05 : HYPER-BALLAD
5.
――その思い出は、果たしていつのことだったか。
まだ夕莉が小学校の三年生だった頃だから、今から七年ほど前になるだろうか。その頃、夕莉は小学校でいわゆるいじめというものの被害者だった。
そのいじめの主犯格は、飾磨恭二という少年だった。当時から彼は学校において学内政治に長けていて、そして夕莉によって殺される昨日まで、ずっと清く正しい優等生を演じてきた憎たらしい少年だった。夕莉はいつも、この何ともなさそうな顔をして――裏では他人を陥れているこの人物のことを、殺してやろうとばかり夢想していた。
だけど、実際の夕莉は――とても無力な存在だった。
だから表立って反抗することなど、到底できなかった。今思えば、あの当時、自分は暗い思いをこれでもかと思うほど叩きつけ、暴力的な手段に訴えればよかったと思うのだが、その頃はそんなことなど微塵も思いつかなかったのだ。
かくして夕莉は殺されてしまった――肉体ではなく心が。
あの当時、夕莉には誰も友達がいなかった。いや、友達だけではなく、その心境を理解してくれる者すらいなかった。生徒たちも、先生も、両親ですら理解してくれなかった。
夕莉はたった一人で、学校という誰も味方のいない場所で戦い続けた。
心に深い傷を負って――そこからどくどくと赤い血を流し続けながら。ただ生きていた。
死のうと思ったことも何度かあった。でもどうしてだか自分は生きていた。死ぬことすらも考えられなかったのではないかと思う。ただ機械のように、毎日の義務をこなすことだけを目標として、学校に通い続けた。
今になって思えば、本当に愚かなことだったと……そう思う。
だけど、そんな夕莉にも転機はあったのだ。
それが彼女にとっての唯一の救いで、そしてその後の人生そのものを決定的に狂わせてしまう重大な出会いだったということは、言うまでもない。
小学校三年生の秋になって、一人の転校生が編入してきた。
その転校生こそが夕莉にとっての転機――来巳有栖という少女との出会いだった。
来巳有栖は率直に言って、ちょっとおかしな少女だった。
誰に話しかけられてもふわふわとした返答をする。それだけ考えれば、クラス内でも新たないじめ被害者になりそうだったが、その笑顔が天使のように柔らかで、それでいて不思議と気が回る――彼女はクラス内でもいじめられっ子にはならなかった。
そして、有栖はなぜかいじめられっ子の夕莉にも話しかけてくれる稀有な人物だった。
「ねえ、夕莉ちゃん何を読んでるのー?」
有栖はよくそんな調子で夕莉に話しかけてきたものだ。
「……うん、『不思議の国のアリス』」
「わあ、すごい!」
その当時はなぜだか分からなかったが、有栖がとても嬉しそうに微笑んでいたことは覚えている。その時は、どうしてそんなに大げさに笑うのかよく分からなかった。だがそれほどまでに嬉しそうな顔をしていた理由を知ることになるのは――それからもう少し後のことだ。
「有栖もね、そのお話すごく好きだよ」
「……そうなんだ。でも、それってやっぱり、その……」
「うん?」
「名前が有栖……だからなのかなと思って」
夕莉が戸惑いながらもそう返すと、有栖は天使のようににっこりと笑った。
「……うん。ちょっと恥ずかしいけど、実はそうなんだ。それになんだか夢があるじゃない。わたし、どこでもない場所に行きたい……ちょっとそういう気持ちがあるから」
どこでもない場所。
その言葉は彼女にしたら何てことない表現だったのかもしれないが、夕莉には一つの驚きとなって訪れていた。まさかこの少女が、そのような空想的な願望を持ち合わせているとは思ってもいなかったのだ。ちょっと意外ですらあった。
それに何よりも、同じだと思ったのだ――その胸に秘められている願望のそれが。
「ねえ」
有栖がにっこりと微笑みながら言った。
「今日、有栖と夕莉ちゃんで遊ばない? あたし、いいところに案内してあげるよ」
