第一話 翡翠の令嬢と紅蓮の電脳、あるいは糖度二連撃破(ダブル・ショット)
岡山フルーツ大学中央広場は、一瞬にして古代ローマのコロッセオさながらの熱気に包まれていた。周囲を取り囲むのは数百人の見物人。その中心で対峙するのは、ボロい作業着の桃学科二年生・桃源郷子と、白鳥が羽を広げたかのようなフリル付きの白衣を纏うマスカット学科の首席、シャイン・麗華であった。「フフフ、まさか伝説のジュニアユース・チャンピオンが、絶滅寸前の桃学科で燻っていたなんてね。でも、時代は変わったのよ桃源郷子。今の首都岡山を支えているのは、我がマスカット学科が誇る、世界フルーツ賞5年連続金賞の超高付加価値グリーンマナよ!」麗華がパチンと指を鳴らすと、黒服の従者たちが恭しくアタッシュケースを捧げ持った。開かれたケースの中から現れたのは、もはや宝石と見紛うほどにエメラルド色に輝く、一房数百万円は下らない最高級シャインマスカット。コードネーム「碧緑の貴婦人」。「さあ、始めましょう。フルーツ管理局公認レーン、展開!」麗華の叫びとともに、広場の地面から無機質な金属製のカウンターテーブルがせり上がってきた。これこそが、学生たちの命運を決める決戦の祭壇。ルールは至ってシンプルであり、そして残酷だ。
「無差別フルーツ試合ルール:糖度一撃必殺」 両者、自慢の果実を中央のデジタル糖度計にセットし、そのブリックス値(糖度)を競う。数値が1ポイントでも下回った敗者は、即座にフルーツ敗者として認定。即日、大学裏手の広大な干拓地にある果樹園へ強制連行され、一生、樹の剪定係として余生を過ごす。「ふん、相変わらずマスカット学科は道具だけは一流じゃな」郷子は鼻で笑うと、懐からゴソゴソと、お世辞にも綺麗とは言えない新聞紙に包まれた物体を取り出した。麗華の「碧緑の貴婦人」が放つ眩い後光に比べれば、それはただの、少し大きめのピンク色の塊にしか見えない。「ちょっとお待ちになって? 試合の前に、忘れては困りますわ」麗華が不敵な笑みを浮かべ、テーブルの横に設置された小さな畳のスペースを指差した。そこに置かれているのは、厳かな茶道具。否、茶葉の代わりに置かれているのは、熟した桃である。「かの千利休が説いた『桃・たおやか』の精神。試合前には必ず『桃を一服』し、果実への絶対的な敬意を示さねばならない。もし桃の扱いが雑であれば、その時点で減点……いえ、失格よ!」麗華は流れるような所作で正座し、細指で桃をそっと撫でるように持ち上げた。まさに完璧な「桃の作法」。見物人たちから「おお……!」とため息が漏れる。対する郷子は、その様子を退屈そうに眺めていた。「あんた、本当に利休の精神を分かっとんのん?」「なんですって?」「利休が本当に言いたかったんはのぅ……『余計な皮を剥くは己の慢心』っちゅーことじゃ。武蔵の『桃の巻』にも書いてあるじゃろうが。『固き皮に惑わされるな、熟れきった中身の流動を見よ』とな!」「だからそんな巻物、武蔵は書いてませんわよ!?」麗華のまともなツッコミを無視し、郷子は新聞紙を乱暴に破り捨てた。現れたのは、信じられないほどに柔らかく、まるで今にも自らの重みで溶け出してしまいそうな、淡いピンク色の清水白桃。それは郷子が品種改良ではなく、毎日苗木に話しかけ、クラシック音楽を聴かせ、果実との対・桃コミュニケーションの果てに収穫した、究極の「飲める桃」だった。「さあ、講釈は終わりじゃ。測ってもらおうか、あんたの『貴婦人』の底力を!」「言われなくとも! 行きなさい、『碧緑の貴婦人』!糖度22の奇跡を見せてあげるわ!」麗華がマスカットの粒を糖度計のセンサーにセットする。