十五歩目【敗北】
月曜日の朝。書文が負けてからの週明けの朝。書文は早くから教室で一人練功に勤しんでいた。この日は冷人や燃児とも別に登校し、誰もいない教室で、書文は馬歩功(空気椅子)を始めた。
両手で砂袋を握り腕はまっすぐ正面に伸ばす。その姿勢を維持することで足腰だけでなく握力と肩も鍛える。八年間続けてきた、基礎の一つだ。手の中の砂袋も随分と古く、これまでに何枚破いてきたかわからない。
全身にうっすらと汗を滲ませながら、書文は瞑目して物思いに沈んでいた。
物思いというよりは反省、反省というよりはイメージトレーニングか。
先の四対一のことを考えていた。先日の敗北のことを。
あの時どうしていればよかったのか。どう動いていれば勝てたのか。それを考える。何度も何度も。
イメージの中の書文は実にカッコよかった。華麗に一撃を決め、勇壮な打撃を与え、壮麗な攻撃を加えて優美に残心すらしてみせた。
イメージの中で、敵は敵ではなくただの丸太。人の形をしたサンドバッグでしかなく、カッコイイ書文にやられ不様に転がるだけだった。
書文は、そんな妄想しかできない自分に苛立っていた。
実戦経験が足りていないのはわかっているつもりだったのに、己の下策でボコボコに打ち据えられたのに、なおも自分に都合のいい、気持ちのいい妄想ができる自分の能天気さに腹が立った。
経験が足りていない。身の程を知らない。
八年の修業がなんだ。こんなもの、鏡を相手にじゃんけんしているようなものじゃないか。全てが無駄だった、などとはもちろん思わない。思わないが、しかし全てが有益だったわけでもない。
実戦は思い通りにはいかない。修業の成果を実践させるための修業が要る。
一番手っ取り早いのは、やはり経験を積むことだろう。回数を重ね、自分の武を錬磨し最適化していく。言ってしまえば普通のことだ。実戦に実戦を重ね、経験に経験を積み、致命的な怪我を追うことなく武人としての完成を目指す。
やはり普通のことは、難しい。
武道という下り坂は、もしかしたら上り坂よりも厳しいかもしれない。
「お、勝負だ武林!」
思索に沈む書文にそう声をかけたのは、土日を挟んで二日ぶりの山中だった。朝の挨拶よりも早くたたき付けられる挑戦状。気付くともう教室には他の生徒も大勢いた。思ったより時間がたっていたらしい。
「うん、いいよ」
書文は特に気負うこともなくその挑戦を受け付けた。周りの生徒たちはそんな二人を気にもとめず授業の準備や談笑につとめている。始めのうちはこの二人のカードも注目されたものだが、元経験皆無の書文の勝利が盤石となっている。
他ならぬ山中との試合によって、書文は経験皆無から経験不足へとランクアップを遂げている。 ずぶの素人、対する現経験不足の拳士。
その試合は、書文がいかにして勝つかという消化試合の様相を呈しているのだ。懲りずに足掻く山中を讃える声すら上がっている。
そんな意識は書文の中にもある。現に今書文は、自信への鬱積を山中で晴らそうとすら考えているのだ。
ようするに、八つ当たりをしたいのだ。
自分が勝つことを疑っていない。根拠のない自信ですらない、これは紛れも無い油断である。今日の山中はいつもと違うと、そう気付かないのだから。
もっとも、山中の変化に気付いたものはどれほどいたか。教室に入るとほぼ同時に挑戦をした山中は、誰の目にも留まっていない。そのせいで、クラスメイトの大半は気付いていない。
今日の山中は、前髪が目に掛かっていない。顔にアクセサリーを付けていない。靴の踵を踏んでいない。ズボンをずり下げていない。
グローブを付けて面と向かい合っても、武林書文はそのことに気付いていない。
●
山中が構えを取る。書文も応じる。力の抜けた三才式。
教士の立会いのない野試合のこと。当然よーいドンの掛け声はない。両者が構え会った時から、あるいは向かい合った時から、あるいは試合の了承を受けた時から。すでに試合は始まっている。
「やぁっ!」
先に仕掛けたのは山中だった。バタバタと力強い刻み足で距離を詰め、振りかぶることもなく右の拳を突き出した。書文はその突きを左手刀受けで切り落とす。対して力の入っていないその突きは、いともたやすく払われた。
左手で払い、体の開いた書文を、すかさず山中の左拳が襲う。
「っ!?」
肉を打つ音。走る衝撃。困惑する思考。
「はぁぁぁぁぁぁ・・・・・!」
一瞬動きの止まった書文に、山中が左右の拳で猛烈な連打を放った。顔だけに留まらず、喉胸肩腹、常に痛みと衝撃が走りつづける。
書文が辛うじて防御を上げると、今度は足の指を踏み付けられた。脳天まで突き抜けるような強烈な痛みに書文の体が硬直する。その隙を逃さず、山中の蹴りが書文の腹を捕らえた。
「がぁ、っは・・・」
油断していたところへの痛打。腹を庇うように背を丸める書文に、山中は追撃をかけようとする。そこへ一条の剣閃が走り、凛とした声が両者の間を切り裂いた。
「そこまでっ」
試合の趨勢を見守っていた刃月が、山中の追い打ちを竹刀で止めたのだ。
「今の蹴りで充分決定打。喧嘩じゃないんだから、その追い打ちは不要だよ」
刃月の鋭い目で射竦められ、たじろいだ様子の山中は大人しく体を開いた。拳を下ろし、サポーターを外していく。
「試合ってからには、確かに余計だったかもな」