「それって、変なところじゃないよね……」
夕莉はいつも子供特有の残酷さによる言葉のいじめを受けていたから、そういう提案も素直に受け取ることはできなかった。なんでもかんでも疑いから入ってしまう癖が付いていた。
「違うよ。変なところじゃないって、いいところ。空想のお話が好きなんでしょ? だったら絶対に気に入ってくれると思うんだけどなあ」
「う、うん……分かった」
「じゃあ、また放課後だよ!」
そう言って、有栖はまた嬉しそうに、元気よく夕莉の元から立ち去っていった。彼女の言ったいいところが一体どういうところなのか――その時はまだ夕莉は何も分からなかった。
有栖が言っていたいいところというのは、要するに廃屋のことらしかった。
小学校の帰り道、ランドセルを背負いながら少し歩いて、あまり人通りのない一区画にあった廃屋を発見すると、有栖は意気揚々とその敷地に踏み込んでいった。誰かの敷地に勝手に入っていいものなのか、夕莉は若干戸惑ったが大人しく付いていくことにした。
「ね、ねえ……来巳さん」
「ん? どしたの夕莉ちゃん」
「ここが、来巳さんの言っていたところなの?」
夕莉がそう聞き返すと、有栖は何ともなさげに「そうだよ」と言い切った。ずかずかと踏み込んでいって、彼女は躊躇う様子もなく入り口の引き戸に手をかける。
「どうして……ここなの?」
「秘密基地」
「えっ?」
「夕莉ちゃんと有栖、つまりあたしたちって同じ趣味を持っていると思うの。だからね、ここにあたしたちはあたしたちだけの国を造りましょうよ」
「わたしたちだけの、国?」
夕莉はその言葉がよく分からなくて、つい聞き返していた。
「あたしたちだけの国――幻想の『王国』だよ」
有栖はそう言ってから、夕莉の方へと向けてにっこりと笑いかけた。
木造の廃屋の入り口、その寂れた引き戸には鍵などかかっていなかった。つまりそれほどまでに誰も立ち入る価値のない場所なのだろう。古い臭気の充満する屋内には難なく侵入することができた。長い間、人が立ち入らなかった廃屋は内外ともにボロボロだった。
「ここを、有栖たちの『王国』にしようよ」
「い、いいのかな……?」
「いいの。誰に使ってないんだから興味もないんでしょ」
「そうなのかな……」
いまいちその発言には納得できなかったが、しかし有栖の言う『王国』とやらに惹かれているのも事実であった。その当時、夕莉は学校にも家にも居場所はなかった。だから、その秘密基地という単語に――夕莉は何かロマンめいたものを感じていたのである。
「今日から、ここは有栖と夕莉ちゃんの『王国』だよ」
そう言って、有栖はくすくすと笑ってみせる。
「そして、今日があたしたちにとっての、建国記念日」
それから、夕莉と有栖は、何か暇があるたびに『王国』に立ち寄るようになった。
初めは老朽化と放置によってろくに使い物にならないような状態になっていたが、彼女たちは少しずつ廃屋を掃除して、自分たちの居場所として作り変えていった。
落ちていたゴミを拾い集めて、床を拭き、綺麗にした。
居間に机を設置して、そこを集会所とすることに決定した。
たくさんのぬいぐるみを連れてきて、それを『王国』の住人として任命した。
彼女たちの好きなおとぎ話の本も、いっぱい本棚に敷き詰めた。
自分たちの家からお菓子を持ってきて、それを保存食にした。
初めは殺風景だった『王国』も、その頃には少し見栄えのする秘密基地のようなものへと変わっていった。少しずつ自分たちの居場所が変わっていくのが面白くて、夕莉と有栖は一緒になって話し合い、色々と手を加え――夢中になりながら『王国』を作り上げた。
彼女たちの『王国』には、少なからず規則もあった。
その規則の一つが――自分たちはあたかもおとぎ話の住人であるかのように振舞うことだ。
つまり、夕莉たちはいつも『王国』では、空想物の役柄を演じていたのだ。