ピピピ、と電子音が鳴り響き、液晶画面に「22.5度」という驚異的な数値が叩き出された。一般的なシャインマスカットの限界を遥かに超えた、最新のハイテク農法の結晶である。「勝ったわ! 22.5度! これを超える桃など、この世に存在するはずが――」「甘いのぅ、マスカットだけに」郷子は冷ややかに笑うと、自らの「飲める桃」をセンサーの上へ、優しく置いた。いや、置いたのではない。あまりのジューシーさに、桃が自らセンサーの表面へと融解していくかのように吸着したのだ。その瞬間、糖度計のセンサーが激しく明滅を始めた。
「警告。計測不能な高密度果汁を検出。ブリックス値、急上昇――25……30……35……!」
「な、何ですって!? 桃の平均糖度は13度前後のはずよ!? 35なんて数字、ジャムでも作っているんじゃありませんの!?」「うちの桃はの、糖を足しとるわけじゃねぇ。桃の細胞ひとつひとつが、うちの愛に応えて極限まで純度を高めとるんじゃ! 見とけ、これが本物の桃源郷じゃ!!」郷子がドスを利かせた岡山弁で叫んだ瞬間、糖度計の液晶ディスプレイがバチバチと火花を散らし、ついに「エラー:測定不能」の文字を表示して爆発四散した。「ひ、悲鳴をあげる暇もなく、管理局の最新鋭糖度計がまた……!!」「糖度計を物理的に破壊した!? 計測不能の糖度だと!?」騒然とする広場。麗華はガタガタと膝を震わせ、その場に崩れ落ちた。完璧に美しかった彼女のフリル白衣が、飛び散った桃の濃厚な果汁でピンク色に染まっていく。「嘘……わたくしのマスカットが……負けるなんて……」「麗華ちゃん、あんたのマスカットも悪うはなかった。じゃけどな、まだ噛んで食べとるうちは二流じゃ。桃は、飲めるんじゃけぇの」
郷子は勝利の余韻に浸ることもなく、作業着のポケットに手を突っ込んで歩き出した。 「さあ、次はどこの学科がうちの桃に挑戦してくるん?」その背後、遙か遠くで見下ろす巨大桃太郎像が、夕暮れの光を浴びて、まるで郷子の勝利を称えるかのように鈍く輝いていた。だが、この勝利はまだ、新首都岡山を揺るがす巨大な抗争の、ほんの序の口に過ぎなかったのである。
マスカット学科の首席・シャイン麗華が糖度計もろとも爆破され、強制剪定係へと送られてから僅か三日後。岡山フルーツ大学の掲示板には、血のように赤い文字で書かれた挑戦状が叩きつけられていた。「桃学科の遺物・桃源郷子へ。春を制する者がフルーツの頂点である。次なる無差別フルーツ試合の舞台は、我が校が誇る第4電脳温室。純粋なる赤の恐怖を教えてあげるわ」送り主は、最新のLED栽培技術を駆使するハイテク集団であり、自らを「冬の女王」と自称するイチゴ学科の若きカリスマ、盛盛苺香だった。「ふぅん、イチゴねぇ。あんなちっこい果物に何ができるんじゃろ」郷子はボロ作業着の襟を正しながら、大学の地下深くに建造された第4電脳温室の巨大な防爆扉を蹴り開けた。室内に足を踏み入れた瞬間、郷子の視界を埋め尽くしたのは、目が眩むほどのピンクと青の人工LED光、そして何百台ものスーパーコンピューターの駆動音だった。徹底的な温度・湿度・二酸化炭素濃度管理。その近未来的な棚のすべてに、異常なほど完璧な三角形をした、大粒のイチゴが整然と実っている。
