第二話 千年の渋みと王冠の傲慢、あるいはファラオの愛した禁断の果実
最新の電脳温室が桃の果汁で水没し、盛盛苺香が泣きながらイチゴの苗の植え替え係に任命されてから二日後。 郷子がいつも通りボロ作業着姿でキャンパスを歩いていると、目の前の空間に突如として「矢」が突き刺さった。矢文である。古風な和紙に達筆な墨文字でこう書かれていた。「桃源郷子。ファラオだの科学だの、新参者の軽薄な果物論争には反吐が出る。我が校の正統なる伝統、そして真の精神性を教えて遣わそう。裏山の大収穫神社の境内にて待つ」送り主は、桃太郎の時代からの伝統を重んじる学内最古の頑固者集団。柿学科の筆頭、柿崎渋右衛門だった。「柿学科なぁ。あそこらの連中は頭が固うていけんわ」郷子はため息をつきながら、大学の裏山にある格式高い大収穫神社の境内へと足を運んだ。
石段を登りきると、そこに広がっていたのは、見渡す限りの干し柿の暖簾と、厳かな和の空間だった。中央の古びた数寄屋造りの茶室の前で、紋付袴をビシッと纏った髭面の男、渋右衛門が、鋭い眼光で郷子を睨みつけていた。彼の手元には、数百年受け継がれてきたという伝説の木から採れた至高の渋柿。コードネーム「天叢雲柿」が鎮座している。「よく来たな、桃学科の若造。我が柿学科が追求するのは、近年の軟弱な甘味至上主義ではない。時を経て醸成される渋みの深み、すなわちこれこそが日本首都岡山の底流にある侘び寂びの真髄よ!」渋右衛門が床をドンと踏み鳴らすと、神社の拝殿から重厚な御影石製の伝統式・千利休公認糖度計がせり上がってきた。
「今回のルールは、千利休の教え・無差別フルーツ試合。糖度を競う前に、この桃の茶室にて桃を一服、点ててもらう。果実への所作が雑な者、すなわち『桃・たおやか』の精神に欠ける者は、計測前に精神的ブリックス値を大幅に減点される!」「へぇ、利休ねぇ……」 郷子は不敵に微笑むと、懐からいつもの新聞紙に包まれた「飲める桃」を取り出した。「ふん、相変わらず無作法な包み方だな。やはり貴様には伝統の重みが分かっていない」「あんたな、そうやって形ばかり気にするけぇ、利休の本当の心が分からんのんよ。民明書房刊『六輪の書・第六部 桃の巻』を読んどらんのか?」「……ぬ? 六輪の書だと? 武蔵は五輪の書までしか書いていないはず」「武蔵は最後にこう書き残しとるんじゃ!『敵を斬るな、果汁を飲め。固き皮を剥くは己の慢心、熟れきった桃こそが己の命なり』とな! つまり、利休の説いた『たおやか精神』の本質は、形を繕うことじゃねぇ。果実の命の流動と完全に一体化することなんよ。あんたら、そのカチカチの渋柿の中に、どれだけの流動があるん?」「な、何だと……!武蔵の書にそのような記述があるわけが……いや、しかし、あの伝説の剣豪ならあるいは……!?」渋右衛門の額に冷や汗が流れる。郷子のあまりに堂々とした(捏造)歴史の語りと、背後に漂う圧倒的な説得力の前に、柿学科の伝統的な思考回路が激しく揺らぎ始めていた。「講釈は終わりじゃ! 出しんさい、あんたの伝統の結晶を!」「お、おのれ惑わされるな我が心! 行け、「天叢雲柿」!数百年の歴史が育んだ、熟成のブリックス値を見せてくれる!」渋右衛門が柿の果肉を御影石のセンサーに擦りつける。重厚な鐘の音が響き渡り、ディスプレイに【26.0度】という、干し柿技術の限界を超えた数値が刻まれた。
「見たか! これが時をかけた重み! 26度じゃ!」「確かに大した執念じゃ。じゃけどの……」郷子は自らの「飲める桃」を、御影石のセンサーの上へ、ただそっと融解させた。その瞬間、大収穫神社の境内の空気が一変した。周囲の干し柿の暖簾が激しく波打ち、拝殿の瓦がカタカタと鳴り出す。郷子の全身から、歴代の桃農家たちの魂を宿したかのような、圧倒的な黄金色の「桃マナ」が噴出した。「あんたらが何百年守ろうが、うちの桃への愛は、一瞬でそれを超越するんじゃ!桃はの、歴史に閉じ込めるもんじゃねぇ。今を生きる人の喉を潤すためにあるんよ!桃は、飲めるんじゃけぇの!!」シュアァァァ!と音がしたかと思うと、御影石の糖度計の内部から真っ赤なマグマのような光が漏れ出した。
「警告。計測上限を突破。伝統の御影石回路が融解を始めています。ブリックス値、測定不能――無限大」
ドバァァン!!!
