四話 家族
葵は黙って玄関に入った。
リビングのドアを開けると、キッチンにいた母が振り返った。
「あっ、おかえりー」
いつもと変わらない母の笑顔。
それを見た葵は、先ほど玄関の前で感じた妙な違和感を忘れようとした。
「……ただいま」
「今日はどうだった? 水族館、楽しかった?」
母はニコニコしながら聞いた。
「……うん、色々な魚が見られて楽しかったよ。イルカショーも見られたし……でも、たくさん歩いて疲れちゃったから、少し部屋で休んでくるね」
そう言うと、葵はリビングを出た。
「楽しめて良かったわね。 今日の夕飯は葵の好きなオムライスだから」
閉まりかけたドアの向こうから母の声がした。
二階に上がると、『AOI』と書かれた木製のドアプレートが掛かっている部屋の前で立ち止まった。
(私ってオムライスが好きなの?)
……少し考えたが、何も思い出せなかった。
中に入ると、葵はすぐにベッドに倒れ込んだ。
ぼふっ、という音を立てて、体がベッドに沈み込んでいった。
目を閉じると、このまま、どこまでも深く沈み込んでしまいそうな気がした。
やがて目を開けると、薄暗い部屋の天井が見えた。
「はぁ……、あの火事のような光景はなんだったんだろう……」
葵は一人呟いた。
「お母さんとお父さんに聞いても、教えてくれないだろうな……」
葵の両親は、交通事故のことや、葵の過去について、あまり話したがらなかった。
葵はまた、しばらく目を閉じた。すると、入院していた頃の光景が脳裏に浮かんできた。
葵が病院のベッドで目を覚ました時、見知らぬ男女が心配そうにそばに座っていた。
「よかった……」
女性はそう呟くと、安堵したように息を吐いた。
「……ここどこ?」
「ここは病院よ。今、先生を呼んでくるわね」
女性は慌てて病室を出ていき、しばらくすると白衣を着た男性を連れて戻ってきた。
そのあと、その男性からいくつか質問されたけれど、自分の名前も何も分からなかった。
色々な検査を受けたあと、病室に戻ると、最初にいた男女が座って待っていた。その二人は、自分たちが葵の両親だと名乗った。
「あなたは、ひどい交通事故に遭って、頭を強く打ち付けたみたいなの。……それで、記憶に障害が出てしまっているの。……だから、今は何も思い出せないのよ」
ただ、そう伝えられた。
目が覚めてからも、何日かは病院にいた。
その間に何度かスーツを着た人達が病室に来たけれど、何を聞かれたのか記憶に靄がかかっていて思い出せない。
退院して、家に戻ってから数日、葵は自分の部屋や、家の中を何度も見て回った。
でも、何も思い出すことはできなかった。
「ねぇ、お母さん。……私って本当にここに住んでいたの?」
「……あ、あなたが病院に入院している間に、こ、ここに引っ越してきたのよ」
母は少し言葉に詰まりながら話した。
「引っ越してきたって……どうして?」
「……ま、前に暮らしていた所が事故が起きた場所に近かったから……そこで暮らし続けることがつらかったのよ」
そう言った母の顔が悲しそうだったことを思い出した。
「葵、ごはんできたわよ」
一階から母の呼ぶ声がして、葵は目を開けた。
葵はベッドから起き上がると、一階へ向かった。
リビングに入ると、テーブルにオムライスが置かれていた。
「いただきます」
葵は椅子に座り、オムライスを口に運んだ。
「美味しい」
そう言ったものの……自分が本当にオムライスが好きなのかどうかは、分からなかった。
「前に、この家に引っ越してきたって話してたよね?」
葵は向かいに座っていた母に話しかけた。
「え、ええ。そうよ」
「前に住んでいた場所ってどこなの?」
「そ、それは……ここと同じ区なんだけど、少し離れた場所よ。でも、どうしたの急に?」
葵は少し考えるように俯いた。
「……なんとなく、前に住んでいた場所のことも思い出せたらいいなって思って」
そう言うと、母の顔を見つめた。
「……そうね。でも、無理に思い出そうとしなくてもいいのよ」
「うん……」
葵はしばらく黙って、母の言葉を考えていた。
オムライスを食べ終え、麦茶を一口飲んでから、葵は再び母に声をかけた。
「……あのね、今日、水族館のあと三人で公園に行ったんだけど、その時突然、火事のような光景が頭に浮かんできたの」
「……」
母は何も答えなかった。
ただ黙ったまま、テーブルの上に視線を落としていた。
「ねぇ、お母さん、私の事故となにか関係あるのかな?」
「……じ、事故のことは、思い出さなくていいの」
母は小さく呟いたあと、再び黙ってしまった。
葵はそんな母の様子をじっと見つめた。
事故のことや自分の記憶について聞くと、母はいつも気まずそうな表情を見せ、ほとんど話してくれない。
まるで、何かを隠しているかのように。
(やっぱり、何か変だな……)




