莉は無言のまま、手近な場所にある本棚の小物入れ――そこに隠している小さな鍵を摘み上げていた。それを手にとって、勉強机の鍵穴へと差込んで、捻る。
ロックが外れる。夕莉はがらりと引き出しを開ける。
引き出しの中に隠されていたのは、武器だった。いつも愛用している護身用という名目の、だが彼女にとっては幻想人を殺すために必要となる各種の武器。
いつも所持している特殊警棒に加えて、トドメを刺す際のサバイバルナイフ、意表を突いて使用するためのスタンガン、暗闇を想定したフラッシュライト、催涙スプレー、催涙グレネード、ナックルダスター、ボウガン――そこには彼女にとって身近な武器類が保管されていた。
夕莉はそれらを静かに眺めて、それから何気なくスタンガンを手に取った。
つるりとした表面の、樹脂製の部分を握って――スイッチを入れる。
ばちん、と高圧電流が先端に流れた。彼女はそれをただ淡々と見下ろしていていた。そして、その脳裏では白ウサギを殺害する際のことを、思い描いている。
高圧電流に筋肉を引き攣らせ、身動きが取れなくなる白ウサギのことを――。
「……いや、違う」
だがその想像を、夕莉は途中で打ち切った。
「これじゃない、あいつを殺すために必要なのは……」
夕莉は手に取ったスタンガンを、静かに引き出しの中へと戻した。そして代わって手に取ったのはナックルダスターである。
ナックルダスターの鋼鉄製の表面を撫で、実際に指に嵌めたりしながら、やはり彼女は白ウサギを殺害する際のことを想像した。至近距離で白ウサギに向かって、ナックルダスターを嵌めた握りこぶしで殴りかかる姿を。何度も何度も振りかぶって白ウサギを殴打する姿を。
「……これでもない」
だが夕莉はまたも想像を打ち切って、ナックルダスターを引き出しの中に戻した。
それからボウガンに視線を向けたが、夕莉はやはり「違う」と言って、すぐに視線を逸らす。スタンガンも、ナックルダスターも、ボウガンも、ここにある武器は全て彼女が使用することを前提に集められたものだったが、それらを彼女は良しとしなかった。
やはり一番手に馴染むのは、最も使い慣れている武器だ――。
だから、夕莉はいつも身につけているASP社の特殊警棒を掴んでいた。それを握って無造作に腕を振る。打撃部分が三段階に伸張する。
「……やっぱり、これね」
そして、夕莉は同じように引き出しの中に入っているサバイバルナイフも掴んでいた。
なんでも、このナイフは米軍に最も納入実績のあるオンタリオ社の軍用物らしい。とにかく広告の煽り文を抜いても、その信頼性には特筆すべきものがある。
その二つの武器を手にして――夕莉は引き出しを閉めていた。
再び鍵をかけて、その鍵を本棚の小物入れへと戻す。そしてライトスタンドの紐を引いて光も消すと、夕莉は真っ暗な室内でゆっくりと深呼吸をするように、溜息を吐いた。
――行かなくちゃ。
なぜだか分からないが、自分の心の中でそのような言葉が生まれた。
「行かなくちゃ……『王国』に」
夕莉は部屋の電気をつけて、今手にしている特殊警防とサバイバルナイフをベッドの方に投げつけると、再び着替えをすることにした。
やはりこれらの武器を目立たず身につけるためには、学校の制服というものは便利だった。スカートには特殊警棒も、サバイバルナイフも隙なく隠すことができる。そのため、さっき着替えたばかりだというのに――夕莉は再び制服姿へと着替えていた。
両の太腿に目立たぬように特殊警棒とサバイバルナイフ用のホルスターを装着して、そこに二つの武器をぶら下げた。それから、もう一度だけ全身鏡の前に立った。
その鏡に映っている自分の姿は、相変わらず醜悪ではあったが――その目には先ほどまではなかった生気が戻ってきていた。
夕莉はにやりと笑みを浮かべてみせた。もう慣れ過ぎてしまった皮肉げな嗤いを。
「……行こう」
そして夕莉は今一度、武装をちゃんと身につけているかを確認してから、部屋を出た。
時刻にして夜の八時。世界は夜へと変貌しきっていた。
夕莉は家を抜け出して、暗く街頭しかない住宅街を抜けて、かつて有栖とともに作った『王国』が存在していた敷地――今はただの空き地となっている場所を目指した。
きっと今頃、薫子たちは飾磨恭二のお通夜にでも出席しているのだろう。だがそれは彼女にとっては何の関係もないことだった。
目的地には、すぐに辿り着いた。
なぜ今更になってここに来ようと思ったのか――それは自分にもよく分からなかった。ただ何者かが、自分に囁きかけてきたように思えたのだ。ここに来るべきだと。そして、その予感に近い囁きに従って、夕莉はここへと訪れただけのことだ。
かつて『王国』という名だった廃屋は、ちょうど一年前に壊されていてすでに跡形もなかった。今ここにあるのは、わずかな雑草が茂っている、ただの空き地だけだ。
「……もうなくなった『王国』」
夕莉は何もなくなった空き地で、ただ一人そうつぶやいていた。
辺りからは微かに緑の匂いがしていた。短く刈り揃えられた草地からは、虫たちの鳴き声がアンサンブルとなって聞こえている。そこにはもう何も存在していないというのに、心を穏やかにさせるような不思議な静寂が満ちていた。
深呼吸をするだけで、まるで別世界に来たかのような気さえする――。
「……有栖」
夕莉は静かに目を閉じて、それからゆっくりと息を吐き出すように言った。
「どれだけ世界が変わっても、ここだけはわたしたちだけの場所だよ」
ねえ、そうでしょう――?
夕莉は心の中で、今はもういない有栖に向かってそう話しかける。もちろん、その答えが返らないということは十分すぎるほど理解していたけれど。
「わたしは……清算しなきゃならないから」
過去を。因縁を。そして未だに捨て切れていない――自分自身の気持ちを。
「わたしは、全てを終わらせるよ」
まるで自分自身ではないかのように、その台詞がするりと口から出た。夕莉は閉じていた目をゆっくりと開いて、沈んでいた闇夜から浮上するように、静かに口を開く。
「そうすることで……ようやくわたしは、あなたの幻と決別することができるから」
そうして、そこで彼女はふいに頬を緩ませて笑った。仕方ないな、と笑ってみせるように。
「……悲しいね、本当に」
夕莉はただ一人、かつての思い出の地を踏みしめながら感傷に浸る。
別に思い出したかったわけではない。だって、あれはとても辛い思い出だったから。なのにその記憶は溢れ出さんばかりに湧き上がってきて、彼女はその思考の渦を止めることができなかった。思わずあの日の記憶――消さない過去の出来事を回想してしまっていた。
ゆるりゆるりと、自らの記憶の螺旋を辿っていくかのように――。
彼女は、過去へと落ちていった。