山中はそう呟いてから自分の拳を見つめた。グローブを付けていたから大きな傷はないが、連打に慣れていないせいか当たり所がまちまちで、中指の中ほどが切れている。書文の前歯で切ってしまったのだろう。傷は小さく、大袈裟な手当は必要ないだろうが、傷口を洗わないと雑菌が入る。歯で切った場合はなおさらだ。
しかし山中は、その傷を見て痛がるでも悔しがるでもなく、目を細めて嬉しそうに笑った。
「へへっ・・・・・・・、勝った・・・・・・・・」
ぼそり、と。
ついつい漏れてしまった、というように。
声量に反比例するかのように込められた歓喜が、書文の耳朶に染み入った。
その染みが広がるように、じわりじわりと書文にも実感が沸いて来る。余裕で払ったはずの手の影に次の手があって、その突きをくらったらすかさず次がきて、殴られ殴られ、刃月に助け入られて。
負けた。
●
「くよくよしてる暇はねーぞ書文」
朝のHR終了後。一限目までの時間を、机に突っ伏してくよくよしている書文に激を飛ばしたのは誰であろう大山冷人だった。
「ただただ落ち込んでるだけじゃねーだろうな。なんで負けたのかとかちゃんと理由考えてるか?」
「・・・・・・・」
「考えてるか?」
「・・・・僕が、弱かったから・・・?」
「ブー、ハッズレー」
蚊の鳴くような書文の返答をしっかり聞き取りつつ、冷人はおどけたように否定した。
「個人の武力ってのに総量があるとして、環境や体調管理や位置どりなんかのもろもろを度外視してそれを計れるとしたら、それは書文の方が多い。間違いなくな。お前はもっと自分の八年間に自信を持て」
「僕の方が強いのに、負けたの・・・・?」
「書文の方が強い。山中の方が強い。だが、それと勝負の勝ち負けは、別の話だ」
そう言った冷人の顔はもうおどけていない。その真摯な眼差しを受けて、書文はその言葉が大事なものであることを直感した。
強い弱いと勝ち負けは、別の話。
「武術の世界は弱肉強食なんかじゃない。そもそも体格体力筋力が劣る、いわゆる弱いものがそうでないものに勝つ為の技術が、武術だ。弱肉強食なんてもっとも似つかわしくねー言葉だよ。俺みたいなガキが偉ぶって言うようで気が引けるが、いいか書文、覚えとけ・・・・」
「武術の世界は、適者生存だよっ」
「飛鳥・・・」
冷人の言葉の結びを口にしたのは、いつの間にか書文の背後に依っていた植芝飛鳥だった。宝蔵院燃児と東郷刃月もいる。
「まさか今更負けたくらいで落ち込んでいるとは、思わなかったぞ書文」
「そう言わないの。書文は負けるの、まだ三回目なんだ。それもここ最近ずっと負けなかった相手にだよ?」
「そのショックはあるかもねー」
「ショックを受けるのは構わんが、早く立ち直れと言いたいのだ」
「立ち直れって言われて立ち直れるものでもないでしょ?」
「む、言うは泰志行うは孝志、か」
「誰だよ泰志孝志。誰だか知らねーけどよさそうなコンビネーションだな。そして飛鳥、オレの決め顔が無駄になったどうしてくれる」
「で、書文くんのが強いのにどうして負けたかって言うとね」
「ぇ、え」
「ずばり、書文くんの観察不足と書文くんの油断と書文くんの慢心と山中くんの成長だね」
右手で三本指、左手で一本指を立てて飛鳥が言った。冷人の言葉は無視する姿勢である。相変わらずの急な話題転換に、どうしても書文は意識の切り替えが遅れてしまう。
「書文、ここのところずっと勝ってたからって山中くんを侮ってたんじゃない? 私も経験あるけど、そういうときは往々にして負けるよ」
「そういう意味じゃ、相手が山中で良かったかもな。武活とかそれ以外の喧嘩とか、相手によってはもっと深刻に、手酷く負けることだってあっただろーし」
「山中と言えば、土日を挟んで見違えたな。服装が整っているし、グローブもサポーターも付けていた」
「・・・・あっ!」
「今気付いたのか?」
「うん、全然気付かなかった・・・」
書文は自分で自分の間抜けさに驚いていた。一週間余り毎日試合をしておいて、その特徴を全く捉えていなかったのではないか。思い返して見れば、構えも服装もまるで違っていたではないか。
「誰かに師事した、という風ではないな」
「だな。流派によって鍛え方はちげーけど、それにしたってまずはあのガタガタの立ち方から直すだろ」
「なにかのビデオでもみたんじゃない? あの手をグルグルーってやつ、詠春拳とか翻子拳で見たことあるし」
「土日で練習したんだろうね。さっき筋肉痛が痛いってこぼしてた」
「その発言はおいておいて、しかし練習してすぐに活かしてきたわけか」
「服装を正したのも、その影響かな? 意外と勉強家かもね」
「練習・・・・、勉強・・・」
書文が半ば無意識のうちに呟く。
そうか、そうだよね。
目から鱗が落ちた気分だった。自分以外の人間だって、練習もするし勉強もする。そんな当たり前のことに、書文は思いが至らなかった。自分の鍛練でいっぱいいっぱいで、鍛練をするのが自分だけではないことを忘れていた。
「山中も強くなってきたんだし、書文もがんばらねーとな?」
冷人が口の端を吊り上げニヤリと笑う。書文も笑って応じた。
「もちろんだよ」
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