2.月が刻む決意(最終話)
「侑生、もういい加減帰れって」
「そうだ。私たちで残る仕事は片付けられる」
腹心の部下に口々に言われ、紫袍に身を包む青年――李侑生が眉をひそめた。ただし、その眉の下で二人を見上げた瞳は一つしかない。もう一方は眼帯で覆われている。その下には切傷痕があり、ふさがって間もないことから、眼帯に覆われていない部分にも赤味と腫れぼったさが見られた。
それでも侑生が元から有する美貌は健在で、眼帯の上下に走る切傷痕がもう少し薄くなり肌の調子が落ち着けば、他人は彼の悲劇の痕をむやみに視界に入れることもなくなるのだろう。
部下の一人、大柄な体と陽気な性格が特徴の呉隼平が、上司である侑生の肩を気軽に叩いた。
「今日は久しぶりの仕事だったんだしさ、こういう時はお兄さんたちに甘えなさいって」
「そうだぞ。今日ばかりは隼平の言うとおりだ」
もう一人の部下である高良季が真面目な顔つきでうなずいた。目も口も、顔を構成する何もかもが彼の実直な性格を如実に表している。
「良季ちゃんさ、その言い方なくない?」
「何を言っている。お前のふざけた態度で私がいつもどれほど迷惑をこうむっているのか分かっているのか」
上司を放置しいつものごとく言い合う二人は、侑生の依怙地な心を少し軟化させた。
「……そうだな。今日は二人に任せて先に帰らせてもらうとするよ」
「お、そうか」
にかっと笑った隼平の笑顔は純なものだ。良季もまた静かな笑みを浮かべている。二人が侑生のことを思いやる気持ちは、こうしたちょっとしたことに察せられた。だから侑生もこれ以上は宮城に残らないことを決めた。
と、帰ろうとする侑生の隣に良季が立った。
「私もご一緒していいですか」
「ああ、それはかまわないが」
「おい良季! なぜそこでお前まで帰ろうとする!」
言いすがる隼平に良季がしらっと答えた。
「私の仕事はもう終わっている。あとは隼平に関する残務しかないからな」
「いや、それは分かってるけどさあ」
きちんと己がすべき仕事の内容を把握しているのは緋袍の最上級官吏、枢密院事であれば当然のこと。
「でも良季ちゃんは俺につきあってくれるとばかり思っていたのに」
「いやいや、お前につきあっていたら俺は寝て起きて仕事をするしかできなくなってしまうだろうが」
「ええー、いいじゃんそれで」
「いいわけがないだろう!」
「私がやろうか?」
そう提案した侑生に、隼平はあわてて両手を振ってみせた。
「いいや、これくらいは俺一人でできるから! 全然平気だから!」
「だそうだ」
言質をとったとばかりに良季が侑生の肩に手を回した。
「では私たちは帰りましょう」
「あ、ああ。ではまた明日な」
「おう! また明日!」
やや涙目になりつつも隼平は笑顔で締めくくった。
*
そして侑生と良季は同じ馬車に乗っている。
普段、侑生は自ら馬を駆って宮城と家とを往復する。だが顔に負った怪我が人目に触れるのを嫌い、しばらくは馬車を使うと決めている。いらぬ詮索をされたくはないし、同情されるいわれもないからだ。
今も侑生の顔には疲労の色が見えたが、傷そのものに劣等感を抱いているようには見えない。
「……侑生は強いな」
「そうか?」
「ああ。なぜそうも心を強く保っていられるんだ?」
顔を斬られ片目を失ってしまったこともそうだが、愛する少女が行方不明の現状を考えれば、もう少し家で休養しつつさざ波立つ心のままに泣き濡れて暮らしていてもいいような気もする。
実際、侑生の姉である清照はそうだ。
弟の一件以外は何も知らない、つまり楊珪己や袁仁威が行方不明であることを知らないというのに、清照はこの数か月ずっとふさぎ込んでいる。季節はとうに夏を過ぎさり初秋に移行しているというのに、だ。
良季は時間を作ってはまめに李家を訪問している。ここ開陽で親しい友人もおらず、家人には気丈に振る舞ってみせる清照も、良季の前でだけは弱音を吐き涙を見せることができるようだった。清照を労わることで上司である侑生の負担が減るだろうことは想像にかたくなく、それゆえ良季は清照のそばにいる。
そういう清照をつぶさに見ているからこそ、良季は己の上司の強靭な精神に感服してしまうのだ。
「私は強くはない。だがもう決めたことがあるんだ」
「なんだそれは」
「玄徳様と共に在ること、そして珪己殿だけを愛し続けることだよ」
