逸失
猫なら、俊敏で機敏で上手く着地できて、東真くんを怪我させることなんてなかった。
すがる思いで見つめると、店主は深くため息を尽き、それから重々しく口を開いた。
「何があったのかは分からんが…、猫になるというのはかなりの危険を伴うことになる。」
その言葉を噛みしめ、ゆっくり頷く。
「最悪の場合、死ぬより辛い苦悩を味わうことになるかもしれん。」
死ぬより辛い、か……。
でも猫になるという一般的にはあり得ないことをするためには、そのぐらいのリスクを伴うことは当然なのかもしれない。
「死ぬより辛いって、どういうことですか?」
単刀直入に訊いた。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえてくる。
「例えば。あの男の子のように。」
そう言って、店主は指で示す。
その指の先に目を向けると、怯えた目でこちらに目を向けるさっきの男の子。
あれ、さっきどこかへ逃げて行ってしまったのに、また書物の前、同じ場所にいる。
「あの子はな。」
店主は視線を落とした後、水色がかった小さな瓶をつまみ上げる。
「魂なんじゃ。」
店主さんの言っている意味が分からなくて首を傾げる。
「つまり…、あの子に触ろうとしても触れない。実体がないんじゃ。ふーむ、なんと言えばいいのじゃろう。
例えば、幽体離脱したまま魂が戻らなくなってしまった。そういうものによく似ておる。」
魂。それを信じていなかったわけではない。
それでも、こんなにリアルな話をされると、自分の今までの常識が常識でなかったような思いがしてくる。
梓の頭にふと疑問が浮かび上がる。
常識、とは誰が決めたものなのだろうか。梓自身も沢山の常識を知っている。
信じられないようなことでも常識にしてしまえば、それはその瞬間からそれは常識になる。
「男の子の身体は…もうないんですか?」
ぐるり、と周囲を見渡しつつ尋ねる。
見たところ、それらしきものはないけれど。
「いや、あることにはある。だが、もう戻ることは……」
戻ることはできない。
店主は途中で口をつぐんだが、それに続く言葉は表情から安易に予想がついた。
「この男の子は両親からの愛情を受けずに育ってな。
猫好きな家族じゃったから、自分が猫になることで愛されたい、そう願ったんじゃ。」
梓は思わず唇を噛み締めていた。
「わしはその男の子を助けたくて、この薬を開発したんじゃ。」
そう言うと、手に持っていた瓶を軽く振った。瓶の中に入っていた水色の液体が踊る。
透き通るような水色。
綺麗なのに、なぜか吸い込まれそうな恐怖を感じ、梓は思わず自分で自分の身体を抱きしめた。
「作るのはそう難しいことではなかった。」
「難しく、なかった?」
可笑しいのだろうか。店主は少し口元を緩める。
「時間はかかるがな。法則にしたがって、薬品を混ぜればいいだけ。」
だが、そのあとに続いた言葉は自分をたしなめるかのように、厳しい口調で発せられた。
「だがその子を救いたい一心だったわしは、猫から戻りたいという可能性があることを忘れておった。」
店主の瓶を持つ手が微かに震えていた。
何か声をかけなければいけないのは分かっていたけど、なんと掛けたらいいのか分からず、じっと続く言葉を待つ。
「その男の子は無事、猫になった。」
「え……!」
浮かない顔をしているから、すっかり猫になれなかったんだと決めつけていた。
なれたのなら、望みが叶えられたんじゃ…。
店主は私の表情を見て、ゆっくり頷くと言葉を続けた。
「その男の子は喜んで自分の家へ四足で走っていきおった。
でも、家に着く頃には薄汚れてしまっていたんじゃ。」
この後の展開が読めて、息を飲む。
「まさか。」
「そう、お前さんの予想した通りじゃろう。汚い、その家族は猫になった男の子を家から追い出した。」
ひどい。そんなの、猫になった意味がないじゃん。
今度こそ、いよいよ独りぼっちになってしまう。
「その男の子はわしの所に戻ってくるなりこう言った。人間に戻りたい、と。」
「………。」
「でも、その時のわしはそんな事情を知らんかったからのう。
自分勝手だ、そう言って追い出してしまったんじゃ。
その少しあとに、車の急ブレーキの音と何かが潰れる音。」
「……っ!」
「猫として死んだあの子は人間にも戻れず猫にも戻れず、
魂だけが残っている、そういうことじゃ。」
悔しそうに唇を噛みしめる店主に、なんと声をかければ良いのだろう。
きっと何を言っても、誰が言っても、店主のこの傷を埋めることはできない。
男の子を見ると、不思議そうな顔でこちらを伺っている。
しかし、しばらくすると、梓の存在にもなれたのだろうか。
初めて会った時のように、宝物を床に並べ始めた。
店主はそんな男の子の様子を一瞥したあと、今までよりも一層重々しく口を開いた。
「──あの子は、実の弟なんじゃ。」




