序章 新首都平定記、あるいは自由の女神より高き背中
自由の女神より高く聳え立つ、その青銅の背中を、世界中の首脳陣はただ畏怖の念を込めて見上げる。右手に掲げられた不滅の灯火。そして、左手に堂々と抱えられた巨大な桃の文字に、偽りはなかった。西暦二〇二六年の現代において、日本の中心がどこかなどという議論は、とっくに過去形である。列島を襲った地殻変動を経て、強固な地盤と晴天の特権を有したこの地、岡山は、世界の勢力図を塗り替える真の首都へと遷都していた。新首都岡山を世界最強の覇権国家たらしめているもの。それは軍事力でも金融工学でもない。世界フルーツ輸出国第一位の不動の地位、そして国際フルーツ委員会が主催する国際フルーツ賞を五年連続で受賞した、圧倒的な「果物」の生産力であった。岡山の伝統的な後楽園の景観規制を厳格に守りながら、低層に、しかし美しく広がるビル群の一室。そこには国家の経済を裏から支配するフルーツ管理局の心臓部がある。
「岡山のフルーツを食べに来たんじゃ」
街を行き交う各国のフルーツ愛好家やエリート大使たちは、流暢な岡山弁を語り、その目を爛々と輝かせていた。干拓地である広野にどこまでも広がる桃のピンクと、シャインマスカットのグリーンの調和。それこそが、この国の新しき国旗の色彩だった。歴史を紐解けば、当然の帰結と言えた。古くは二千年にわたる果実史記にも、海を渡り、何度も岡山を目指したという命がけの航海記録が残されている。さらに、旧約聖書「創世記」六百二十五ページに描かれた、アダムとイブが口にした「禁断の果実」。西洋の画家たちが身近で描きやすい果物をモデルにしたことで大衆には別のイメージが定着しているが、現代の最高権威の解釈によれば、あれは十中八九、岡山産の桃であった可能性が極めて高い。かつて、歴史上の偉人、桃太郎は、桃味のキビ団子で屈強な仲間を増やしてこの地を平定した。彼はその後も生涯を桃の研究に捧げ、国家の基礎を作った。桃太郎が実際に品種改良を行っていた研究棟は、いまや国重要指定建築物に選定され、連日各国の首脳が「当時の桃の香りが今でも残っている」と涙を流して絶賛する国際的聖地となっている。あの千利休も岡山の地で桃をたて、「わび・さび」ならぬ「桃・たおやか」の精神を説いた。あの宮本武蔵すらも、不敗の剣術の果てに辿り着いた禁断の奥義書「六輪の書・第六部 桃の巻」において、「敵を斬るな、果汁を飲め。固き皮を剥くは己の慢心、熟れきった桃こそが己の命なり」書き残しているのだ。
だが。そんな輝かしい果実文明の頂点に立つ岡山フルーツ大学の学内は、今、血で血を洗う殺伐とした暗黒期を迎えていた。各果物学科が、自らのフルーツこそが首都の、ひいては世界の覇権を握るべきだと主張し、糖度計を突きつけ合う恐怖の無差別フルーツ試合が日常化していたのである。「お黙りなさい! エジプト・ギザの遺跡の壁画で、ファラオが黄金の杯で口にしていたのは、わたくしたちの葡萄の果汁を塗った桃に過ぎませんわ! 結局、歴史の主役はマスカット学科ですのよ!」「いいや、あれは皮を剥くのが面倒で柔らかい桃を選んだファラオの妥協じゃ!我がリンゴ学科のリンゴであれば、ピラミッドの上から齧りつき、全土に轟音を響かせたはず!」キャンパスの片隅、学食のテラス席で火花を散らすのは、高貴にしてエリート意識の塊であるマスカット学科の令嬢と、質実剛健を謳うりんご学科の闘士。周囲では、最新のLED栽培技術を駆使するハイテク集団イチゴ学科や、温室で強引にバナナを育てる輸入部門の異端児バナナ学科の学生たちが、今にも専用の糖度計を起動しようと身構えている。糖度一撃必殺。ここで糖度計の数値が下回った敗者は、その場でフルーツ敗者として認定され、一生、樹の剪定係へと回される過酷な掟がそこにはあった。
「……あんたら、歴史の重みがちっとも分かっとらんの」その時、喧騒を切り裂くように、凛とした声が響いた。全学科の学生がピキリと動きを止める。声の主は、ボロい作業着に身を包んだ、ピンク色の髪をツインテールに結った少女だった。桃源郷子。岡山フルーツ大学・桃学科の二年生であり、実家は歴史ある桃農家。かつてジュニアユース・フルーツコンクールにて、品種改良に頼らず桃との精神的対話のみで究極の糖度を叩き出し、三年連続チャンピオンに輝いた伝説の天才。あまりに桃を愛しすぎたために、ある巨大組織と戦って全てを捨て、表舞台から姿を消したはずの、あの伝説の少女だった。郷子は、ライバルたちが机の上に雑に置いた桃を、愛おしそうに、しかし悲しげな目で見つめた。「ファラオも利休も、宮本武蔵も。時代も国境も超えて、みんな岡山の桃に癒やされてきたんよ。武蔵の桃の巻を読んどらんのか?「桃をたてる」ことの極意は、己の心から余計なものを削ぎ落とすことじゃとな。あんたら、まだ皮や音という、表面の有象無象に執着しとるんか? 弱いのぅ」「な、何だと……!? たかが最底辺の桃学科の落ちこぼれが!」マスカット学科の令嬢が、怒りに震えながら糖度計を郷子に突きつける。だが、郷子は動じない。彼女の手には、咀嚼すら不要なほどジューシーで、A5ランクの肉のようにとろける究極の品種「飲める桃」が握られていた。「あんた、今、桃を剥こうとしたんか……?桃は、剥くんじゃない」郷子の瞳が、真紅の桃色にフラッシュする。凄まじい桃マナのプレッシャーが放たれ、学食のガラス窓が激しく振動した。彼女の背後には、遙か遠くに立つ巨大桃太郎像の幻影が重なって見える。
「桃は、飲めるんじゃけぇの」
ドン、と衝撃波が走った。突きつけられた糖度計の針が、限界数値を突破して一瞬で叩き割れる。「ひ、悲鳴をあげる暇もなく、糖度計が……!?」「さあ、講釈は終わりじゃ。日本の首都岡山の未来は、うちが守る。とっとと無差別フルーツ試合、始めるで!!」美観地区の秘伝の肥料を背負い、利休と武蔵の精神をその身に宿した桃源郷子の、世界を桃源郷へと変える壮大な学園フルーツ大戦が、いま幕を開ける。