その少女の名を出されたのは怪我を負った頃以来のことで、日頃冷静沈着な良季でも驚きを隠せなかった。それをちらりと見て、侑生はどこか遠くを見るような目つきになった。
「そのために私がすべきことは分かっている。今日、玄徳様に伝えたよ。私は新年をもって中書省へと異動する」
「……それは本当か?」
良季の驚きは真正のものだった。
その理由は当然、侑生の言動が理解できないせいである。
「なぜそれで玄徳様のそばを離れることを選ぶことになるんだ」
「いいや、それは違う」
そう言って見返す侑生の瞳には、良季の上司たる英知の光が確かに見えた。
「玄徳様の理想とする国を作るためには、私こそが中書省へと行くべきなんだ。そうして、玄徳様と私でこの国をより良くしていくことこそ私に与えられた使命だと、そう思っている。同じ思想を胸に抱いて同じ方向を見ること、それこそが『共に在る』ということだと思う。違うか?」
「いや、だが。……そう、それに珪己殿を愛しているのであれば、枢密副使のままでいる方が得策ではないか。軍隊を使って国内を探索するとか、やるべきことはあるだろう? お前がそう命じたらすぐに行動にうつせるようにと、俺と隼平とで内密に調査もすすめていたんだぞ?」
「ありがとう、良季」
薄く侑生が笑ってみせた。
「だがそれも違う。それは玄徳様一人でできることだし、その玄徳様がいまだ実行しないということは、今はそれをするべき時ではないということなんだ。袁仁威がそばにいるのだろうから、その身に危険が生じることもないだろう?」
「……分かっている。それは俺も隼平も分かっている」
苦しげに吐き出した良季に、侑生は物思うような表情になった。
「すまないな。お前たちには心労をかけている」
それに良季が緩く首を振った。
侑生が言った。
「私もね、良季と隼平と離れるのは正直寂しいよ」
「だったら……! だったら枢密院にとどまれ! 俺たちの上司であり続けろ!」
突然部下が見せた激情に、侑生は軽く目を見開き、ややあって柔らかく細めた。
「すまない、でももう決めたんだ」
もう決めた。
それは最初に言ったとおりのことだった。
玄徳と共に在ること、珪己一人を愛し続けること。
その二つだけを乞い願うと決めたからこそ、侑生は中書省へと異動することを自ら選択したのだ。
「だったらなぜ……なぜお前はそうも悲壮な面持ちでいるんだ」
どんな言葉で着飾ったとしても、侑生から放たれる気配は以前に比べて明らかに違ってしまった。悲しみと辛苦に染まっていることが見てとれる。あの怪我、あの豪雨の翌日以来ずっとだ。その闇色の心の痛みを侑生はあるがままに抱えている。しかもその痛みを後生大事に抱えているようにも見える。侑生のことをよく知る二人の枢密院事も、侑生の上司である楊玄徳も、そんな侑生のことを心配している。
「もしも本当に辛いのであれば、何もかも捨てていいんだぞ」
「……良季?」
侑生の発した声も振り向いた際の表情も純なもので、だからこそ良季はこれまで言いたかったことを抑えることができなくなった。
「お前の愛は崇高すぎやしないか。辛くて苦しいだけの感情なら、普通は捨てるものだ。捨てて、自分を幸福で満たしてくれるものを代わりに探すものだよ。それが人間ってものだろう、違うか!」
「それは人のもつ性質の一つでしかないよ」
侑生がひたと良季を見つめた。
「代わりの利かないもの、唯一のもの。愛だけのことではない、誇りでも信念でも、譲れないと思うものが見つかれば命を賭してでも護りたくなる。それもまた人だろう?」
「……そうやってお前は俺たちを捨てるんだな」
良季が苦しげに吐き出したそれに、侑生は何も答えなかった。
ただ、窓からのぞく外の光景に、「あ」と小さく声をあげただけだった。
「そうか、今夜は月食か」
それからは、李家に到着するまで馬車の中は無言だった。
欠けゆく月はわずかな時間周囲に暗闇に包んだが、二人を乗せた馬車は星々の瞬きや界隈の灯りを頼りに速度を緩めず街中を駆けつづけた。やがて月が元の大きさに戻れば、先ほどの現象は夢幻のごとくとなっていた。
この夜、東西南北、湖国では月が食われる様を娯楽として楽しんだ者が多かった。
だが開陽においては違った。
