二話 記憶
二〇一二年 四月——
水沢 葵には、思い出せない過去がある。
生まれてから中学校を卒業するまでの記憶が、抜け落ちている。
家族のことも、友達のことも、自分がどんな子どもだったのかも、何一つ思い出せない。
しかし、読み書きや計算、日常生活に必要なことは覚えていた。
失われているのは、自分が生きてきた記憶だけ……
高校の入学式を終えた翌日、葵が一年二組の教室の席に座っていると、肩をポンポンとたたかれた。
振り向くと後ろの席に座っている女の子がニコッと笑った。目がくりっとして、微笑んだ時にできるえくぼが印象的な子だった。
「私、森川 美咲。◯◯中出身なんだけど、あなたは?」
ニコニコしながら美咲が尋ねた。
「えっと……」
葵はとっさに答えられず口籠った。
「あ、ごめん。急に話しかけちゃって。驚いたよね……名前なんて言うの?」
美咲は苦笑いしながら尋ねた。
「……水沢 葵」
「葵ちゃんかー、可愛い名前だね。髪の毛長くてサラサラで、ちょーきれいだね。羨ましい」
美咲はニコッと微笑んだ。
美咲はいつも明るく、葵に話しかけてくれた。
そんな美咲に葵も、少しずつ心を開くことができた。
記憶を失ってからの葵に初めてできた友達だった。
数日後——
道に落ちた桜の花びらが、風に吹かれて舞っていた。
桜の木にも、少しずつ緑の葉が混じり始めていた。
葵が学校の門を入ったところで、後ろから美咲に声をかけられた。
「葵ちゃん、おはよー」
「おはよう」
葵が振り返ると、美咲は少し長めの黒髪をした一人の男の子と一緒に歩いていた。
「あ、こっちは、同じクラスの城戸 蓮。小学校からの幼馴染なんだ」
葵の視線が蓮に向いているのを見て、美咲が紹介した。
「……おはよう」
美咲に紹介された蓮が葵に声をかけた。
細身で、どこか大人しそうな雰囲気の蓮を見ていると、葵はなぜか胸の奥に小さな違和感を覚えた。
「葵ちゃん?」
しばらく蓮を見つめていた葵を心配して美咲が声をかけた。
「……ごめん、城戸くんが誰かに似ている気がして……でもそれが誰なのか思い出せなくて」
葵にしばらく見つめられていた蓮は、少し照れくさそうな表情を見せた。
この日から、葵は蓮とも少しずつ仲良くなっていった。
休み時間に話をしたり、三人で昼食を食べたり。
そんな時間を重ねるうちに、葵にとって二人は少しずつ大切な友達になっていった。
ある日の帰り道、葵は美咲と蓮と歩いていた。
少し離れたところから、男の子が誰かを「お姉ちゃん」と呼ぶ声が聞こえてきた。
その言葉を聞いた瞬間、理由の分からない懐かしさが込み上げてきた。
なぜそんな気持ちになったのか分からないまま、葵は思わず立ち止まった。
「葵ちゃん、どうしたの?」
そう美咲に声をかけられ、葵は首を横に振った。そして、何でもないと答えると、再び歩き出した。
数週間後——
いつものように三人で帰っている時、
「あのね、……二人に話しておきたいことがあるの」
葵が不安そうに美咲と蓮に話しかけた。
「話しておきたいことって何?」
いつもと少し違う葵の様子を見て、美咲が静かに尋ねた。
「……ごめん。でもここだと他の人に聞かれちゃうから、別の場所で話したいんだけど……」
葵は周りを見回しながらそう言った。
「じゃあ、うちに来る? 親は仕事でいないから」
そう言った美咲の提案に、葵は頷いた。
「お邪魔します」
葵と蓮は玄関で靴を脱ぐと、美咲のあとに続いて階段を上った。
美咲は二人を自分の部屋に案内すると、飲み物を取りに一階へ下りて行った。
「お待たせ。はい、ジュース」
「ありがとう」
葵と蓮の声が重なった。
「私たちに話しておきたいことって……?」
美咲は床に座ると、葵に声をかけた。
「……あのね、実は、……私には過去の記憶がないんだ」
葵は言いにくそうに打ち明けた。
「えっ、……過去の記憶がないって、どういうこと?」
驚いた美咲が心配そうな顔で聞いた。
しばらく沈黙したあと、葵は重い口をひらき、再び話し出した。
「両親から聞いたんだけど、……私、中学三年の冬に交通事故に遭ったの。……そのあと病院で目が覚めたんだけど、……それまでの記憶がないの」
突然の告白に、美咲と蓮は驚いた。
何と声をかけていいのか分からず、二人はただ葵を見つめていた。
「友達のことも、家族のことも、それに自分のことも、何も思い出せないの」
「……そんな、自分のことも」
美咲が呟いた。
「それで、二人にこの話をしたのは、……二人のことも、いつか忘れてしまうかもって思ったからなの。せっかく仲良くなれたのに……」
葵の目には涙がにじんでいた。
「……でも、事故のあと、目が覚めてからのことは覚えてるんでしょ?」
美咲が質問した。
「うん、……でも入院してた時のことはあまり覚えていなくて、記憶に障害があるから、もしかしたらまた忘れちゃうかもって、心配になっちゃって……」
葵の目から涙がこぼれ落ちた。
「もし、葵がオレたちのことを忘れてしまったとしても、オレたちが葵のことを覚えているから。……ずっと、友達だから」
それまで黙っていた蓮が口をひらいた。
「そうだよ。ずっと、友達だよ」
美咲は優しく葵を抱きしめた。
「……ありがとう」
葵は涙を拭いながら、二人に笑顔を向けた。
—— ——そのときだった。
『……葵』
頭の中に、知らない誰かの声が響いた。
葵は、思わず振り返った。
そこには、オレンジ色をした夕日の光が、窓から差し込んでいた。




