八話 転換
——栄和出版社——
「おはようございます」
進藤は編集部に入ると、デスクに向かいながらあいさつをした。
「おはよう。進藤、新しく記事にできそうなネタは見つかったか?」
編集長の坂口が進藤の方を見た。
「すみません。ちょっと行き詰まってまして……。でも、何とか見つけます」
「了解、頼んだよ。あと、今お願いしてる原稿の方もよろしく」
坂口は軽く手を振った。
進藤は「分かりました」と返事をしてから、頭を下げた。
パソコンの電源を入れると、進藤は少しの間、画面を見つめていた。
「はぁ……、新しい記事どうしようかな……」
小さく息を吐き、書きかけの原稿に取りかかった。
「もうお昼か」
ふと、後ろの方から誰かの声が聞こえた。
進藤も時計を見ると、いつの間にか昼休みの時間になっていた。
昼食を簡単に済ませると、進藤は再び原稿に向かった。
しばらくして、キーボードから手を離すと、椅子の背にもたれて軽く伸びをした。
「うー、疲れた」
デスクに置いた缶コーヒーに手を伸ばそうとした時、ふと、デスクの上に並んだ本の一冊に目が留まった。
『哭島』
進藤は本を手に取るとパラパラとページをめくった。
それは、ある手記を元に進藤が書いたフィクション小説だった。
進藤の小説『哭島』は、発売後話題となり賞を取ることができた。そして、進藤は一躍時の人となった。
しかし受賞後、周りからの期待とは裏腹に、進藤はあの日男の部屋で見た光景が忘れられず、人の過去に踏み込むことが恐くなっていた…。
進藤は本をデスクに戻すと、缶コーヒーを一口飲み、再び原稿を打ち始めた。
ふと窓の外に目を向けると、いつの間にか夕方の光に変わっていた。
依頼されていた原稿をある程度書き上げた進藤は、ネタを探すために会社を出た。
しばらく街中を歩き回り、本屋にも立ち寄ったあと、進藤は電車に乗った。
駅に着き改札を出ると、いつものように近くのコンビニに寄ってから家へと向かった。
マンションに着くと、誰もいないエレベーターに乗り込んだ。進藤はズボンのポケットから鍵を取り出して、リングを人差し指に引っかけると、クルクルと回し始めた。
やがてエレベーターの表示が『六』になり、止まった。
開いた扉から廊下に出ると、進藤の部屋の前に人が立っているのが見えた。
鍵を回すのをやめて、進藤が近づいていくと、そこに立っていたのは城戸 蓮だった。
進藤は思わず笑みを浮かべた。
『哭島』を出版して間もない頃、初めてサインを求めてきた少年だ。彼は進藤と同じマンションに住んでいる。
それをきっかけに、進藤と蓮は少しずつ親しくなっていった。
「進藤先生!」
蓮は進藤に気がつくと、近づきながら嬉しそうに声をかけた。
「蓮くん、久しぶりだね。どうしたんだい?」
「実は相談したいことがあって…」
蓮は緊張気味に言った。
「相談? 分かった。……中に入って」
進藤は鍵を開け部屋に入ると、蓮をソファに案内した。
蓮は少し遠慮するように、グレーの三人掛けのソファの端に座った。
一人暮らしの部屋には似つかわしくない大きなソファだった。しかし、ソファで眠ってしまうことのある進藤にとっては必要なサイズだ。
「さっき買った缶コーヒーだけど飲む?」
そう言いながら、進藤は袋から缶コーヒーを取り出し、テーブルに置いた。
そして、自分はテーブルの横の床に腰を下ろした。
「それで、相談したいことって?」
缶コーヒーを一口飲むと、蓮に話しかけた。
「……実は、同じクラスの女の子で、交通事故が原因でそれまでの記憶が思い出せない子がいるんです」
「同じクラスってことは高校生か……。それまでの記憶がないって、記憶喪失ってこと?」
進藤は驚いたように蓮を見た。
「はい」
蓮は頷くと、葵のことを話し始めた。
そして、自分たちでネットの記事をいろいろ調べてみたものの、何も分からなかったことを進藤に伝えた。
「それで、進藤先生の力をお借りしたいなと思って……」
「……悪いけど、今は仕事が立て込んでいて、ちょっと難しいかな」
人の過去に踏み込むことを躊躇い、進藤は咄嗟にそう答えた。
「先生、そこをなんとか、お願いします」
蓮は深々と頭を下げて、お願いした。
「……先生って言うけど、俺はただのライターだよ」
進藤は少し困ったように、首の後ろを触った。
蓮は頭を下げたままもう一度お願いした。
進藤はしばらく考え込んでいた。
『哭島』の取材以来、人の過去には関わらないと決めたのに。
しかし、心の奥深くでは隠された真実に強く惹きつけられる自分がいる。
蓮から話を聞き、少女が遭った交通事故の裏に何か隠されている気がした。
彼女が見た夢の話や、突然頭に浮かんだ火事の映像のことも気になっていた。
「ふーっ、……分かった。でも、一つ条件がある。その記憶を失っている子のこと、過去が明らかになって記事にできそうな話なら、その時は記事にさせてほしい」
「……えっ、一度葵に聞いてみます……」
「じゃあ、OKもらえたら、その子と一緒にうちに来てよ」
蓮は少し複雑な表情をしたまま帰って行った。




