06 : LIVING DYING MESSAGE
6.
あの時は知る由はなかった。いや、誰がそんな結末になると分かるものか――。
まさかその無垢なる願いが、本当に実現してしまうなんて。
この世には思わず願ってしまうほど無意味な事象が溢れかえっている。それは認める。だがそれでも人は願ってしまうのだ。なぜならば、それがどれだけ低い確率であろうと、たとえ気の遠くなるほどの奇跡だとしても、その可能性は決して零ではないからだ。
だから、あれはたぶん――夕莉と有栖に起こった人生で最大の奇跡だったのだろう。
もっとも、それが必ずしも幸福に結びつくとは限らないのが人生だということを、夕莉はこの一件を通して学んでしまったのだけども。
なんて救いようのない話なんだろう――そう夕莉は思う。
あれからのことは、夕莉もできれば回想したくなかった。だけど、いやがおうにも頭からこびりついて離れないのも、それからの話の続きの部分だった。
「……やっぱり、この世には悪意しかないんだ」
夕莉は人の行き交う街中で、ただ誰にも理解されない思いをつぶやきにしていた。
ふいにその場から離れようと考えて、脚を動かし始めた。彼女は人の多い駅前から離れて、あまり人通りの多くない路地裏の方へと移動することにした。なぜだか、人の多い場所にいると自分の孤独心がより刺激されて、寂しい気持ちになってしまうのだ。
薄汚い路地裏に入ろうとした夕莉であったが、しかしその角を曲がっていったとき――彼女がこれまで浮かべていた孤独心は吹き飛んだ。
なぜならば、そこに見慣れた者の姿があったからだ。
「そう、あなたの言う通りですよ、ユウリ。この世界には悪意しか存在していない。ゆえに我々は強くあらねばならないのです。反逆者として」
「……白ウサギ」
その路地裏の真ん中に、昨日も垣間見た白ウサギが立っていた。珍妙な格好をして二足歩行で歩く白ウサギは、まるで紳士のような慇懃な一礼をしてみせる。
「こんにちは、ユウリ。今日もずいぶんと悩める少女といったご様子で」
「誰のせいだと思ってるのよ――全ての元凶がそんなことを言うなんて、滑稽だわ」
「ならば笑えばいいではありませんか。それに全ての元凶などという言い方は、少し癪ですね。何も私はあなたを不幸にするためだけに行動しているわけではありませんから」
「でも事実として、あなたはわたしを不幸にしている」
「それは結果論に過ぎません。不肖ながらこの白ウサギ、つまり私という存在は――誰よりも依り代となった来巳有栖の命令を遵守しているのです。彼女は今は亡き存在ではありますが、それを忠実に守り続けている私が悪く言われる筋合いはありません」
「抜かせ。その今は亡き存在にしてしまったのはどこの誰よ?」
夕莉は鬼のような憤怒の表情となって、その嫌みったらしい白ウサギに問いかけた。
白ウサギは気取るようにやれやれと肩をすくめて、言う。
「さあ。私だったか、それともあなただったか――怪しい部分ではありますね」
「まだ言うか、この――っ!!」
夕莉は傍らに下げていたスクールバックの中から、携帯していた特殊警棒を引き抜いていた。勢いよく振って打撃部分を伸張する。その先端を白ウサギに向けて突きつけた。
「全ての元凶はあんたじゃない、白ウサギ」
「そうでしょうか?」
白ウサギはそれ以上のことは何も言わなかった。ただせせら笑っただけだった。
「覚えていますか、ユウリ。あなたの言う彼女――来巳有栖が何を願っていたのかを。そして、その高じすぎた無垢なる願いが、私という存在をこの世界に呼び寄せたことを」
「……全部、知ってるわよ」
夕莉はまるで深淵から響くような低い声で、それに答えた。
「有栖はすごく物語に対して夢を見ている人間だった……そう、たぶんわたしなんかよりもずっと。だから、彼女はわたしに『王国』を作ろうなんて言ったんだもの。でも、わたしも有栖も本当のところは知っていた――いや、知っていたはずだったのよ」
夕莉はぎろりと白ウサギのことを睨み据えながら、言葉を紡いでいく。
「自分たちは現実逃避するために『王国』なんてものを作っていて、そしてこの『王国』というものは……永遠にはなり得ない場所だってことをね」
でも、と続けようとした夕莉であったが、そこに白ウサギの言葉が割り込んでくる。
「……でも、ありえないことに私のような存在が出現してしまった」
「そうよ」
夕莉が極大の敵意をぶつけるように、短く言った。
「あんたが有栖を依り代にしたことで、何もかもが狂った。わたしの友達だった来巳有栖という人間は死んだわ。それだけじゃない、加えてあんたは有栖の願望を汲むだとか何だとか言いながら、この町に色々とばら撒いたんじゃない――災厄の種を」
「……ええ、あれは『王国』を繁栄させるためには必要なプロセスでしたので」
そこで白ウサギは薄く微笑んでみせる。
「我々の『王国』はあまりにも小さすぎたのです。もっと繁栄させなければならなかった。……そう、国民についても、領土についても。それこそが彼女の望んだ願いでもあり、その管理を任された私にとっての責務だったのですから」