来巳有栖は『王国』の中にいるとき、いつだってお姫様になることを好んだ。
それはいつだって手を差し伸べられる存在というものに憧れていたからだろう。白雪姫だって、シンデレラだって、ラプンツェルだって――いつもお姫様役というものは不幸な目に合いながらも、最終的には必ず王子様と結ばれることでエッピーエンドに辿り着くのだ。
彼女がお姫様役を好んだ理由は、夕莉にもなんとなく分かる。
誰だって女の子であれば、お姫様という立場には一度は憧れるものなんじゃないかと思う。
ある日、夕莉はちょっと有栖にこんなことを言ってみたことがある。
「ねえ、有栖。わたしも一度でいいから、お姫様役、やってみたいなぁ……」
いつも夕莉が『王国』の中で演じていたのは、王子様の役だった。
いつだってお姫様の手を取り、幸せにする存在――それが夕莉の役回りだったのだ。
「えー……」
だが普段は色々と取り計らってくれる有栖も、その時ばかりは渋面になったのをよく覚えている。そう、彼女はいつだってお姫様役を好んでいたのだ。
「駄目だよ。だって夕莉ちゃん、まだ王子様役の台詞、どもってすらすら言えないじゃない」
「うっ、確かにそうだけど……」
「完璧に言えるようになったら交代してあげる」
有栖はそう言って、ふふんと鼻を鳴らして意地悪そうに笑ってみせる。それを当時、夕莉はちょっと恨めしげな目をして見返した、ような気がする。
なぜそこまでして有栖はお姫様役にこだわったのか――だがそれは今となっては確認する術もない。
「あ、そうそう」
「ん? どうしたの有栖」
「今日はこれを持ってきたんだった。ずっと忘れてたよ」
有栖は突然、先ほどまでとは百八十度違った話題を切り出し始める。
今日、彼女はいつも学校に行く際に背負ってきているランドセルとはまた別に、手提げ袋のようなものを下げていた。それを今になって開けて、中から何かを取り出そうとする。
「これ」
「わあ、これって」
「そう、新しいぬいぐるみ!」
そう言って、有栖は手提げ袋の中から白ウサギのぬいぐるみを取り出していた。足を広げたポーズをしているそのぬいぐるみを、他の色々なぬいぐるみも並べられている場所に、そっと座らせる。そうして有栖はにっこりと微笑んだ。
「この白ウサギの子にはね、宰相役をしてもらおうと思って」
「サイショウ役?」
夕莉はよく分からずに首を捻ってしまう。
「宰相役っていうのはね、国の王様とか王女さまを補佐する人のことだよ。王様と王女様を抜けば、国の中では一番偉い人ってことになるのかな」
「なんとなく分かるような分からないような……」
「とにかく!」
と、有栖はこれまでのちょっとぐだぐだした流れを断ち切って、そう言った。
「この子のことを、あたしたちが『王国』にいない時の宰相役に任命しようと思ってるの! だって、よくよく考えたらちょっとおかしな話じゃない?」
「何が?」
「あたしたちはお姫様と王子様――言い換えれば、王様みたいなものだよ。なのに、あたしたちが学校に行ったら国には誰もいなくなるじゃない。本当に『王国』のためを思うなら、あたしたちがいなくなっても動かせるような構造にしないと」
「うーん、確かにそうなのかもね……」
夕莉には有栖が言ってることを節々まで理解することができなかったが、彼女が言いたいことはなんとなく分かった。要するに、国には実務をする人間が必要だということだ。
「でも、なんでその白ウサギの子なの?」
「特に深い理由はないよ。でもやっぱり宰相役って言ったら白ウサギかなって。『不思議の国のアリス』だって、白ウサギが宰相役をしていたじゃない」
「うん……確かにそうだったね」
「でしょ」
有栖は満足そうに頷いて、それから一度だけ白ウサギのぬいぐるみの頭を撫でた。
「うさぎさん、有栖たちの『王国』を任せるよ。だから、この国を――みんなが幸せになれるような素敵な国にしてあげてね。これは、有栖の命令だよ」