「よく来たわね、桃の落ちこぼれ」温室の中央、サイバーゴーグルを装着し、特注の白衣を着た苺香が冷酷に微笑んでいた。彼女の手元には、最新の量子コンピューターと直結した、一粒数十万円の超高級イチゴ――コードネーム「紅蓮の電脳」が鎮座している。「うちのイチゴ学科はね、あんたみたいな「桃との対話」だの「利休の精神」だのといった、泥臭いオカルト農業を最も嫌悪するのよ。フルーツとは科学であり、計算された糖度の暴力よ!」苺香がキーボードを叩くと、温室の天井から四本の巨大なロボットアームが降りてきた。その先端には、前回の倍以上の強度を誇るチタン製の超高精度デジタル糖度計・マークⅡが装着されている。「今回のルールは糖度一撃必殺・電脳戦。ただ糖度を競うだけじゃない。この温室の人工知能が、果実の外観、香り、細胞の均一度までを総合評価し、ブリックス値に加算する。さあ、その薄汚い新聞紙に包んだ桃を出しなさい!」
「科学なぁ。進歩しとるのは大したもんじゃが……あんたら、イチゴの歴史の深さを忘れとるんじゃないん?」郷子は動じることなく、いつものように懐から新聞紙に包まれた「飲める桃」を取り出した。「な、何よ歴史って」「民明書房刊『世界果実文明論』を知らんのか? エジプト・ギザの遺跡の最深部壁画にはの、ファラオが黄金の杯で究極の桃を口にしとる姿が描かれとるんじゃ。現代の遺伝子解析で、それがうちの干拓地で採れる桃と完全に一致した。つまり、ピラミッドを建てる活力を与えたんは岡山の桃なんよ。あんたらのハイテクイチゴは、ファラオの喉を潤せるん?」「そんなオカルト歴史、学会で認められてませんわよ! そもそもイチゴのほうがビタミンCが豊富で近代的なのよ!」苺香は顔を真っ赤にして叫び、ロボットアームを操作した。「行きなさい、『紅蓮の電脳』!計算され尽くした糖度24の極限値を見せてあげるわ!」ロボットアームがイチゴの果汁を吸い上げ、マークⅡ糖度計に注入する。電子音声が冷徹に響いた。「ブリックス値、24.2を記録。さらに形状の完璧性によりボーナス+3.0。合計27.2! 過去最高値を更新!」「勝った! 27.2よ! 科学の勝利よ!」苺香が勝ち誇ったように笑う。しかし、郷子はただ静かに、自らの「飲める桃」をロボットアームのセンサーへと近づけた。「苺香ちゃん、あんたはイチゴの形やデータばかり見とる。じゃから、果実の本当の声が聞こえんのんじゃ」郷子が桃の皮にそっと触れた瞬間、温室全体のLED照明が激しく明滅し、スーパーコンピューターの冷却ファンが悲鳴を上げ始めた。郷子の全身から、圧倒的なピンク色の桃マナが噴出する。「桃はの……形が綺麗じゃから美味いんじゃねぇ。その中に詰まった、無限の水分と情熱が人を感動させるんじゃ。桃は、飲めるんじゃけぇの」ボタ、と桃の果汁が一滴、センサーに滴り落ちた。その瞬間、マークⅡ糖度計の基盤から凄まじい火花が飛び散った。
「エラー! エラー! 糖度計測回路がオーバーフローしています。数値、50を突破……計測不能、無限大――」
ドゴォン!!!
爆音とともにロボットアームが吹き飛び、温室のメインサーバーが次々とショートして黒煙を上げた。完璧に管理されていた電脳温室のガラスがすべて粉砕され、室内に本物の「桃の濃厚な甘い香り」が嵐のように吹き荒れる。「キャァァァ! 私の量子コンピューターが! イチゴのデータが全消去されていく!?」苺香は爆風でゴーグルを飛ばされ、床にへたり込んだ。彼女の自慢のハイテク白衣は、飛び散った桃の果汁で無残にもピンク色に染まっている。「科学のデータじゃ、うちの桃への愛は測れんよ」郷子は爆煙の中を、平然と歩きながら温室を後にした。「さあ、春の果物論争はこれで終わりじゃ。次はどこの学科が来るん?」壊滅した電脳温室の天窓から、新首都岡山の象徴である巨大桃太郎像の頭部が、夕闇の中に毅然とそびえ立っているのが見えた。桃学科の伝説による連勝街道は、学内のさらなる古参勢力。保守・伝統派の「柿学科」を呼び寄せることになる。