「国民――あんたが誑かした、あんな化け物をそう呼ぶのは反吐が出るわね」
「おやおや。酷いことを言いますね、ユウリ」
「あなたたちは恨みこそすれ、感謝することなど何一つ無いわ」
「ふうむ、それは結構。ですがユウリ、あなたはもっと自分がしていることについて考えるべきではないでしょうか? 私を殺そうというのはつまり――あなたの友人であった来巳有栖の尊い願いを、無に返すということに等しいのですよ」
「……何を今更。分かってるわよ、そんなこと」
そう言いつつも、夕莉は自らの心の奥底に矛盾した思いがあるのを自覚していた。
だが、その沸きあがった矛盾を、夕莉は胸の裡にて押し殺す。
「わたしは、もうすでに覚悟を決めてるもの。今更引き返すことなんてできやしないのよ」
「引き返す――確かに無理でしょうねえ。いくら化け物と言えど、幻想人は人でありますから。あなたはこれまでに四名を殺してきているですから」
「四名……?」
そこで夕莉は白ウサギの言ったことが理解できなくて、そう問い返す。
「何言ってるのよ、あなたを入れて四人じゃない。わたしはまだ三人しか殺してないわ。もっとも、三人も殺してれば一人くらいの違いはないかもしれないけれど――」
「いいえ、四人ですよ」
白ウサギはぴしゃりと封じ込めるように言った。夕莉の握る特殊警棒に力が込められる。
「……何言ってるの?」
「さあ。どうとでも受け取ってもらって結構ですよ、ユウリ」
白ウサギは嘲笑うかのように返してくる。
「……やっぱり、あなたは殺すしかないようね。馬鹿は死なないと直らないって言うし」
「いい返答です――そう、私はそれが聞きたかった。それがあなただから。しかし『馬鹿は死なないと直らない』という言葉はそっくりそのままお返しいたしましょう」
「――ふ」
夕莉は特殊警棒を握り締めながら、その感情を暴発させるように叫んでいた。
「ふざけるなッ!!」
「ああ、いくら路地裏とはいえ昼間に喚かないでください……人目が集まる。あなたは私の立場など察することもできないでしょうが、これでも私は繊細なのですから」
「何が――繊細よ!」
「言葉通りの意味でございますが。……ああ、早速、私たちの邪魔者が」
そう白ウサギが微笑みかけたとき、夕莉は怖気を感じて背後を振り返っていた。
通りの方から見知らぬ目撃者の男が、まるで変なものでも見たかのように夕莉の方へと視線を向けていた――そして、思わず夕莉と視線が合ってしまった瞬間、その顔が唐突に伏せられた。まるで見てはいけないものを見てしまったとばかりに。
目撃者の男は、そそくさとその場を後にしていった。
夕莉は右手に特殊警棒を握った、見るからに不審そうな格好のままで――ぐっと歯を噛み締める。見られてしまった。嫌な思いが脳裏を掠めていく。
「……でも、お前は殺してやる。白ウサギ。絶対に殺してやる」
そう言いながら、路地裏の方へと視線を戻した時、すでに白ウサギの姿は存在しなかった。
夕莉は慎重に辺りを見回してから、ぼそりと事実を口にした。
「逃げたか――」
だがそれに対する白ウサギの返答はあった。姿は見えなかったが声は聞こえた。
「また会いましょう、ユウリ。そうまでしてあなたが私の殺害を望むのであれば、それは結構なことです。でしたら、次こそ我々は殺し合うべきでしょう。三度目の正直とでも言いましょうか。……約束しましょう、近々あなたの前に現れると」
「……本当かしらね?」
夕莉が疑わしそうな顔になって言い返した。だが今度の返事はなかった。
「やれやれ……」
夕莉は特殊警棒を折りたたんで自らのスクールバッグの中へと戻す。すでに辺りから白ウサギの気配はなくなっている。軽く溜息を吐いて、そこで妙に頭が痛いことに気付く。
偏頭痛だろうか――なんだか少し気分が悪かった。
「……帰ろう」
夕莉は誰に言うでもなくそう言って、その街中の路地裏を後にしていく。頭だけではない。なんだか心の中も潮騒のようにざわついていた。
それが戦いの予感から来るものなのか、もしくは不安から来るものなのか。
それについては夕莉も判別することができなかった。
あれから家に帰った夕莉は、自室に引きこもって本を読んだ。
今日の学校で、薫子が嬉々として話していた『ライ麦畑でつかまえて』を読むためだった。ホールデン・コールフィールドという少年を通して語りかけてくるかのようなサリンジャーの文体、ホールデンの自己中心的だが臆病で、短絡的で、それでも自分自身の正義を貫こうと足掻いている姿は――同じく、この世に鬱屈した感情を抱いている夕莉にも、どこかしら感じるものがあった。
薫子が、あの主人公をあまり好きじゃないと言った理由もよく分かる。
けれども、夕莉はなぜかは分からないが、ホールデンのことを嫌いにはなれなかった。確かに彼は生粋の愚か者だと思う。それは間違いない。だが何ともなさげに語ってはいるものの、この物語には社会と自分に対する絶望が込められている気がした。
ともかく、それを読み終えた頃には、夜になっていた。
帰宅してからもなかなか落ち着かなかった胸のざわつきも、その頃には、なくなっていた。