爆発とともに御影石の破片が飛び散り、神社の境内一帯に、濃厚極まる清水白桃の甘美な香りが立ち込めた。その香りは、渋右衛門の頑固な心を根底から包み込み、優しく溶かしていく。「おお……これは……なんと……たおやかな香り……。我々が忘れていた、果実の生命そのものの輝きか……」渋右衛門は袴が桃の果汁でピンク色に染まるのも構わず、その場に両膝をつき、涙を流した。「渋右衛門ちゃん、あんたの柿もええ渋みじゃったよ。じゃけど、時代を動かすんはいつだって、この溢れ出る情熱よ」郷子は作業着のポケットに手を突っ込み、夕日の中を悠然と下山し始めた。その背後、新首都岡山の象徴である巨大桃太郎像の瞳が、夕暮れの光の中で一瞬、優しく微笑んだように見えた。だが、この伝統の打破は、次なる学内最大の権力者集団。フルーツは贈答品である。と宣うエリート「メロン学科」との、本当の全面戦争を引き起こす引き金となったのである。
電脳温室が水没し、大収穫神社の頑固者が涙を流してから数日。岡山フルーツ大学の全権を掌握する中央塔の最上階。金箔が貼られた豪華絢爛な「メロンの間」に、郷子は呼び出されていた。待ち受けていたのは、白いタキシードに身を包み、ワイングラスに入った高級メロンジュースを揺らす男。この大学の生徒会長であり、最高権力者集団メロン学科の絶対的エリート、アールズ・公爵であった。彼の手元には、桐の箱に納められた、一玉数百万円の超高級マスクメロン。コードネーム「王冠たる君主」が神々しく鎮座している。「よくぞここまで泥臭く勝ち上がってきたね、桃源郷子。だが、君の野蛮な快進撃もここまでだ。フルーツとは、選ばれた特権階級が贈答品として丁重に扱うべき高貴な芸術。庶民がジュースのようにガブガブと『飲む』ものではないのだよ!」公爵がグラスを置くと、メロンの間の床が割れ、純金製の国家最高機密・特級糖度計が威風堂々とせり上がってきた。
「これが最終戦だ。ルールは糖度一撃必殺・国家審判。敗者はフルーツ敗者として認定されるだけでなく、この新首都岡山から永久追放処分とする!」「へぇ、高級贈答品なぁ……。じゃけどあんたら、メロンが偉そうにふんぞり返る前から、この国の歴史が誰に支えられてきたか忘れとるんじゃないん?」郷子は動じることなく、いつものように懐から新聞紙に包まれた「飲める桃」を取り出した。「ふん、その薄汚いピンクの塊が歴史だと? 笑わせないでくれ」「キリスト教の聖書、旧約聖書『創世記』六百二十五ページを知らんのか? そこに描かれたアダムとイブの『禁断の果実』……あれは西洋の画家が描きやすいように別の果物で描かれとるが、現代の最高解釈では、十中八九、岡山産の桃なんよ!人類が最初に恋に落ちたんは桃なんじゃ!あんたらがメロンにリボンを巻いて喜んどる遥か前から、桃は世界そのものを動かしとるんよ!」「な、何だと……!? 旧約聖書のあの記述が、まさか岡山の桃だったというのか……!?」公爵の完璧なエリートの仮面が、郷子の圧倒的な(捏造)歴史の熱量の前にパリィンと音を立ててひび割れた。あまりの説得力に、部屋の隅で見物していたシャイン麗華も、盛盛苺香も、柿崎渋右衛門も、「……やはり、そうだったのか……!」と深く頷いている。すでに学内は郷子の「桃の思想」に侵食されていた。「講釈は終わりじゃ! 出しんさい、あんたの最高級の芸術を!」「おのれ、惑わされるな! 行け、『王冠たる君主』! 完璧なる温室が育てた、糖度28の帝王の輝きを見よ!」公爵がメロンの果肉を純金センサーにセットする。ファンファーレの音が響き渡り、ディスプレイに【28.5度】という、全果物の限界を超えた文字が刻まれた。「ハッハッハ! 28.5度! これぞ至高! 芸術の勝利だ!」「確かに最高の糖度じゃ。じゃけどの……あんたのメロンには、誰かを本気で喜ばせたいっちゅー愛が足りん」 郷子は自らの「飲める桃」を、純金センサーの上へ、ただそっと融解させた。その瞬間、新首都岡山の街全体に異変が起きた。地鳴りが響き、旭川の流域の中央に立つ、高さ百二十メートルの巨大桃太郎像の目が、カッと真紅の光を放ったのだ。窓の外から差し込む圧倒的な黄金の光がメロンの間を包み込む。郷子の全身から、人類の歴史を塗り替えるレベルの、爆発的な「桃マナ」が噴出した。「うちの桃への愛はの……いつだってストップ高じゃーー!!! 桃は高貴な奴らのためだけにあるんじゃねぇ! この国に生きるみんなの、渇いた心と喉を潤すために実っとるんじゃ!! 桃は、飲めるんじゃけぇの!!!」
ドゴバァァァン!!!
特級糖度計が限界数値を測定する間もなく大爆発を起こし、金箔のメロンの間が吹き飛んだ。吹き抜ける風と共に、新首都岡山の全域に、空前絶後の清水白桃の「甘美でたおやかな香り」の嵐が吹き荒れる。街を行き交う世界各国の愛好家たちも、そのあまりの美味な香りに「これぞ桃源郷じゃ……!」と涙を流して狂喜乱舞した。干拓地に広がるグリーンとピンクの景色が、夕日に染まって最も美しく調和していく。「ああ……私の芸術が……メロンが溶けていく……しかし、なんという喉越しだ……!」公爵はタキシードを桃の果汁でピンク色に染め上げ、グラスを落として呆然と立ち尽くした。「公爵ちゃん、あんたのメロンも最高の芸術じゃったよ。じゃけど、これからの岡山を動かすんは、誰もが笑顔で飲み干せる、この究極の桃じゃ」 郷子は空を見上げ、頼もしく微笑んだ。
「日本の首都岡山の未来は、うちが守り続ける。……さあ、みんなで桃、飲もうや!」
背後にそびえる巨大桃太郎像が、夕暮れの瀬戸内海の風を受けながら、新首都の、そして世界フルーツ王国の輝かしい未来を祝福するように、どこまでも雄大に佇んでいた。