ある者は祈る声を張り上げ、ある者は空から目を背けた。またある者は光源の一切ない部屋で仕える者の未来を憂い、ある者は自分自身の愛の行く末を想った。
だから月が真円の形を取り戻した後も、そんなごく少数の者たちの心には拭いきれない淀みが残ったのだった。
(たとえ一寸先には闇しかないとしても、光が見えなくても……)
(それでも私は前に進む……それしかないんだ)
この夜の月は侑生の決意を確固たるものとした。
新篇、放浪篇の第一巻に最後までおつきあいくださりありがとうございました。
サブタイトル「時を止めて」と願うのは、さていつのことか。今この瞬間という人もいましたし、過去のひと時を乞う人もいますが、そう思いたくなる彼ら彼女らにぜひ思いを馳せてみてください。
*期間限定、完結から一か月程度、web拍手に本作品のおまけ小話を入れています。
ぜひお読みください。
以下、ネタバレ等含みますので、未読の方には推奨しません。
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少女篇のあとがきで常々書いていましたが、作者はかなり先の部分まで執筆したうえで、内容に確信をもってからこのサイトに公開しています。
ですが少女篇五巻公開時点では、続きに相当する記載は原稿用紙十枚程度のストックしかありませんでした。
ですので本篇を執筆するために、今後どういうストーリー展開にするべきかをまず深く検討しました。
まず当然、楊珪己と袁仁威の二人、そして二人の関係の変化に焦点を置くこと。
そのために李侑生や皇帝からは心理的にも距離を置かせました。
次に採用すると決めたのは、これまでの舞台である都会(=開陽)とは違う地方の風景を描くことでした。
この二つを前提として、あらためて生き方を見直すストーリーとなった次第です。
開陽を出て、楊珪己は少女篇一巻のように無知な自分を自覚させられます。
ただ、こういうことは誰にでもあることで、けっして恥ずかしいだけで済ませることではないと作者は思っています。
人生におけるつまづきを糧にして成長していく姿を描ければ……そう作者は思っています。
あ、もちろんそれは楊珪己だけではなくその他登場人物にも言えることです。
ここで少し書くと、
実は少女篇五巻の後半の執筆時、袁仁威と二人で開陽を逃げ出す未来を採択することには少し悩みました。このまま開陽という都会で皇族らも加えて華々しい世界で右往左往する楊珪己を描き続けてもいいのではないか、と。
ですけどそれはやめました。
なぜかというと、それでは少女篇一巻のあとがきに示したようなダブルヒーローが成立しなくなるからです。あそこまでの流れだと、どうしても皇帝と李侑生に焦点がいきやすくなってしまいますから。それは二人の性格や決断の所以なのですが、袁仁威の変化をより多く描写したいという思いがあり放浪させる選択をとりました。
この選択に納得いかない読者の方がいてもおかしくないと思います。
が、敢えてそうしたことで登場人物の内面により深く入り込んでいければと願っています。
さて、話は変わって。
今回、新しい主要人物が本シリーズに加わりましたがどうでしたか?
これまでの計五巻、少女篇では、行動の一つ一つをつぶさに説明できるような設定を採用しており、そういう登場人物ばかりでした。ですが彼については作品中でも述べている通り「なんでこんなことしちゃうんだろう」という不思議キャラになっています。
大事なことなのになぜ自分がそうしてしまうのか分からない、ということ、ありませんか?
彼にはそういう人の不思議さを表現してもらいたくて登場してもらいました。
作者自身は彼に似た性質があるので親近感を抱いています。
最後に。
本作は十万字程度とシリーズ中では文量が少なめでしたが、季節は一気に一つ変わるまで話を進めました。
少女篇が計五巻、七十万文字かけて春から夏の手前に変わったのに比べればだいぶ早いです。
そして少女篇の中でほぼ膠着状態であった男主人公の一人と、明らかに深い絆が生まれました。
その絆がどのように変化していくのかは、ぜひ次巻でお楽しみください。
次巻は現在、四万文字程度は執筆してあります。
次は早くて晩秋、遅くとも年明けと予想します。
ご感想をいただけるととてもうれしいです。
それでは本当にありがとうございました!




