第九話:やっぱり『そういう相手』なのかなって
連休明けの仕事は大忙しで、五月は毎週があっという間に過ぎていった。
金曜日の夜はいつも、芦田くんと会っていた。
彼から呼び出されたり、私から彼の部屋へお邪魔させてもらったり。
毎回、会った瞬間に抱き合わずにはいられなかった。
そのまま会えなかった時間を埋めるように、お互いの渇きを潤すように、肌を重ねる。
二人とも予定がなければ、そのまま週末を一緒に過ごすことが多かった。
「……え。それ、付き合ってるんじゃないの?」
前から気になっていたスペインバルのカウンター席。
隣に座る杏奈から、呆れたような目を向けられている。
「……いや、付き合ってないんだけどさ」
美味しい生ハムとスパークリングワインを堪能する私の横で、杏奈は大人しくノンアルコールのサングリアを飲んでいる。
先日、ついに『取引先とのお酒の席で居眠り』というやらかしをしてしまったらしく、今日は懺悔の意味を込めてお酒を控えているのだ。
「言葉にしないだけで、向こうは付き合ってるつもりかもよ?」
「いや……でも、外には絶対行きたがらないから。やっぱり『そういう相手』なのかなって」
私が弱々しくボヤくと、杏奈は「えーっ! 澪がダメな大人の階段昇ってる〜!」と両手で目を覆って大げさに嘆いた。
とはいえ、これだけ多くの時間を一緒に過ごしているのだ。
今の彼からは、少なくとも他の女性の気配は感じていない。
元彼の拓巳がしていたように、知らないうちに『誰かの浮気相手』にされている心配だけはなさそうだと、そこだけは少し安堵していた。
「ところで、まだきてるの? 拓巳からの連絡」
ふと、声のトーンを落とした杏奈に聞かれる。
――そう。
先週、拓巳から連絡があった。
別れた日以来、初めての連絡だった。
着信があったけれど出ないでいたら、メッセージが届いていたのだ。
『澪、やっぱり一回話したい。連絡待ってます』
返事はしていない。
話したとしても……今さら私の決断が変わるわけでも、裏切られたショックが消えるわけでもない。
ただ、彼自身がスッキリしたいだけなんだろうなって。
そんな彼の自己満足に付き合いたくない、と冷めた感情を抱いてしまった。
一緒にいた頃の記憶は、それはそれとして良い思い出としてしっかり消化できている。
それでいいじゃないかと思っている自分がいた。
◇
『……高梨。俺、高梨のことが好き。彼女になって!』
同じクラスで仲の良かった拓巳からの、ストレートな告白。
周りが「早く付き合えよ」と囃し立てるほどだったのに、彼からは特にアクションがなかったので半分諦めかけていた。
それなのに、卒業式というお別れの日に、顔を真っ赤にしながら伝えてくれたのだ。
『……うん。私も好きだよ』
嬉しくて、返事がちょっと涙声になってしまったのを覚えている。
『あーっ、仕事しんどーい! 拓巳〜』
『よしよし』
入社して間もない頃、慣れない仕事に弱音を吐く私。
彼は優しく頭を撫でてくれた後、ふと真面目な顔つきになった。
『……あのさ。俺たちもう付き合ってだいぶ経つじゃん? 同棲とか……っ、結婚とか!! した方が、支え合えるかな、って』
『えっ、何それ。プロポーズ?』
目を逸らしながら言う彼を、私は驚いて見つめた。
『いや……ちゃんとしたのは後でするけどさ……』
ゴニョゴニョと照れ隠しに誤魔化す彼。
でも、私のことをそんなふうに真剣に考えてくれていたことが素直に嬉しくて。
『……うん。これから一緒に考えていこっか』
私が微笑んで答えると、彼も心底ホッとしたような顔をして笑っていた。
◇
「――…………っ」
ハッと目が覚める。
拓巳との過去が、よりによって夢に出てきてしまった。
隣を見ると、芦田くんの静かな寝顔があった。
今日は夜になっても蒸し暑かったから、彼は上半身裸のままシーツに包まって寝ている。
数時間前、杏奈と飲み終わってスマホを見ると、彼から『来る?』と誘いのメッセージがきていた。
まだ週の真ん中で明日も当然仕事だけど、拓巳からの連絡のせいで心がモヤモヤしていて、つい誘われるがままこの部屋に来てしまったのだ。
朝一で自分の家に帰り、仕事用の服に着替えてから出社しないといけない。
「……ふう……」
夢の残像がよぎって小さく息を吐き、彼を起こさないようにそっとベッドを抜け出してベランダに出た。
時間は深夜三時過ぎ。
外は真っ暗で、川辺に均等に並んでいる電灯の明かりだけが、川の水面をゆらゆらと照らしている。
もうすぐ六月に入る。
頬を撫でる夜風からは、微かに初夏の香りがした。
「……高梨?」
しばらく夜風に当たっていると、部屋の中から私を呼ぶ低い声がした。
少し前から、彼は私のことを自然と呼び捨てにしている。
耳に馴染んで、ひどく心地いい声。
「……あーっ、ごめん。また起こしちゃって……」
振り返ると、Tシャツを羽織った芦田くんがベランダに出てくるところだった。
その手には煙草が握られている。
「寝られなくなった?」
気怠そうに尋ねながら、シュポッとライターで火をつけ、静かに吸い始めた。
「……ちょっと、嫌な夢見て」
「……ふーん」
深くは追及せず、彼はいつもどおり、私の右側にぴったりとくっついて並んだ。
暗闇の中で赤く光る煙草の火を、私はじっと見つめる。
「……吸ってみる?」
私の視線に気づいた彼が、吸いかけの煙草をスッと差し出してきた。
私は黙って、彼が差し出すそれを、そのまま咥えてみた。
キュッと口をすぼめて、すうっと息を吸い込んでみる。
「――げほっ、げほっ!」
案の定、吸い方が絶対間違っていて、派手にむせて咳き込んでしまった。
全然、芦田くんみたいにカッコよくできない。
「まあ、そうなるよな」
彼が面白そうに低く笑いながら、私の背中を優しくさすってくれた。
私の唇から回収したそれを、彼はそのまま自分の唇へ戻す。
やがて短くなった煙草の火を消すと、彼は私の肩を抱き寄せ、部屋の中に入ろうと促した。
「……眠れないなら、寝かせてあげよっか?」
耳元で、意地悪で甘い声が降ってくる。
彼がどういう意味で言っているのか想像がついてしまい、頬が熱くなるのを感じた。
「……いーから!」
顔を真っ赤にしてお断りする私を、彼は満足そうに笑いながらシーツの中へと引きずり込んだ。




