三話 友達
二〇一二年 五月——
朝、葵が教室の席に座っていると、美咲が声をかけてきた。
「あのさー、……今度の土曜日なんだけど、蓮と三人で水族館に行かない?」
そう言った美咲の声はどこか緊張しているように聞こえた。
「……水族館。うん、行きたい」
葵はにっこりと微笑んだ。
「良かったー。じゃあ、待ち合わせ場所とかあとで、三人で決めよう」
葵の笑顔を見て、美咲がほっとしたように言った。
土曜日——
「おはよう。ごめん、待たせちゃった?」
美咲と蓮が駅の切符売り場の前にいるのを見つけた葵は、白いロングスカートをふわりと揺らしながら駆け寄った。
「おはよう。私たちもさっき来たばかりだよ。それにまだ待ち合わせ時間前だし全然大丈夫だよ」
美咲は駅の時計を見ながらニコッと笑った。
「今日の葵ちゃんの服装、すっごく大人っぽくていいね。ねぇ、蓮」
「あ、ああ、……そ、そうだな」
いつもの制服とは違う葵の姿を前に、蓮は少し照れたように答えた。
「そうかな?……ありがとう」
二人に褒められて葵は少し恥ずかしそうに言った。
三人は改札を通ると、ホームに止まっていた電車に乗り込んだ。
車内で葵は、今朝見た不思議な夢の話を二人にした。
夢の中で、初めて見る男の人に『お父さん』と呼びかけていた。
しかし、その男の人は葵の呼びかけを無視して、そのままどこかへ行ってしまったのだという。
「葵ちゃんが知らない人なのに、どうして『お父さん』って呼んだんだろうね?」
「……分からない。でも、夢の中では、その人をお父さんだと思っていた気がするの」
葵は首を横に振りながら美咲の質問に答えた。
「……そういえば、夢の中でもう一つ変なことがあったの」
「え、何?」
「私の隣に男の子が一人いたの。顔は見えなかったんだけど、その子が『お姉ちゃん』って言ってたの」
美咲は少し驚いたように、葵の顔を見つめた。
「えっ、葵ちゃんって、確か一人っ子だったよね? 親戚の子とか?」
「……分からない」
そう言いながら、葵はまた首を横に振った。
蓮は、しばらく黙って葵を見つめていた。
葵の話に、何か引っかかるものを感じていたが、それが何かは分からずただ黙っていた。
電車を降りると、葵と美咲が並んで歩き、その後ろを蓮が歩いていた。それは、いつもと変わらない光景だった。
水族館に近づくにつれ、潮の香りが少しずつ強くなってきた。
海から吹いてくる風が、三人の髪をそっと揺らした。
「うわー、潮の匂いだー」
美咲がニコニコしながら言った。
「えっと、高校生三人です」
水族館に着くと、窓口でチケットを買い、パンフレットを受け取った。
「ねぇ、ねぇ、イルカショー見たーい!」
入口に入る前に、パンフレットを見ながら美咲がはしゃいだ。
「おーい、まだ中に入っていないのに、はしゃぎすぎ」
蓮がツッコんだ。
「いいじゃーん、三人で遊びに行くの初めてなんだから」
頬を膨らませながら美咲が言った。
「イルカショー、私も見たい」
美咲の隣で葵がにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、ショーまでまだ時間あるし、先に他を回ろっか」
微笑んだ葵の顔を見て、蓮は少し照れたように言った。
水族館の館内はエリアごとに展示が分かれていた。三人は少し薄暗い通路を進んでいった。
一面ガラス張りの大きな水槽の中を、色とりどりの魚が泳いでいた。
魚の群れが一斉に方向を変えるたび、水槽の中に差し込んだ光が揺らめいた。
「見て、あの魚。すごく大きい」
美咲が指をさした。
「ほんとだ。あんなの海の中で見たら怖いな」
蓮が笑いながら言った。
そんな会話をしながら、三人は展示を一つずつ見て回った。
しばらくして、だいたいのエリアを回り終えると、三人はイルカショーの場所へ向かった。
「これよりイルカショーを開始いたします。…………」
スタッフによる開始のあいさつのあと、客席に水しぶきがかかることがあるからと注意説明があった。
「それでは、お待たせいたしました。 イルカのレンくんの登場です」
「レンくん?」
葵と美咲が蓮の方を向き、同時に言った。
「な、なんだよ」
蓮は恥ずかしそうに言った。
葵と美咲の笑い声が重なった。
イルカの大迫力なジャンプで水しぶきが飛んできて、葵と美咲が楽しそうに声を上げた。
ハンカチで顔を拭きながら、三人は笑い合った。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
「あー、お腹すいたー」
イルカショーを見終わると、美咲が倒れそうなマネをして言った。
蓮が腕時計を見ると、十二時を少し過ぎたところだった。
「だいたい回れたし、ごはん食べに行こうか」
蓮の提案に二人も賛成した。
水族館を出て、お昼ごはんを食べたあと、三人は海沿いにある公園にやって来た。
「ねぇ、あのベンチに座らない?」
美咲が一本の木のそばにあるベンチを指さした。
「いや——!」
突然、葵が両手で顔をおさえ、蹲り叫んだ。
「えっ!」
美咲と蓮は驚いて葵に視線を向けた。
「どうしたの? 葵ちゃん」
美咲が葵のそばに行き心配そうに声をかけた。
しかし、葵は何も答えず、ただ首を横に振っていた。
取り乱した葵を美咲が優しく抱きしめた。
蓮も隣で心配そうな表情で葵を気にしていた。
「……ごめんね。驚かせちゃって……」
しばらくして、落ち着きを取り戻した葵が言った。
「ううん。大丈夫だよ」
美咲が優しく声をかけた。
「……さっき、突然、火事のような光景が頭に浮かんできたの……」
葵はゆっくりと話した。
「えっ、火事……?」
美咲は一瞬言葉を失い、葵を見つめた。
「それって、失われた記憶の断片なのかな?」
蓮が呟いた。
「……分からない。二人とも、心配かけてごめんね」
葵は申し訳なさそうに二人を見つめた。
「朝から色々回って疲れが出たのかも。今日はそろそろ帰ろっか」
葵を気遣い美咲が声をかけた。
帰りの電車の中で、蓮は黙って一人考え込んでいた。
(火事って……やっぱり葵の失われた記憶と関係しているのだろうか。もしそうなら——。
葵の記憶を、取り戻すことはできないだろうか……)
駅の改札を出ると、三人はそれぞれの帰路についた。
葵は二人に手を振ると、一人で家へと向かった。
『水沢』と書かれた表札の前で足を止めた。
バッグから鍵を取り出し、ゆっくりと玄関へ近づいた。
ドアを開けようとした時、
「……ただいま」
そう言おうとしたのに、なぜか声が出なかった。
葵は一瞬、知らない家に帰ってきたような感覚に襲われた。




